初恋

 なにやってんだろう。私。
 見張り台から水平線を眺めながら、もう何度目かわからないため息を吐く。息が白くなるほどではないけれど、陽が昇りきっていない早朝は少し肌寒い。
 昨日、ローはあのまま街へ出かけて行ってしまった。謝ろうにもそうすることができず、探しに行こうにもそれはそれで勇気が出ず、結局何もできないまま夜を越してしまった。
 くしゅん。くしゃみが出る。肩に掛けている毛布を、カオが半分隠れるくらいまで引っ張り上げた。
 ──おれはちゃんと、恋してる。これで満足か。わかったら二度と余計なことすんな。
 怒って当然だ。頼まれてもいないのにお膳立てして、人の気持ちを操作しようとして。ローにもララにも、とても失礼なことをしてしまった。
 いや。激怒されただけならどれだけいいか。
 ローの、今にも泣き出しそうなカオを思い出す。
 ロー、傷ついたカオしてた。あんなカオ、初めて見た。幸せにするとか偉そうなこと言っておいて、あんなカオさせてしまうなんて。
 涙がにじんで、視界がオレンジ色に歪む。太陽が三分の二程度カオを出した。
 謝ろう。ちゃんと。ローが帰ってきたら。ゆるしてくれるまで何度でも。それで、もう二度とこんなことはしない。
 じんわり甘やかしてくれる太陽の光に包まれて、うとうと目をつむる。
 がやがやと人の声が聞こえてきて、遠ざかりかけた意識が戻る。甲板に数人の声がして、そのなかの一つがローの声だった。他にはシャチくん、ペンギンさん、ルピ、ナルミくんの声。そういえば、シャチくんがみんなを巻き込みながらローにひっついて行ってたっけなと思い出した。
 今帰ってきたんだな。
 太陽はまだ半分ほどしか出ておらず、数分眠ってしまっただけだったんだとわかる。
 みんなが欠伸をしながら船内へ入っていく気配がして、再び甲板に静寂が訪れた。ローを追っていく勇気と気力は、今は起きなかった。
 ローが起きたら謝ろう。起きたら。
 うとうととまぶたが落ちてくる。だけど、そろそろ降りて朝食の準備を手伝わなければ。
 ふと、見張り台に続く梯子から誰かが登ってくる音がした。おそらくベポだろう。ベポにしか私がここにいることは伝えていない。
 だけど……それにしては音が軽いような。
 下を覗こうとカオを出そうとしたら、目の前にローのカオが現れて、思わず「ぎゃっ」と退いた。
「ロ、ロー」
「……」
「お、おかえりなさい……」
「……あァ」
 見張り台に上がると、ローは私の隣に腰を下ろした。
 見張り台は狭い。細身のローと並んでも、肩と二の腕が触れる。いろんな意味でドキドキしてくる。
「……島ん中に停めてるから、見張りはいらねェって言っただろ」
「そ、そうなんだけど、なんか……あ、頭冷やしたくって」
「……」
 しばらく重い沈黙が続く。
 私は、思いきって息を吸った。
「ごめん」「悪かった」
 二人分の声が被って、同時にカオを見合わせる。
「なんでおまえが謝るんだよ」
「い、いや。ローこそ」
「おれは──」長いまつげを伏せる。「八つ当たりしたから」
 えっ、と思わず声が出た。
「や、八つ当たり? あれ、八つ当たりだったの?」
「あァ」
「……どうして」
「……うまくいかなくて、イライラしてた」
「うまくいかなくてって……恋が?」
「……あァ」
「……」
 八つ当たり。ローが。
 恋がうまくいかなくて。
「……ローでも、うまくいかないとか、あるんだね」
「はァ? そりゃああるだろ」
「……そっか」
 ローが。あの理性的で冷静なローが。
 恋がうまくいかなくて、イライラして、八つ当たりしちゃうなんて。
 それくらい好きなんだ、その子のこと。
「でも……言ってること、間違ってなかったよ」
「……」
「私、ひどいことしたもん」
「……おれのためだったんだろ」
「自己満だよ。ローやララちゃんの気持ちも考えずに、人の心操作しようとしたりして」
「……」
「本当に、ごめん」
「……まァ、ララには謝っておけ」
「うん。街にいる間ララちゃんのお店に毎日通えばゆるしてくれるって」
「アイツ、やっぱりしっかりしてるな」
 ローが小さく笑い声をもらす。
 私もつられて笑った。
 それからローは何も言わず、じっと水平線を見つめていた。隣にいるから、どういうカオをしているのかわからない。
 カオ、見たいな。ふたりでゆっくり話すの、久しぶりだし。
 ローが、ふう、と長く深い息をつく。まるで、心の奥にある重い何かを吐き出すように。
「***」
「はっ、はい」
 ローは、広げた自分の脚の間を指差した。どうやら、ここへ移動しろ、ということらしい。
 え、やっぱり怒ってる?
 ローの強張った表情を見て、素直に従う。向かい合うようにして正座した。
 長い両脚の間に収まりながら、ローの言葉を待つ。ローはしばらくの間黙っていたけれど、さっきみたいな深い息をつくと、ようやく口を開いた。
「おれは、頭のいい女が好きだ」
「……は?」
「打算的で、理論的で、要領が良くて、駆け引き上手な、胸より尻のデカい女が好きだ」
 えっ。ロー、胸よりお尻派なんだ。どうでもいいところに感心する。
「それなのに、おまえときたら」
「わ、私」
「あァ、おまえだ。無茶して勝手に船は下りるわ戻ってきたと思ったら男引っかけてくるわコソコソ何かしてると思ったらトンチキな画策してるわ」
「ト、トンチキ」
「ほんと、面倒なことしかしねェ」
 面倒、が、ガツンと頭に落ちる。
「ご、ごめん」
「……それなのに」
「……」
「……」
「? ……ロー?」
 言葉が途切れたのを不思議に思い、視線だけでローを見上げる。ローは、がっくりと深くうなだれていた。
 あ、あれ? 寝た?
 カオを覗き込んだら、藍色の瞳と目が合った。オレンジ色が瞳の中に宿って、つるんとした宝石のように見える。ロー特有の睨みつけるような視線で、まっすぐに私を見つめてくる。
 かっ、かっこいい……。
 つい、ぽーっと見とれてしまう。ほんと、ローって素敵だよなァ。
 どんな人なんだろう。ローが片思いをしている人。
 かわいい系? やっぱり綺麗系? それとも、意外と純朴な子とか?
 いいな。ローに思われてる人。ローの心を独り占めできるなんて、本当にうらやましい。心の底から。
 ローを夢中にさせることができるなんて、いったいどんな素敵な――。
「おまえが好きだ。***」
 波が、ザザンと船の横っ腹にぶつかる。
 ニュースクーが、私たちの頭上をのんきに飛び去って行った。
「それでもおれは、おまえが好きなんだ」
「……」
「だから、他の女とくっつくように仕向けられて、腹が立った」
「……」
「好きな女にそんなことされてみろ」
「……」
「ショックで死にたくなる」
「……」
 いつもならドキドキしてすぐに逸らしてしまう目を、全然逸らせなかった。吸い込まれるようにローの瞳を見つめる。
「……」
「……」
「今何考えてる」
「……」
「……」
「……いや」
「……」
「……何も」
「……」
 何も考えられない。
 脳も神経も感情も、すべてがショートして、大げさじゃなく、本当に魂が抜けてしまったようだった。
「気持ち悪いか」
「……え?」
「おれに、そんなふうに思われて」
「まっ、まさかっ」
 ぶんぶんと首を横に振る。
 ローは、きょとんと目を丸くしてから、ふっと笑った。
「今すぐどうこうしてェってわけじゃねェ」
「……」
「いや。今すぐどうこうしてェけど」
「……」
「まず、ちゃんと言っておかねェとと思って」
「……」
「またあんなことされたらたまんねェからな」
 ローは、こてんと首を右に傾けた。お願い事をする子どもみたいに、弱々しく眉を寄せる。
「だからもう、へこませんなよ。いくらおれでも、心の傷は治せねェ」
 見たことのない表情に、声も、息も詰まる。
 私はただただ大きくうなずいた。
 甲板がにわかに騒がしくなってきた。太陽もすっかり昇りきっていて、今日も暑くなりそうだ。
「暑くなりそうだな」
 太陽に向かって目を細めると、ローは立ち上がった。サークルがふわんと現れる。
「朝飯、帰りにアイツらと買ってきたんだ。食堂に置いてある。だから、今日は準備の必要はない」
「あ、そ、そうなんだ」
「おまえもちゃんと食って寝ろよ」
 そう言い残すと、ローはぱっと消えた。代わりに小さな小石が見張り台に落ちる。
 ローとクルーたちの会話を遠くで聞きながら、私は再び水平線へ視線を戻した。
 ──おまえが好きだ。***。
 ……
 ……
 ……
 ……え?

 ベッドの中で何度も寝返りをしていたら、あっというまにお昼になった。
 眠れるはずがない。体は疲れきっているのに目も脳もバキバキに冴えていて、結局昨日の夜から一睡もせずベッドから出た。
 お昼ごはんの支度を手伝おうと、食堂へ向かう。足元がふらついて、喉が少し痛いのと、なんだか熱っぽい気がした。
 食堂には、ほぼ全員が揃っていた。ローもいる。
 ローは、ルピとララちゃん、ナルミくんと話し込んでいて、何やら盛り上がっていた。飛び交っている単語が医学の専門用語のようで、とても私には理解ができない。
 厨房に入って準備を手伝う。手伝いながら、ぼおっと四人を見つめた。
 ルピとララちゃんは、とても美しい。もちろん、ナルミくんも。ローに思いを寄せる三人は、見た目の美しさだけじゃなく、心の美しさも、そして教養もある。自分のやるべきことがきちんと見えていて、それを達成するためにたゆまぬ努力をしている。そして、それが結果に現れている。ローのように。
 それなのに、なんで私なんだろう。どうしてローは、こんなに足りない人間を好きになったんだろう。長い付き合いだからだろうか。それとも、足りないからこそ惹かれるものがあるんだろうか。
 考えが卑屈になっている気がして、慌てて首を振る。その振動に合わせて、頭痛がした。
 風邪引いたかも。朝方の肌寒さを思い出して身震いする。だけど、しなくていい見張りをしていたら風邪を引いてしまいました、なんて言えない。
「***? どうした?」
 すぐ隣から労わるような優しい声が聞こえて、はっとカオを上げる。
 ペンギンさんが、私のカオを心配そうに覗き込んでいた。
「あ、す、すみません。ちょっとぼーっとしちゃって」
「大丈夫か? なんだかカオが赤いような――」
「えっ。だ、大丈夫です。大丈夫」
「本当か? もしかしておまえ熱でもあるんじゃないか?」
 ペンギンさんが私の額あたりに手を伸ばしてくる。
 その手が、ガッと何かに掴まれた。
「ロ、ロー」
「……」
「……」
 ローとペンギンさんが視線を絡めている。漂っている空気が不穏だ。
「……ペンギン」
「……はい」
「触るな」
 ペンギンさんはそれには答えず、ローも答えを待っているわけではないようで、すぐさまくるりと私に向き直った。
「カオ赤ェな」
「あ、でも――」
「来い」
 ローは私の返事を聞かず、スタスタと食堂を出て行ってしまった。

 ローに続いて船長室に入ると、ローは綺麗に整頓された机の上に置いてある薬箱に手を伸ばした。
「風邪薬……ねェな。ちょうど在庫切れだ」
「あ、だ、大丈夫だよ。熱もそんなにないし……寝てれば治ると思うから」
「材料はあるからすぐできる。そこで寝て待ってろ」
 ベッドを顎でしゃくると、ローは棚から薬剤や薬研を取り出して椅子に腰掛けた。
 ローのベッドに寝転がるのは、申し訳ないような気恥ずかしいような気がして、とりあえずベッドの縁に座る。広い背中をぼんやり見つめた。
「……」
「……」
「あの……ロー」
「なんだ」
「……ごめんね」
 そう言うと、ローはぎょっとしたように振り返った。その勢いに驚いて、私までぎょっとしてしまう。
「えっ? な、なに?」
「なんだ。ごめんって」
「え? い、いや。風邪なんて引いて、お手間かけちゃって」
 そう告げると、「なんだよ」と言って、表情も体も弛緩させた。体の向きを薬研に戻す。
「……おまえな」
「は、はい」
「告白してきた人間に、安易に謝るなよ」
「……え」
「フラれたと思うだろうが」
 薬剤が擂られる音に、弱々しい声が重なる。
 信じられない。まったく信じられない。
 ロー、ほんとに私のこと好きなんだ。ほんとなんだ。
「ロ、ローは、そのー」
「あァ」
「い、いつから私のこと、その……す、好きなの」
 そう訊ねると、ローは薬を擂りながらううんとうなった。
「定かじゃねェが、自覚したのはおそらくルピと終わるほんの少し前くらいだ」
「け、結構最近……」
「というか、おまえとのことがあって終わったみたいなもんだ」
「そうだったんだ……」
 それなのにルピは、変わらず私と接してくれている。きっと、まだローのこと、好きなはずなのに。
 それにしても……そうか。ほんとに最近なんだ。そりゃあそうか。最近までべつの恋人がいたんだから。
 いくら同じ気持ちとはいえ、出会ってから今日までずっと恋してる私と、つい最近私を意識したローとでは、熱量というか、重さというか。そういったものが比較にならないほど違う。もちろん、期間ですべてが決まるとは思っていないけれど、かといって無視できるものでもない。
 どうしよう。どう返事したら──。
「できた」
 完成した薬を薬包紙に移すと、ローはそれを私に手渡した。小型の冷蔵庫の中から水差しを出してグラスに注ぐ。
「ほら、飲め」
「あ、ありがとう」
 薬を口に入れ、味がわかる前に水で流し込む。
「うえっ、にっが」
「……すげェカオ」
 ふっと笑うローのカオを見ていたら、ふいに愛しさがこみ上げてきた。今すぐぎゅっと抱きしめたいような、泣き出したいような、そんな気持ち。今までだって何度もそんな気持ちになったことがあるけれど、私はブレーキをかけるのがうまくて、その気持ちが表に出ることは決してなかった。
 だけど、出してもいいんだと思った途端、
「……好き」
 口からこぼれるように、そう言ってしまっていた。
 ローが、怪訝なカオで私を見る。
「あ? 薬が?」
「い、いや」
「……」
「……ローが」
「……」
「……ローのことが、好き」
「……」
 私だったら、好きな人に好きって言われたら、舞い上がってカオに出てしまう。だけど、ローに限ってそんなことはない。まじまじと私のカオを見つめて、何やら難しいカオをしている。
「おまえ」
「は、はい」
「流されてねェか」
「えっ……! そ、そんなこと」
「いつから」
「えっ。ええっ、と」
 一瞬、ほんとのことを言ってしまおうか悩んだけれど、それこそ信じてくれなさそうだ。それに、出会った頃から好きなのに、今まで何もアクションも起こさなかったなんて、そんなこと知られたら却って行動力がなさすぎると幻滅されてしまうかもしれない。いや、それ以前に、出会った頃から好きとか。冷静に考えると怖いし、やっぱり重い気がする。
 というようなことを光の速さで考えて、私が出した答えは、
「ふ、船下りた後、くらい、かな」
 だった。
 ローが、へェ、と気のなさそうな声を出す。
「離れて気づいた、みたいなやつか」
「う、うん」
「へェ」
「……」
 へェ、って。
 薬剤や薬研を片付ける広い背中をじっと見つめる。
 あれ。もしかして、返事とかべつにいらなかったのかな。伝えたかっただけ、的な?
「じゃあ」
「……! はいっ」
「まァ」
「はい」
「よろしく」
「う……うん」
 え、わからない。よろしく?  なんのよろしく? これからは恋人としてよろしく? 今まで通りよろしく? え? なんのよろしく?
「ここで寝てくか?」
「え? あ……ううん。部屋戻るよ」
「そうか。ちゃんと寝ろよ」
「……は、はーい」
 ベッドから立ち上がって、扉へ向かう。扉を開ける前にちらりとローを振り返ったけれど、ローは変わらず熱心に道具の手入れをしていた。
 ありがとう、と言い残して部屋を出る。
 自分の部屋に戻って、着替えてからベッドに潜った。
 ――おまえが好きだ。***。
 ――それでもおれは、おまえが好きなんだ。
 ――告白してきた人間に、安易に謝るなよ。フラれたと思うだろうが。
 ――じゃあ、まァ、よろしく。
 ローの言葉が、マーブル模様のようにぐるぐるぐるぐる脳内で円を描く。ほっぺたをつねってみたけれど、ちゃんと痛い。
 恋人同士になる……ってことでいいんだよね? あのよろしくは、そういう意味だよね?
 発狂しそうになりながら、ベッドの中で身悶える。
 が、すぐにぴたりと動きを止めた。
 だけど、あのローの冷静な対応……あまり浮かれた様子は見せないほうがよさそうだ。めちゃくちゃ嬉しくて、めちゃくちゃ浮かれてるけど。ちょっとでも気を抜いたら、私の愛の重さがバレてしまいそう。
「あくまで冷静に、いつも通りに……」
 ――おまえが好きだ。***。
 ……
 ……無理かも。
 熱が上がってきた気がして、布団を頭の上まで被った。

初恋

 ? なんだ? この陽気な鼻歌は……。
 ぺっ、ペンギン! 大変だ! 船長がっ、船長が鼻歌を……!
 なに!? 船長が……鼻歌!?
 なんかキャプテン、うきうきしててかわいいね!
 ……(おまえが言うな)
 ……(おまえが言うな)


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