12

「ん…」


苦しげに眉を寄せて、***はベッドの中で身を捩った。


傍らに置いた椅子に座っていたローは、その音にゆるく瞑っていた目をあけた。


「ロー…?」

「…気付いたか。」

「あれ、私、なんで…」


そう問われて、ローは目を少しばかり逡巡させたのち、こう答えた。


「…ぶっ倒れたんだよ、おまえ。」

「え?」

「働きすぎだ、バカ。飯ちゃんと食ったのか。」


ローにそう言われて、***は申し訳なさそうにまつ毛を伏せた。


「そ、そうだったんだ。ごめんね。迷惑かけて…」

「…今日はもうこのまま休め。」

「だっ、大丈夫だよ、私、」

「船長命令だ。」

「う、」


そう言えば、***はむぐっと口を噤んだ。


「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて…」

「あァ。気分はどうだ。悪くねェか。」

「う、うん。大丈夫。」


そう聞いて、ローは椅子から立ち上がった。水でも持ってきてやろうと思ったのだ。


しかし、それは叶わなかった。くんっ、と、何かに引っ張られた。


着ていたパーカーの裾を見ると、***の手がそこを掴んでいた。


「?なんだよ。」

「…行かないで。」

「…あ?」


ローは、眉をしかめて***を見た。***は、ひどく怯えた目をしていた。


「…怖い夢、見たの。」

「夢?」

「うん。…ローが、」


ぎゅっ、と、裾を握る手に力がこめられた。


「ローが、遠くに行っちゃう夢。」

「…おれが?」

「うん。それで、…一生、会えなくなっちゃう夢。」

「…………………。」

「だから、」


行かないで。ここにいて。


***は、微かにそう言った。


縋るように握られた裾は、丸めた紙のように歪んでいて、それが***の心情を表している。


ローは、***のその手をひとなでして、包みこむように握った。そして、握ったまま再び椅子に座った。


「…………………。」

「…………………。」

「ご、ごめんね。変なこと言って、困らせて…」

「…おまえが変なこと言うのも困らせられんのも、もうなれた。」

「あ、はは、そうだね。」

「…………………。」

「…そうだね。」


そう呟くと、***は安心したように目を瞑った。


「ごめんね、ロー。なんだか、眠くって…」

「…あァ。ゆっくり眠れ。おれは、ここにいるから。」


ありがとう、と言って、***の唇は綺麗に弧を描いた。


「起きたら、おにぎり作ってあげるね。」

「…あァ。」

「一緒に、食べようね。」

「…あァ。」


わかっていて、ローは約束をした。


目を覚ました時、***はその約束を覚えてはいない。


それどころか、自分のことも、もう思い出すことはないだろう。


それでも、そう約束をした。


これが最後だと、そう思ったからだった。


ローは眠りにつく***のカオを見つめながら、もともと丸まった背を、さらに丸くした。


ー…‥


数日後。


船内から聞こえてきた騒ぐような声に、ローは医学書におとしていたカオを上げた。


背中でうつらうつらしていたベポも、その声に不安げな目をローへ向けた。


ローは医学書を閉じると、ベポに預ける仕草をした。


それを受け取ったベポと共に、声のしている船内へと向かった。


ー…‥


「落ち着けって、***!」

「***ちゃん、おれたちゃなんもしねェって!」

「そうそう!敵なんかじゃねェんだって!」

「さ、飯を食わないと死んでしまうぞ?いい子だから…」


シャチとペンギンを筆頭に、クルーたちが口々にそう宥めた。


その相手といえば聞く耳を持たず、尚も手足をばたつかせている。


その両手、両足は、手錠と足枷で繋がれていた。


少し油断すると、***は船の外へ出ようとする。


船の外、というのは、もちろん海だ。


ここ数日、たびたび目にするこの光景に、ローは小さくため息をついた。


ヤジ馬のように群がっているクルーたちをかき分けて、ローは中へと入った。


ローの足音がすると、ペンギンもシャチも他のクルーも、縋るような目でローを見上げた。


***はというと、怯えの中に一筋の敵意を含んでローを睨みあげている。


そして、その口から出る言葉は決まって。


「ここから、出してください…」

「…………………。」

「お願い、っ、家にっ、帰らせてくださっ、」


そう言って、カオをくしゃくしゃに歪めて、泣くのだった。


床には、***のために用意された食事が散らばっている。


泣きじゃくる***を見下ろしながら、ローは大きく息を吐いた。


「おまえら、もういい。あとはおれがやる。」

「せ、船長、でも、」

「なんかあったら呼べ。」


ペンギンの言葉を制して、ローは散らばった食事を片付け始めた。


クルーたちは皆、しばらく困惑していたが、やがてペンギンに促されて船長室をあとにした。


「ったく…もったいねェことしやがって。」

「…………………。」

「船の上じゃあ、少しの食材も貴重なんだぞ。」


そう言うと、***は申し訳なさそうに眼球を彷徨わせた。


こういうところは、***のままらしい。


「飯は食え。船から出ようとするな。おれの指示にはすべて従え。面倒をかけるな。それから、」


ローは、***を威圧するように目を吊り上がらせて言った。


「家には帰さねェ。」

「っ、」

「いい加減あきらめろ。」


そう吐き捨てるように言いながら、ローは片付け終わった食事をテーブルに置いた。


そして、ふと何かに気が付くと、カオをしかめて***の傍らにしゃがみこんだ。


「おまえ、カオに傷ついてんじゃねェか。」

「…………………。」

「暴れすぎだ。少しはおとなしく、…!」


***のカオにふれようと、手を伸ばしたその時。


***の歯が、ローのその手に突き立てられた。


じわりと、刺青の上に血が滲む。


***は、興奮した猫のようにふーふーと息を漏らしていた。


「…主人に噛み付くとは、しつけのなってねェ犬だな。」

「さ、さわらないでっ、」

「おれに指図するな。」


ローは、テーブルの上に乗っていたフォークを手に取った。


***の身体が、おもしろいようにびくびくと揺れる。


それを手にしたまま、再び***に近付くと、***は怖れからか固く目を閉じて身を縮こまらせた。


「…………………。」

「…………………。」

「…おい。」

「…………………。」

「さっさと目あけて食え。」

「…?」


ローのその言葉に、***は怪訝に思いながらそっと目をあけてローを見上げた。


人相の悪い男が、フォークに刺されたケーキを差し出している。


「どうせこんなことだろうと思って、買ってきた。」

「…………………。」

「これなら食えんだろ。」


***は、こきゅりと喉を鳴らした。


空腹のはずだ。目を覚ましてからというもの、***は警戒心から何も口にはしていなかった。


「毒なんて入ってねェよ。」

「…………………。」

「おまえなんかを殺して、なんになる。」

「…………………。」

「おれは、必要のないことはしない主義だ。」

「…………………。」


***はフォークの先をしばらく見つめたのち、小さく口をあけた。


ローは、***が怯えないように、そっとそれを中に押しこんだ。まるで、赤子でも相手にしているようだと、ローは思った。


「うまいか。」


そう尋ねると、***は少し戸惑ってからおずおずと首を上下に振った。


ローは、思わず笑ってしまった。


「新しい飯を持ってくる。今度はひっくり返すなよ。」


フォークとケーキの皿を***の手に握らせると、ローは立ち上がった。


「…必要なんですか。」


ドアノブに手をかけたところで、そんな音が聞こえてきた。あまりに小さくて、それが***の声だったとわかるのに数秒かかった。


「…なに?」

「あ、あの、ですから、」


自分の足元に眼球を彷徨わせてから、***はローを見上げた。


「私が、必要なんですか…?」

「…は?」

「い、いや、だって、…家には帰さないって。」

「…………………。」


予想外の質問に、ローは答えに困窮した。***は、そんなローの口元を、じいっと見つめている。


「…あァ。」

「…どうして?」

「…おまえは?」


***の問いには答えずに、ローは尋ねた。


「おまえは、どうなんだ?」

「…え?」

「おまえは、おれが必要なのか?」


そう問えば、***は見るからに当惑した。それはそうだ。以前の***ならまだしも、今の***にはローの記憶がない。


出会って数日の、しかも誘拐犯にそんなことを尋ねられるとは思わないだろう。


ローは、そんな自分を小さく笑った。


「…いや、いい。忘れろ。」


そうとだけ言って、ローは船長室をでた。


―…‥


「あっ、キャプテン!」


シャチがそう声を上げると、そこにいた全員の目がローに向く。


皆、心配そうに眉を情けなく下げていた。


「悪いが、飯を作り直してくれ。」

「え?」

「さっきケーキを食わせた。今なら食うだろう。」


そう告げると、クルーたちの表情に輝きが射した。


コックが慌てて厨房へ駆けこんで行った。


「船長も少し食べてください。朝から何も口にしていないでしょう。」


ペンギンのその言葉と一緒に、ローの眼下にはおにぎりが置かれた。


コックが作ったのだろう。形がきちんと整っている。


***が作るそれは、いつもどこか歪だった。大きさもまばらで、ローによくからかわれていたものだった。


「…それ。」

「え?…あァ、」


ローの視線が自分の左手に注がれていて、ペンギンはそれをテーブルに置いた。


「見張り台にあるのを見つけたんです。」

「…………………。」

「見張りしながら、読んでいたんでしょうね。」


ローは、その表紙をめくった。タイトルと一緒に、男と女が見つめあっている絵が描かれている。


***が最近夢中になっていた、あの童話の本だった。


「…***が今必要としてるのは、この男なんだろうな。」

「…はい?」


端正に描かれたその男の絵に、ローは指を滑らせた。


「来もしねェ『王子様』とやらを、***はきっと待ってる。」

「…………………。」

「少なくとも、海賊であるおれなんかじゃない。」

「船長…」


ローは本を閉じると、ペンギンへ差し出した。


「届けてやれ。気晴らしになるだろ。」

「…はい。」


ペンギンが去ってから、ローはおにぎりに手を伸ばした。


一口それを頬張ってから、ローは再び皿に戻した。


「…うまいな。」


そう言って、それ以上口はつけずに、ローは席を立った。


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