勉強しましょう、そうしましょう

 その日から敵船は後を絶たなかった。沈んだ船の後ろから敵船が現れて、まるで順番待ちでもしているようだった。普段は好戦的なハートの海賊団もさすがにうんざりとしてきて、シャチくんは三日目で発狂、あのペンギンさんですら五日目で壁に向かってぶつぶつと独り言を言っていた。
「***、シフト作ってくれ」
 一週間ほどそんな日々が続き、見かねたローがそう指示してきた。
「シフト?」
「あァ」ローは私に紙を渡す。「三日……いや、二日戦ったら眠れるように、交代制にする」
「わ、わかった」
「おれは入れるな」
「え?」
「おれに休みはいらない」
「で、でも──」
「代わりにベポを多めに休ませてくれ。航海士が倒れたらこの船は沈む」
「ロー、でも──」
 砲撃の音が聞こえてきて、二人同時にカオを上げる。ローの、緊迫した横顔を見つめる。元々濃い隈がさらに濃い。顔色も悪かった。
「頼んだぞ」
 私の返事を待たず、ローは愛刀片手に走り去っていった。
 手元の紙を見る。
 いいのかな。船長兼船医が倒れても大変なのに……。
 考えかけて、首を振る。あれは船長命令だ。従わないという選択肢はない。それに、今の私にできることはこんなことくらいだ。とてもあの戦いにはついていけない。
 鉛筆を握ると、白い紙に一週間ほどのスケジュールを書き込んでいった。

 敵船の波が引いたのは、さらに二週間ほどたってからだった。敵船が現れなくなってしばらくしてからも気を張り詰めていたけれど、平和な日々が三日も続くと船内の空気がようやく弛緩し始めた。
「今回ばかりはさすがに死ぬかと思ったぜ」
 疲労と眠気でどろどろになった表情でシャチくんが言う。
「お疲れさま、シャチくん」
「おう。***もな」
 私は何も、と言いかけて止まる。今はシャチくんに気を遣わせるのも憚れる。
 ペンギンさんとルピが食堂に入ってきた。
「ペンギンさん! お怪我は大丈夫ですか?」
「あァ」ペンギンさんは二の腕を上げて見せる。「船長に手術してもらった。もうなんともない」
 ぱっくりと割れて骨まで見えていたペンギンさんの怪我を見たときは、こっちのほうが血の気が引いた。
 ペンギンさんが、包帯で包まれた二の腕を軽く叩く。
「骨が折れなかっただけでもラッキーだ。大事な神経もうまく避けていたしな」
「ほんと……よかった……」
 今になって膝が震えてくる。本当に大変な日々だった。みんなが無事で本当に、本当によかった。
「それにしても……ロー船長、さすがにそろそろ休ませたほうがいいんじゃないかしら」カオや肌の擦り傷に薬を塗りながらルピが言う。「全然休んでないでしょう? 彼」
 ルピに訊かれて私は小さくうなずいた。あの日からローは、ほんの少しのうたた寝程度で乗り切っていた。動けているのが嘘みたいだ。
 噂をすれば。体から湯気を立たせたローが、髪をタオルで拭きながら食堂に入ってきた。湯船に浸かってさすがに眠気が襲ってきたのか、めずらしく目をしぱしぱさせている。
「船長、さすがにもう休んでください。船長兼船医に倒れられたら大変です」
 見かねたペンギンさんが言う。隣でシャチくんが大きくうなずいている。
「そうだな。さすがに眠い」
 欠伸を噛み殺してローは言った。涙のにじんだ目で私たちを見回すと「何かあったらすぐ起こせ」と言い残して食堂をあとにした。
「***」
「ん?」ルピに手招きされて彼女の元へ向かう。「なに?」
「これ」ルピが、ワイングラスとワインボトルを手渡してくる。「ロー船長に」
「ロ、ローに? でも、もう寝るって言ってたよ?」
「こんなに長い期間血を見ていたら、どんなに疲れていても興奮して寝付けないわ。あなたが持って行っておあげなさい」
「そ、そっか。わかった」
「あと」ルピが形のいい唇を寄せてくる。「こういうときは、女が上に乗って動いてあげるのよ。そしたら男なんてすぐに気持ちよくなって、ぐっすり眠っちゃうから」
 ブッとすごい音がして、驚いて横を見る。ペンギンさんとシャチくんが、同時にお酒を吹き出していた。
「ル、ルピ! おまえっ、***になんてことをっ」
「あらペンギン。私間違ったこと言ってる?」
「い、いや」
 なぜかどぎまぎと視線を彷徨わせているペンギンさんを横目に、私は「そっか」とつぶやく。
「それもそうだね。ルピ、アドバイスありがとう」
 みんながぎょっとしたカオで一斉に私を見る。助言してくれた当の本人、ルピまでも。
「なっ、なに? どうしたの?」
「い、いや、おまえ……えっ、でっ、できるのか……?」
 シャチくんが恐る恐る訊いてくる。
「え? う、うん。できるよ」
「えェ!? そ、そんなあっさり」
「べつにそのくらい」
「そのくらい!?」
「ローにもしたことあるよ」
「船長に!?」
 みんながざわつき始める。
 私はむっと唇を尖らせると、行ってくるね、と言い残して食堂をあとにした。背中に刺さるような視線を感じる。
 どうしたんだろうみんな。もしかして、私がマッサージもできない人間だと思ってるんだろうか。そうだとしたら失礼な。
 少し憤然としながら私は船長室へ向かった。

 ノックをするとすぐに、誰だ、と返ってきた。
「あ。私です。***」
 ほんのわずかな沈黙の後、入れ、と続く。
 扉を開けると、湿ったシャンプーと石鹸の匂い、それに、薬品の匂いがした。どんなに洗ってももう取れないんだと、いつだったかローは言っていた。
 ローはベッドに横たわっていた。やはり眠れないのか、休んでいるのに却って疲れているように見える。眠いのに眠れないというのは私も経験があるけれど、ずっと起きているよりつらいものがある。
「眠れないの?」
「……あァ」
 興奮してるの? 思わず訊きそうになって、言葉を飲み込む。興奮してるの、って。なんか、ちょっと、……ねェ。
「何か用か」
「え? あ、あァ。お酒持ってきたの。少し飲んだほうが寝付きがよくなるかもって、ルピが」
 頭がうまく働かないのか、ローにしては反応が鈍く、あァ、と生返事だけが返ってくる。しばらく待つと、ローはのったりと体を起こした。
「もらう」
「あ、うん。ちょっと待ってね」
 ワインボトルの栓を開けてグラスに注ぐ。その一連の流れをローがじっと見ているので、なんだか妙に緊張した。
「はい」
「……あァ」
 グラスを受け取ったローは、水のようにいっきに飲み干した。ふう、と熱い息を吐き出す。
「もう一杯くれ」
「あ、はい」
 同じくらいの量を注ぐと、今度は一口ずつゆっくり飲み下していった。
 視線が、グラスの縁を食むローの唇に釘付けになる。
 そういえば、と、はたと気づく。
 私、ローとキスしなかったっけ。あの日から、あまりにもどたばたしすぎて忘れてたけど……。いや、そんなわけないか。まさかね。あれって夢だったよね。もしくは私の妄想──。
 え? そうだっけ?
「? なんだ?」
「えっ、なにっ?」
「いや、こっちのセリフだろ。なんだ、じろじろ見て」
「いっ、いやァ、ローってやっぱりかっこいいなァって!」
「……」
「あははっ」
「……」
「……」
 首をかしげながらワインを口に運ぶ。
 その横顔を盗み見て、ないな、と心の中でつぶやいた。
 ないな。ないない。あるわけない。ローと私の間にそんなこと。ローだって普通だし。あれはやっぱり夢だったんだ。……なんだ。
「目覚めたくなかった……」
「あ? なんだ、さっきから」
「い、いや。べつに……」
 ローの目がとろんとしてきた。
 おっ。あともう一息。
「そうだ。ロー、マッサージしてあげるよ」
 ルピのアドバイスを思い出してそう提案する。
「マッサージ?」
「うん。腰あたり」
「腰? なんで腰。べつに疲れてねェよ」
「ルピがね、上に乗って動いてあげなさいって」
「……は?」
「そしたら、すぐに気持ちよくなって眠っちゃうって」
 ローが突然咳き込んだ。
「だ、大丈夫?」
「危ねェ。吹き出すところだった……」
「変なところ入った?」
 けほけほ喉を鳴らしながら、ローが私を見る。そして、ふう、と小さく息をついた。
「そういう意味じゃねェよ。アイツが言ったのは」
「えっ。マッサージしてこいって意味じゃなかったの?」
 さっきのみんなの反応を思い出す。ローの気まずそうな表情も相まって、私はもしかして、みんなの前でとんでもないことを口走ったのではと不安になった。
「おれのせいだろうな」
「……へ?」
「おまえがそういうことを学ぶ機会を、おれが無意識に奪っていたのかもしれないな」
 目を据わらせてうわごとのように口にするロー。半分の意識はもうここにはないのかもしれない。
「……体位の話だ」
「……へ?」
「わかるか? 体位」
 数秒考えてみてから、おずおずと首を横に振る。
「セックスはわかるだろ」
「えっ」
「セックス」
 一瞬聞き間違いかと思ったけれど、ローがご丁寧に言い直したので、ぎこちない動きで小さくうなずいた。
「してるときの体勢がいろいろあるんだよ。それが体位」
「そ、そうなの」
「騎乗位っていって、女が男の上に跨がって腰振るのがある」
「えっ」
「アイツがおまえにしてこいって言ったのはそれ」
「えェ!?」
 カオから火が出るんじゃないかと思うくらい熱くなる。
 じゃ、じゃあ私……みんなの前で、ローと、その、そういうことしてきますって……してましたって言ったってこと!?
「あっ、穴があったら入りたい……!」
「ちなみに男が上に乗るのが正常位だ。この前おまえとキスしたときみたいな」
 さらりと言われて思考が停止する。
「まァ、あのまましてたらの話だけどな」
「……」
「口で説明すんの意外と難しいな……」
 ワイングラスをサイドテーブルに置くと、ローは気だるそうにベッドに仰向けになった。とろりと目をつむる。
「まァ、おれが全部責任もって教えてやる」
「……え?」
「だから心配すんな」
「……」
「あと、アイツの言うことは無視しろよ。九割そういう話だからな……」
 眠気がそろそろ限界なんだろう。唇の動きが鈍い。語尾も聞こえるか聞こえないかくらいの声量だ。
「そ、そんな……いいよ、私……そんなこと知らなくても」
「……」
「だから、そんな……責任とかは……」
 反応がないので見ると、ローはすでに寝息を立てていた。めずらしく呼吸が深い。無防備な寝顔がかわいくて、胸がきゅっとした。
 静かに船長室を出る。廊下を歩きながらローの言葉を反芻した。
 ──おれが全部責任もって教えてやる。
 責任感でなんて……してほしくない。それに、ローが責任を感じるようなことじゃない。
 私なりに学ぶチャンスなんていくらでもあった。そういう本があることも知ってたし、船にローの恋人が乗ったときに教えてもらうチャンスもあった。(精神的に耐えられるかとお願いしたところで教えてもらえるかは別にして)
 無知って恥だ。恥だし、自分をまもれない。
 あれが、信用してる仲間内での会話だったからよかったものの、全然知らない人──男の人との会話だったら、そのままだまされて襲われる可能性だってある。……いや、ないかもしれないけど。
 自分で自分をまもれるように。そのために、ローやみんなに協力してもらいながら頑張ってるのに、こんなことで足元をすくわれたりしたらたまらない。
「べっ、勉強しなきゃ……」
 だけどどうやって……。
 問題はそこだ。本だって、売っているという事実は知っているけれど、どういうものを買えばいいかなんて検討がつかない。誰かに教えてもらおうにも、ペンギンさんやシャチくんに訊くわけにもいかないし、唯一の同性であるルピだって、経験値が違いすぎて話についていけないだろう。
「経験値……」
 あっ、と思い至ると、私は彼の元へ急いだ。

勉強しましょう、そうしましょう


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