恋心

 三日もうじうじしていたらうじうじしていることに飽きてきて、少しずつ元気を取り戻していった。
 あの敵船地獄の日々が嘘のように平和な航海が続いている。それはそれでみんな退屈そうだけど。
 そろそろお昼でもいただこうと、賑やかな食堂の扉を開ける。
 その先の光景に、私はぎょっとした。
 みんなが本を読んでいる。私とナルミくんが買った、あの本を。
「なっ、なっ……!」
 わなわな震えていると、後ろから「ごめん」と声がした。振り返ると、申し訳なさそうな表情でナルミくんが立っていた。
「ナっ、ナルミくんっ。この状況は一体──」
「本持って歩いてるところ、運悪くシャチに見つかって。それからなんか広まっちゃったんだよね。でも安心して。全部おれが買ったって言ってあるから」
「えっ。で、でも、ナルミくんが誤解されるなんてだめだよ。もとはと言えば私のお願いだったのに」
「べつに全然かまわないよ。見つかったおれが悪いし」
 私とナルミくんが買った計八冊の本を、みんながみんな真剣に読んでいる。シャチくんなんてページをめくるたび「おおっ……」と感嘆の声をあげていた。
「み、みんな退屈だからって、あ、あんな本をあんな正々堂々と──」
「それがさ、結構キュンとするとかで人気なんだよね。ペンギンなんて、ほら」
 ナルミくんがキッチンのほうを指さす。ペンギンさんは、片手間で寸胴鍋の中身をかき混ぜながら、真剣に本に視線を落としていた。うっすら涙ぐんでいるようにも見える。
「確かに、過激なシーンもあるけど、ベースはラブストーリーだもんね……」
「みんな意外と愛に飢えてるのかもね」
「はァ……」
 納得がいったようないかないような。複雑な心境でお昼ごはんを食べた。

 洗濯物を干そうと甲板へ出ると、ローがいた。潜水をしていない日の日課で、手すりに寄りかかって本を読んでいる。
 すらりとした手に収まっている本を見て、ぎょっとした。
「ロ、ローも読んでるの? それ……」
「あ? あァ」
 生返事をしてから本に目を戻す。存外真剣な眼差しだ。
 そんなローを尻目に、洗濯物に取りかかる。けれど、どんな感想を抱いているのか気になって、ちらちらと盗み見してしまう。あれは私の購入本(全三巻のうちの二巻)だ。
「お……おもしろい?」
「……まァ、それなりに」
「どんなところが?」
 ローは、ちらりと私を見上げてから、ページをぱらぱらとめくった。
「処女への配慮とかが、まァまァ勉強になる」
「しょ……! な、なるほど……」
 動揺を咳払いでごまかす。確かに、私が買った漫画は経験豊富な男の人が恋愛初心者の女の子を好きになるストーリーだった。
「初めての女とはしたことねェしな」
「えっ。そういうのってわかるものなの?」
「? なんだ。そういうのって」
「だ、だから、ほら。そのー、お、女の子が、経験あるとかないとか」
 もごもごとそう口にすると、ローは気まずそうに瞳を揺らした後で、まァ、とだけ言った。
 へ、へェ。そういうものなのか。どういうところでわかるんだろう。もしかして、事前に確認するのが礼儀とか? お、奥が深い。
 そのとき、脳裏にふっとある疑問が浮かんだ。ほとんど間を置かず、なんの考えもなしに訊く。
「ローって……初体験はいつなの?」
 ローはぎょっとしたように私を見た。思いきり眉をしかめて、はァ? と言う。
「なんだよ、急に」
「い、いや、深い意味はないんだけど。ただなんとなく、いつだったんだろうなーって」
「……」
「ほらっ、なんかもう、気づいたときには玄人みたいな感じだったからさ」
「玄人……」
 それきりローは黙り込んでしまった。葛藤するような表情で腕を組む。
「あ、いや、その……言いたくなかったら全然」
「いや。べつに言いたくないってことはねェけど……気になんのか?」
「えっ。いやっ、そのー」
「まァ、過去のことだしな」
 ローは、手すりに深く腰をかけ直した。何かを思い出すような、ぼんやりとした目になる。
「ペンギンたちを乗せてすぐくらいの頃、ベポがさらわれたの覚えてるだろ」
「え? ……もちろん。覚えてるよ」
 今思い出しても全身に冷や汗がにじむ。あれは、まだローにさえ懸賞金が賭けられていなかった頃の話だ。
 海の真ん中で遭遇した海賊船にボロボロにやられてしまった私たちは、ベポをさらわれてしまった。しゃべる熊がめずらしいからと、売り飛ばす目的だったらしい。
 重傷を負いながらも、ローはベポ解放の交渉のため、船にあったありったけのお金や食料を持ってひとり敵船に乗り込んだ。たぶん、あのときのローは、自分が命を落とすことも覚悟していたと思う。
 私は、ローやベポの身に何が起きているのか考えるのも恐ろしく、かと言って何もできず、三日三晩ただただ船の片隅で震えていた。ローとベポが帰ってきたのは四日目の朝で、ふたりはかなり衰弱していた。生きて帰ってこられたのは奇跡だった。
 あの三日間、何があったのか。ローは今でも語っていない。
「あの船の船長、覚えてるだろ」
「うん。確か女の人だったよね。ものすごく強かった……」
「おれが初めて女を抱いたのはあの日……相手はあの女だ」
 息が止まる。同時に、あの三日間で何があったのか。察しがついてしまった。
 ローは私の反応を気にかけながら、どうでもいいことのように話す。
「血気盛んな、生意気なクソガキが気に入ったんだろうよ。三日、自分の好きにさせたらおれもベポも解放してやると言った。それを信じたわけじゃなかったが、もうそれにのるしかなかったんだ」
 私はショックを隠しきれなかった。まさかローが、性暴力を受けていたなんて。
「ごめん……そんな……つらいこと思い出させて」
「……つらい?」ローは空を見上げる。「あのときは、それ自体がつらいとは、思わなかったな」
「え?」
「とにかくベポを取り返そうと必死だったからな。行為自体はべつになんてことなかった。見た目も悪くない女だったし、初めてってことにこだわりもなかったしな。正直、慣れてくると普通に楽しめた。それからもこの体は結構使えた。おれの何がそんなにいいのか知らねェが、女も男もよく釣れた。だから──」ローは本をぱらぱらとめくった。「初めてしたのが、こういう……好きな女と、みたいな感じだったら。おれの体は、そういう使い方はできなかったかもしれない。そのおかげで船をまもれたこともあったんだ。結果オーライだ。今はそんなことしなくても、実力もあるし仲間もいる」
 穏やかなローの表情に、私のショックも幾分かやわらいでくる。
 ローは、私が知っている以上に、さまざまな局面を乗り越えてきたんだ。……船長として。
「でも……もうこれからは、そういうのはしたくねェなァ……」
 ぼそりとつぶやかれたその言葉に、胸がきゅうと痛くなる。
「ロー!」
「うおっ」
 ローの両手を包み込むようにして握ると、鼻息荒く言った。
「大丈夫! ローのことは、私が絶対、ぜーったい幸せにする!」
「……」
「だから、全部私に任せて! ねっ」
 ローはあっけに取られてきょとんとしていた。そして、ふっと小さく笑うと、
「あァ。楽しみにしてる」
 そう言った。

「ナルミくん!」
「わっ」
 ナルミくんの姿を見つけるや否や、今度はナルミくんの細い肩をむんずと鷲掴んだ。
「私、ローに最高の恋人ができるように、プロデュースしようと思う!」
「え、嘘でしょ。どうしてそう余計に話をややこしく──」
「おねがいナルミくん! ローを好きなら協力して! 一緒にローの幸せを祈ってあげて!」
 ナルミくんは圧倒されたように絶句した後、コクコクと頷き、わかったよ、と答えた。
「ありがとう……! よーし、ローに素敵な恋人作るぞー!」
「なんかもう波乱の予感しかしない……」
 こうして私はローの恋人候補を追い求めるべく、次なる行動に移るのであった。

 数日後、船はとある街に上陸した。なんでもこの界隈ではとても有名な色街で、この街で働く女性たちは皆、外見も内面も美しく素敵な女性が多いという。
 こんなまたとないチャンス、逃すわけにはいくまい。
「ナルミくん。ちゃんと覚えてるよね?」
 そう念を押すと、ナルミくんは、わかってるって、とうなずいた。
「年齢性別共に不問、但し過去の恋愛遍歴から女性のほうが尚良し、ローさんとは真逆のタイプかつローさんと同等くらい頭のいい人、恋愛に一途、外見に関しては過去の恋愛遍歴から目は大きく、鼻筋は通り、唇が薄いよりは厚め、スタイルは胸もお尻も大きく脚と腰は細く高身長な人──で全部だよね?」
「ばっちりだよナルミくん!」
 私はサムズアップした。やっぱり頭のいい人は違うなァ。
「この街ならきっといるはず……! ローの運命の人……!」
 意気込む私とは対照的に、ナルミくんは浮かない表情をしている。
「……ナルミくん、やっぱりつらい?」
「え?」
「ローの恋人探し」
 最近のナルミくんを見ていると、私と同じでどこか吹っ切れたような感じがしていたんだけど……。やっぱり強がりなんだろうか。私と同じで。
「いや。つらくはないよ。おれだって、ローさんには幸せになってほしいし」
「ほ、ほんとっ?」
「だけど、うーん」ナルミくんは悩ましげに眉を寄せた。「なんか、こう……まっすぐ別の方向に間違えてるような……」
「え、ローの恋人候補像、これじゃだめかな?」
 手元の資料を見る。我ながらいい線いってると思うんだけど……。
「いや。なんていうか根本的に──まァ、いっか。とりあえずやってみよう」
「うんっ」
 かくして私とナルミくんは、別行動でローの恋人候補を追い求め始めた。

 街に上陸して二日目、船内にいるローを見つけると、私は緊張の面持ちでローに話しかけた。
「ロー。船に人を呼んでいいか相談だったんだけど……」
「船に人を? おまえが? めずらしいな」
 ローは目を丸くした。と思ったら、すぐに厳しい目つきになって、
「まさか男じゃねェだろうな」
 と声を低くした。
「ううんっ、女の子! ちょっと、その……偶然仲良くなって、とても頭のいい子だからいろいろ教わりたいこととかもあって」
「へェ」
「ど、どうかな。会ってみてくれる?」
 ドキドキしながらローの様子を窺う。
 ローは、ふっと笑うと「いいぜ。連れてこいよ」と言ってくれた。
 思わずナルミくんのほうを見る。ナルミくんは小さくうなずいて微笑んでくれた。
 その女の子はララといって、飲食店で私が出会った女の子だった。年齢は私やローより二、三歳下くらいで、綺麗な瑠璃色の瞳が印象的だ。艶っぽさは年齢の兼ね合いもあってまだないけれど、素直さと純朴さがあり、何より努力家でさまざまな知識があった。顔立ちもとてもかわいらしく、同性の私でも見入っているとぽっとしてしまう。
 さっそくララちゃんを船に招待した。ローにララちゃんを紹介すると、ララちゃんは頬を林檎のように赤らめた。
「ロー、ララちゃんは医学にもとても詳しいの。それに、航海術も勉強してて、地理学とか天文学とか。他にもいろいろ勉強してるの。……ねっ」
 ララちゃんは照れたように、はい、と小さく返事をした。ちらちらとローを上目遣いで見上げている。うんうん。わかるよ。かっこいいもんね、ロー。
「そりゃすげェな。何か目的でもあんのか?」
「しょ、将来私も、海に出たいなって思って……」
「へェ。いいじゃねェか」
 それからふたりは医学の話で盛り上がっていた。ローが船医兼船長と聞いて、ララちゃんは尊敬と憧れの眼差しでもってローをキラキラと見つめている。
「ナルミくん……私、グッジョブすぎない? 完璧じゃない?」
「ローさんも気に入ったみたいだね」
「もう自分の才能が怖い……」
「そんなに?」
 もしこういう職業があったら、私いい働きしそう。
「見てよナルミくん。並んだときのあのアンバランスさ」
「……」
「あれがまたいいよね。なんていうの? こう、ちょっとしたでこぼこ感っていうか、超お似合いって感じじゃないところがまた──」
「ほんとにいいの?」
「……え?」
 ナルミくんは困ったような、痛ましいものを見るような顔つきをしていた。
「ローさんが、他の女の子に本気で恋しちゃっても」
「……」
 熱していた脳が冷えて、自分の本当の気持ちに意識がいってしまいそうになる。
 ぶんぶんと頭を横に振った。
「本心でいいとは、確かに言えないけど」
「……」
「でも、ローが幸せそうにしてたら私、自分もちゃんと幸せになれると思う」
 ──これからは、そういうのはしたくねェなァ。
「自分の幸せより、好きな人の幸せを考えるのって、悪いことじゃないよね?」
 ナルミくんはしばらく黙っていた。すると、ふ、と表情を緩めて、
「悪いことじゃないよ」
 静かにそう言った。

 今回の停泊はもともと長くなるとローが言っていて、その予定していた期間のおよそ半分が過ぎた。
「最近船長とララ、一緒にいるよなー。付き合ってんのかな」
 シャチくんがすれ違いざまにそう話題を振ってくる。
「ど、どう思う? シャチくん。あのふたり」
「どうって?」
「いや、その、なんていうか……お似合いだと思う?」
 うーん、とシャチくんは考え込んだ。「今までの船長のタイプとはちょっと違うけど、却ってそれが本気っぽいというか──」
「そ、そうだよね!」
 シャチくんに太鼓判を押されて、つい舞い上がってしまった。
「実はね、あの子その目的で私が連れてきて──」
「あ、船長」
 シャチくんの言葉に、ぎくっと肩を揺らす。恐る恐る振り返ると、そこにはローとララがいた。ローが、ぼうぜんという表情で私を見ている。
「なんの話だ」
「え?」
「その目的で私が連れてきて、って」
「あ……ええ、と、それは、その」
 私がしどろもどろになっているのを見て、ローの表情がみるみるうちに険しくなる。
 ローはつかつかと歩み寄ってくると、私の腕を強引に引いて船長室に押し込んだ。
「どういうことだ」
 地の底から這ってくるような声でローは糾弾した。
「まさかおまえ、おれとララをくっつけようとしてるんじゃねェだろうな」
「く、くっつけようとっていうか、そんな、策略みたいなことじゃなくて、ただ、ローが素敵な人と恋をして幸せになってくれたらって──」
 そこではっと息をのむ。
 ローは、ひどく傷ついたカオをしていた。今にも泣き出しそうな、子どものような不安定な表情で。
「……そうかよ」
「あ、あの、ロー」
「おまえが幸せにするって……こういうことかよ」
 そのまま倒れ込むようにベッドに仰向けになる。
「……おまえ」
「え?」
「なんであの日、キスしてって言ったんだ」
「……え?」
 カオに腕を乗せているので、ローの表情が見えない。ただ、声は弱々しかった。
「おれが言えって言ったからか」
「あ、あれは」
「言えって言われたら誰とでもすんのか」
「ち、違うよ。あれは、ローだったから」
 ローの言葉が止まる。素直に言い過ぎてしまっただろうかと思ったけれど、今嘘をつくのはよくないと、直感的に思った。
「そうだよな。おまえ、おれのこと好きだもんな」
「えっ、あの」
「おれが、幼なじみで、船長だから」
「……」
「それだけだよな」ローがむくりと体を起こす。「おれもそれだけだ」
 濃いブルーの目に睨みつけられて、思わず怯む。
「怖がるなよ。もうなにもしねェ。そういえばおまえ、あの日泣いてたしな。怖がらせて悪かったよ」
「そ、そんな、私、私がローを怖がるなんて──」
「アイツのことは好きにならねェ」
 ローはきっぱり断言した。
「好きになれねェ。もう、誰のことも」
「な、んで?」
「他に好きな女がいる」
 その言葉に、呼吸も思考も、すべて止まった。
「そいつのことが、好きで好きでどうしようもない」
「……」
「どうにもできないとわかっていても、もう、思い続けることしかできない」
「……」
「この気持ちに気づいてから、日を追うごとに気持ちが大きくなっていって、自分でももう抱えきれなくなってる」
 ローのカオが、痛々しく歪んだ。
「おれはちゃんと、恋してる」
「……」
「これで満足か」
「ロ、ロー、あの──」
「わかったら二度と余計なことすんな」
 ローは勢いよく立ち上がると、乱暴に扉を開けて出て行った。




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