未知の世界

「勉強? おれと一緒に?」
 ナルミくんはきょとんとして私を見た。
「どうしたの? 突然」
「ナルミくんとじゃないとできない勉強なの。……協力してくれないかな?」
「それはもちろんかまわないけど……おれとじゃないとできない勉強ってなに?」
「……」
 い、言いにくい。だけど、この船でこんな相談できるの、ナルミくんしかいない。
「……セ」
「せ?」
「セッ」
「……」
「ク」
「……」
「……性行為の」
「性行為……セックスってこと?」
 あんぐりとしてナルミくんを見る。私はそういう、単語を口にするのも少し……いや、とても恥ずかしいのだけど、ナルミくんは涼しいカオをしている。
 もしかして、経験がないって言ってたの、嘘なんだろうか。いや、でも。ナルミくんが嘘なんてつくはずないし。
「私、恥ずかしながらそういうの、全然わからなくて。正直、その……具体的にどういうことを行為中にしてるのかもわからないの。キス、とかは知ってるんだけど……」
「どうして知りたいって思ったの?」
「えっ!? そ、それは、その」カオをうつむかせてもじもじと指を動かす。「知識として必要かなって」
 なるほど、とナルミくんは顎に手を当てた。
「確かに、知識としてないよりはあったほうがいいよね」
「ナルミくんも、その……経験がないって言ってたから、知識量が同じくらいの人と無理のないペースで学んだほうがいいかなと思って」
「あァ。それでおれにしか、ね」
 ナルミくんは得心行ったようだ。
「だめかな?」
「ううん。かまわないよ」
「ほんと!?」
「でも、ローさんに先に相談したほうがいいんじゃない?」
「ローに!? なんで!? だめだめっ」
 私はぶんぶん首を振る。
「どうして? あァ、経験値?」
「それもあるけど……」私は口ごもる。「なんかロー、実践まじえてきそうで」
「……あァ。確かに。ローさんなら口で説明するより早い、とか言いそう」
 深いうなずきが返ってくる。
「なんかロー、私がそういうことを学んでこなかったことに責任感じてるみたいなんだよね」
「責任?」
「うん。海賊に誘ったことで、そういう機会が得られなかったんじゃないかって思ってるみたいなの」
「え? ローさんがそう言ったの?」
「いや、はっきりそうは言ってないけど、責任もって教えてやる、みたいなことを言ってて……」
 私の回答を聞いたナルミくんは複雑な表情をした。一瞬、自慢みたいに聞こえてしまっただろうかとひやっとしたけれど、そうではなく、ややこしい問題をなんとかしようとするも無理だろうと悟っているようなカオだ。
「ローさんがそう言ってくれるなら教えてもらえばいいのに」
「なっ、なに言ってるのナルミくん。恋人同士でもないのにおかしいじゃん」
「それはそうだけど」
「それに……もうだめなの」
「もうだめ? どうして?」
 そういえば、ナルミくんにはまだ言ってなかったな。そう思い立って私は言った。
「私……ローのことあきらめようと思ってるの」
「えェ!?」
 ナルミくんがめずらしく大きな声を出す。
「え? そんな驚く?」
「いや、だってタイミング悪──いや、まァいいか。続けて」
 ナルミくんが先を促すように手のひらを上に向けた。
「だから、その……実践まじりでそんなことされたら、あきらめきれなくなっちゃう」
 キスのことを言おうか悩んだけれど、ナルミくんはローのことが好きだ。責任感からくるレッスン的なものだったとしても、傷つくだろう。
 あのときの感触を思い出してしまって、慌ててそれを振り払う。あきらめるなんて、もうすでに手遅れな気もしていて、怖い。
「確かもう少しで上陸だったよね」
 ナルミくんが唐突に言う。一瞬ぽかんとしたけれど、その言葉の真意を読み取って、私は表情を輝かせた。
「結構大きめの街って聞いたから、本屋さんとかあるよね」
「ナルミくん……!」
 ナルミくんは、彼らしい穏やかな笑みを浮かべた。
「いいよ。一緒に大人の勉強しよ。***」

 街に着いたのはそれからわずか数時間後だった。今回の上陸の目的は船の修繕という名目ではあったが、一番の目的は船員たちのリフレッシュだろうと、ペンギンさんがローの指示の真意を読み取って耳打ちしてきた。
 街に着くやいなや、みんなが思い思いに駆けだしていく。私はさっそく街全体のマップを手に入れた。それを、ナルミくんとこそこそ覗き込む。
「本屋さん結構あるね」
「とりあえず一番大きいところに行ってみよ」
 うんっ、と大きく返事をし、意気揚々と足を踏み出したときだった。
「どこへ行く」
 刺すような声が背中から迫ってきて、私とナルミくんは同時にカオを見合わせた。恐る恐る声のしたほうへ振り返る。
 不機嫌そうに腕を組んだローと目が合った。
「あ、あのー、ちょ、ちょっと野暮用で──」
「二人でか?」
 ぎろっとナルミくんをにらむ。
 怯えたように肩をすくめるナルミくんをかばうようにして立つ。
「わ、私が頼んだんだ。どうしてもナルミくんじゃないとダメで──」
「ナルミじゃないとダメ?」
 ローの眉間のしわが深くなる。
「えーっと、だから、そのー」
 ど、どうしよう。ダメって言われたら。もしくは一緒に行くとか言われたら。この機会を逃すと次いつこんなに大きい街に行けるかもわからない。絶対今日がチャンスなのに──。
「ローさんのプレゼント買いに行くんです」
 背中から声がして、とっさに振り返った。
 ローが、プレゼント? と怪訝そうなカオをナルミくんに返す。
「ローさん、この前誕生日だったじゃないですか。忙しくてお祝いする暇なかったけど」
 そうだった。今年のローの誕生日は、ちょうど敵船祭りのさなかに静かに過ぎ去ってしまっていたのだ。
 私はナルミくんの機転に心の中でガッツポーズをした。ナイス!
「だからってなんでおまえと一緒じゃなきゃダメなんだよ」
「本がいいかなって***と言ってて。この船で一番本読むのおれだから」
「……」
 ローはナルミくんを凝視した後、私に視線を移した。ローに見つめられて、二つの意味でドキドキしてくる。
「……用が終わったらすぐ帰ってこい。日没までに戻らなかったら探しに行くからな」
 踵を返したローを見送りながら、私とナルミくんは同時に安堵の息を吐いた。

 本屋に着くと、さっそく私たちは目的の書籍を探した。どこに置いてあるかなんて検討がつかず、ましてや探している代物が代物なので、あまり堂々と視線を巡らすこともできない。
 だけど、ナルミくんはいつもの通り飄々と辺りを見回し、「ちょっと店員さんに訊いてくるね」と言い残してすたすたと行ってしまった。
 さ、さすがナルミくん。私一人じゃ店員さんに訊くなんて絶対できない。
 いや。絶対できないとか言ってる場合じゃない。頼んだ立場なのにナルミくんに全部させちゃうなんて情けない。
 慌ててナルミくんのあとを追う。ちょうど場所を聞き終えたところだったようで「あっちだって」とナルミくんは爽やかに笑った。
 内容が内容なのでてっきり特別な区域に置いてあるのかと思ったけど、意外にもそれらは普通の雑誌等からさほど離れていないところに置いてあった。表紙の女性が半裸で微笑んでいる。
「あ、あれ? ナルミくん、ここじゃないの?」
 ナルミくんは半裸で微笑む美女の表紙を素通りした。
「そういうの、読んだことあるけど結局よくわかんないんだよね」
「えっ。そうなの?」
「うん。女の人の裸は載ってるんだけど。行為の詳細が写真で載ってるわけでもないし」
「えェ!? は、裸なんて載せていいの?」
「いいんじゃない? 子どもは買えないようになってるし」
「そ、そうなんだ……」
 あぜんとしながらナルミくんのあとに続くと、ナルミくんはある棚の前で足を止めた。
「おれが思うに、絵が入った本とか小説とか。そういう、ストーリー性がある本を読んだほうがためになると思う」
「ストーリー性がある本……」
「うん。それだと心理描写もあるだろうし。どういう気持ちでそういうことをしてるのかもわかるでしょ」
「なっ、なるほど……!」
 頼りになる。想像の何倍も頼りになる。さすがナルミくん!
 私の尊敬のまなざしにも気づかず、ナルミくんは目についた本を棚から抜き出し、目を通し始めた。私も同じように目の高さにある本を一冊抜き取る。
 それは、とある男女の恋愛模様を描いた物語だった。出会って恋人同士になるまでの紆余曲折が描かれている。最初のほうは普通に会話や食事のシーンがあったけれど、ページが進むにつれて男女の頬は赤くあり、息が上がり、服がなくなっていく。
 その先の展開に、不思議と引き込まれていった。
「うん。やっぱりこういうののほうが勉強には向いてそう。ちゃんと行為中の描写もあるし。ね、***。そっちはどう──***?」
「はっ、はい!」
 ナルミくんの声が耳元で聞こえて心臓がびくりとする。
「参考になりそうなのあった?」
「う、うん」
「よかった。じゃあ、似たようなの数冊買ってこ。ずっと立ち読みしてると迷惑になっちゃうし」
「そ、そうだね」
 ナルミくんと手分けして数冊を手にすると、ローへの誕生日プレゼントも一緒に選んで、私たちはレジへ向かった。

 お風呂と食事を早々に済ませ、そそくさと自室に引っ込んだ。誰もいるはずがないのに、室内を見渡してから戸棚の中から本を取り出す。お昼に本屋さんで立ち読みしていた作品だ。そのほかにあと四冊、戸棚に隠し持っている。
「よしっ」
 気合いを入れると、さっそくページをめくった。

 空が白み始めている。
 目をしぱしぱさせながら、最後の本を閉じた。体は疲れているのに意識は冴え冴えとしていて、不思議と眠くない。
 戸棚に最後の本をしまいつつ、五冊の表紙を眺める。
 そっと戸棚を締めて、のろのろと着替え始めた。

「おはよう。早いんだな、今日」
 食堂に行くとペンギンさんとコックがいた。朝食の支度をしている。
「お、おはようございます」
 ペンギンさんのカオを直視できず、床に視線を落としながらエプロンを着けた。
「どうした? 顔色が優れないな」
 ペンギンさんが私のカオを覗き込む。距離が近すぎる気がしてぱっと身を引くと、ペンギンさんが少し傷ついたカオをした。
「すっ、すみませんっ。あの、ね、寝不足で少し反応が鈍くって、その、び、びっくりしちゃって」
「あ、あァ、そうか。そういうことか。悪かった」
「い、いえ。こちらこそ……」
 失礼なことしちゃった。今の距離くらい今までだってあったし、見張り台にいるときなんてもっと近いのに。だけど──。
 明け方まで読んでいた本の、いろいろなシーンが走馬灯のように駆け巡る。
 ペンギンさんが、女の人と腕を組んで歩いてるのを何度か見かけたことがあった。停泊中に船に戻らないことも。
 ペンギンさんもああいうことするんだ。そういえば、ペンギンさんはローの次に経験があるってシャチくんも言ってたし……。そうか。シャチくんもあるのか。あんな、普段は子どもっぽくて、私と一緒にローに怒られてるシャチくんでさえ……。
 ぐるぐる考え込んでいるうちに朝食の準備は終わり、いつのまにか食堂には船員たちがほぼ勢揃いしていた。
「あっ、船長ー! おそようございますー」
 シャチくんの声がして、はっと視線を上げる。
 ローが、欠伸をしながら食堂に入ってくるところだった。
「ロー船長、今ベポとナルミと今後の航路の話をしていたの」
 そう言いながら、ルピが隣の椅子を引いて手のひらで指し示す。その意図を読み取って、ローがその椅子に座る。
 ローとルピって……恋人同士だったからか、意思疎通がスムーズにできてるよな……。あうんの呼吸っていうか……。
 二人の肩が自然に触れる。だけど、ローもルピも意識なんてしていない。カオも、キスしそうな距離にあるのに平然と視線を合わせている。
 そりゃそうか。二人は恋人同士だったんだから、あ、ああいうこと、してたんだもんね。あれくらいのこと、なんてことないんだろうな。
 胸の中に泥水が流れ込んでくるような感覚。嫉妬で間違いないんだけど、今までのものとは比べものにならないくらいねっとりとしている。色に例えるならどす黒い赤のような感じで、寝不足も相まってなんだか吐き気がしてきた。
「***? 大丈夫? 顔色悪いよ?」
 キッチンに飲み物を取りに来たベポが心配そうにカオを寄せてくる。もはやこの距離で普通にしゃべれるのはベポだけかもしれない。
「ベポ。一生私と友だちでいてね……」
「えェ? 何言ってるの。あたりまえだよー」
 ベポの胸にカオを埋めてから、私はよろよろと食堂をあとにした。

 部屋に戻って一息つくと、恐る恐る戸棚を開ける。今朝しまった状態のまま、本が並んでいた。
 なんか……この主役の男の子の雰囲気、ローに似てるな……。
 無意識に手に取ってしまったんだろう。そのことが災いして、脳内でローに変換されるのが容易くなってしまった。
 戸棚をしめる。そのままの体勢で、私はうずくまった。
 なんか……知らないほうがよかったかも。だって、知らないままでいられれば、想像することなんてできなかった。それに、私自身は、これから先こういうこと、できるわけじゃないし。
 ノックの音が聞こえてはっとカオを上げる。ドアの向こうから「***? いる?」と声がした。ナルミくんだ。
 今、この胸の内を共有できるのはナルミくんだけだ。扉に駆け寄って急いで開ける。ナルミくんの手を引くと、素早く扉を閉めた。
「全部読んだ? もし読み終わってたら交換しようと思って」
 ナルミくんは紙袋の中から本を三冊取り出した。ナルミくんがレジに持って行ってた冊数だ。
「ナルミくん、読んでみて、その……どう思った?」
 戸棚から本を取り出しながら訊いてみる。
 ナルミくんは、うーんと天井を見上げた。
「肝心なところはやっぱりわからなかったね」
「肝心なところ?」
 うん、とうなずきながら、本をぱらぱらとめくる。
「男性器を女性器の中に入れるってことは知ってたんだけど、具体的にどうするのか知らないんだよね。だからそこが見たかったんだけど」
「だっ……な、なるほど。技術的なところだね」
「うん。だけど、そこの部分は全部隠されてたね。もしかしたら規制があるのかも」
 少しがっかりしたように本を閉じる。「その前まではおれも経験あるから、あんまり勉強にはならなかったかな」
「……えっ」
 ナルミくんの言葉に耳を疑う。
「ナルミくん、その前までは経験あるの?」
 ナルミくんはきょとんとして、うん、とあっさり答えた。
「その前って、その……直前? その、あの……入れる、前の」
「うん」
「じゃ、じゃあ、裸で抱き合ったり、まァ、あの……そのへんまではあるんだね」
「うん」
「……」
 な、なんだ。そうか。なんだ。ナルミくんも経験あるんじゃん。
 あの、愛し愛されて触れ合う経験は。
「***が買った本、おもしろかった? やっぱり肝心なところは見えない?」
「……それ、全部持って行っていいよ」
「ほんと? じゃあおれのも──」
「あ、わ、私はいいかな。なんか、その……過激すぎてびっくりしちゃったから」
 曖昧に笑って本を差し出す。ナルミくんは頭の上に疑問符を浮かべてから「そっか」と微笑んだ。
 ナルミくんを見送ると、ベッドの上に体を投げ出した。
 確かに、展開や絵は過激な内容だったけれど、本の中の女の子たちは、みんな好きな人に愛されてとても幸せそうだった。好きな人と気持ちが通じ合って体を重ねるシーンは、とても感動的で涙が出た。男の子も女の子も幸せそうで、心底うらやましい。私にはきっと、一生経験できない。
 ペンギンさんもシャチくんもナルミくんもルピも……ローも。ああいう、言葉にできない幸せを経験してるんだ。
 私、ああいう気持ち、一生知らないまま生きていくんだろうか。ローを好きなうちは絶対に無理だ。ローと両思いになるなんて百パーセントありえない。
 ──おれが責任もって全部教えてやる。
 責任、か。相手がそういう、責任感だけの気持ちだとしても、あんなふうに満たされるものなんだろうか──。
 そんなふうに考えてしまって、慌てて首を横に振る。
 そんなわけない。気持ちが通じ合っているのとそうでないのとでは、まるで違う。
「……あ。そうだ。あきらめるんだった……」
 そうつぶやくと、途端に涙があふれてきた。何が悲しいのかわからない。悲しいのかすらわからない。私の中に今生まれている感情がなんなのか、わからない。
 ひとりきりで、ただただ泣き続けた。

知の世界


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