夢に溺れて 2/2
「……よしっ。明日は鱚のフライにしよーっと」
「……」
「ロ、ローも、鱚のフライ好きだもんねっ」
「……」
「ねっ」
「……あァ」
そっけなく答えてグラスをあおる。濃紺の瞳はいつもどおりしんとしていて、心の奥の、底の底からほっとする。
あっ、
ぶな……! な、なにやってるんだ。ほんと。しっかりしなきゃ。ごまかせてよかった。ほんとによかった。
体じゅうににじんだ脂汗を、さりげなく部屋着で拭く。
ローが、おまえ、と、静かに口を開いた。
「はっ、はい?」
「キスしてェのか」
「――!」
おおげさじゃなく、本当に心臓が止まった。ローは、しんとした瞳のまま、じっと私を見据えている。
「ち、ちがっ、だから、いまのはっ」
「……」
「きっ、きっ、キス[に]したいって意味でっ」
「……」
「鱚の、フライの……」
「……」
「……」
思考も口も、うまく回らなくなる。お酒って怖い。本当に怖い。二度と飲まない。もう二度と。
そう固く心に誓いながら、私はすっくと立ちあがった。
「な、なんか、呂律まわらなくなってきちゃったかなー。ははっ……。も、もう一回見張り台でも行って、頭冷やしてこよっと」
逃げるように部屋を出ようとした手首を、すかさず掴まれる。思わず、ひ、と声がもれた。
ローが、びっくりするくらい、真剣なカオで見上げてきた。
「見張り台行って、ペンギンとキスすんのか」
「な……! そっ、そんなわけないでしょっ」
「……」
「だ、第一、ペンギンさんが私にそんなことするわけ――」
「する」
ローが、ほんのわずかにも目を逸らさないので、息ができなくなってくる。
「アイツならする。男ならだれだって、惚れた女にキスがしたいと強請られたら」
「ね、ねだ」
「惚れた女にそこまでいわせてなにもできないような腑抜けは、この船にはいねェ」
掴まれたままの手首が痛い。ローが、力をこめているらしかった。
「そ、それは、好きな子にいわれたら、ってことでしょ?」
「……」
「ペンギンさんは私のこと、そんなふうには」
「ペンギンの話なんていまどうでもいいんだよ」
「じ、自分からしたんじゃん……」
濃紺の瞳が翳る。不安定に揺れる粘膜。途端にローがひどく幼く、頼りなくみえて、心臓の芯がぎゅっと痛くなる。
ローの、確固たる精神。それをこんなにも乱すことのできるルピを、ほんの少し、正直、うらやましいと思ってしまった。
「わ、私には、よくわからないけど、その」
「……」
「ルピともう一度、ちゃんと話し合ってみたらどうかな」
「……あ?」
「もしかしたら、話し合いが足りなくてすれちがってるだけってことも――」
「なんでそこでアイツが出てくんだよ」
心底おどろいた、みたいな表情で、ローが眉をしかめる。
どこか、傷ついたような目。そんなローは初めてで、私はひどく狼狽した。
「え、え? だ、だって」
「いまここにいんのはおれとおまえだろ」
「そ、それは、そうだけど」
「おまえな」
ローが、サイドテーブルにグラスを乱暴に置く。
「おまえはおれを舞い上がらせてェのか突き落としてェのか、どっちなんだよ」
「へ? な、なんのはなし、なんで怒って――! わっ」
とつぜん、強い力で手首を引かれる。
つんのめることもできず、私はローの腕の中にダイブした。
硬い胸板に鼻をしたたかに打ちつける。いたた、と呻きながらカオを上げると、私はベッドにローを押し倒したような格好になっていた。
「ごっ、ごめ」
慌ててどけようとするも、首にがっちりとローの腕が回されて、びくともしない。
数センチ先に、ローのカオ。ローに覆い被さらないようにと踏ん張っている腕の力をほんの少しでも抜けば、ローにキスしてしまいそう。
私の頭はパニックになった。
「よっ、よっ、よっ、酔ってる? 酔ってるよね、おっ、落ち着いてっ」
「酔ってねェ。落ち着いてる」
ローのもう一方の腕が腰に回ってきた。ぐっと力をこめられて、ローのひらぺったいお腹と私のお腹が密着する。ベッドのスプリングが、ぎしっと音を立てた。
まずい。なんか、まずいことになってる。ローが乱心してる。
私は死に物狂いで平静を装った。
「ごごご、ごめんね。よくわかりもしないのに、ル、ルピとのことに、くち、口出ししたりして。おお、おもしろくなかったよね。ごめんね」
「べつに。どうでもいい」
「や、やけになるのは、よよ、よくないと思うの。わた、私でよければ、話聞くから」
「いらねェ」
ローが両腕に力をこめて、私の踏ん張りが負けてくる。
濃い藍色の瞳と、肌の匂いがすぐそこ。海に溺れたみたいに、息ができなくなってきた。
「ご、ごめんって、ほんと。は、反省してる」
「なにを」
ローの大きな右手が後頭部を掴んで、おでことおでこ、鼻と鼻とが触れる。ローの吐息が私の唇にかかって、くらっとした。
だめ。好きってばれちゃう。どうしよう。
ローが私にキスするわけない。あと数秒後には「なに本気にしてんだおまえ」って。くくって肩を揺らして、この腕をなんなくほどいてしまうにきまっている。
そうなったとき、私は怒ったふりができるだろうか。「もうっ、やりすぎだよロー」って。困ったように笑いながら、ローの悪ふざけをゆるさなければいけないのに。
こんなに触れ合ってしまって、いつものように軽口が叩けるか。自信がない。だって私、離してほしくないって思ってる。あきらめようと決意したくせに、このまま本当にキスしてくれないかなって。その気持ちを笑い飛ばされたら、泣いてしまいそうだった。
あきらめる。私は、あきらめるんだ、この人を。
触れたくてたまらない衝動と、緩みはじめた涙腺を叱咤して、無理やり笑みをつくる。
「ロ、ロー、ちょっと、やりすぎ――」
その瞬間、唇に柔いものが触れた。
お酒でほんのり湿った唇と唇が重なる。声も呼吸も思考もすべて、ローの口の中に吸いこまれていく。
全身に、すっとまっすぐ、電流が走る。ぼうぜんと、目を瞬かせた。
ローが、私の唇を食みはじめる。食むたびに首の角度を絶妙に変えて、どの角度のローも美しかった。首と腰に回されていたはずの腕は、いつのまにか私の肩を抱いていて、時折り指先が耳の輪郭をなぞった。
なにが起きているかわからなかった。真っ先に考えたのは「あ、これ夢だ」で、夢なんだから思う存分キスしてもらえばいいじゃないかとか、いっそこのまま目覚めないでほしいとかを本気で願った。
は、と、ローが薄く吐息をもらす。たったそれしきのことで、このひとはもしかしたら、この世のすべての色気を吸収できる能力も持っているんじゃないだろうかと錯覚した。
「……***」
キスの合間にローが呼ぶ。なにをいわれるのだろうと一瞬身がまえたが、ローは「力ぬけ」と続けた。
「ち、ちから」
「腕。突っ張らないで、おれに乗っかれ」
「い、いや、そんな、お、重いので」
ちがう。そういう問題じゃない。
「あァ、いい。おれが乗る」
え、という私の声を、シーツのこすれる音がかき消した。
お腹に力を入れて、ローが起き上がる。視界が反転して、いつのまにかローの肩越しに天井があった。
ローのカオが近づいてきて、思わず目を瞑る。鼻先だけがちょんちょんとくすぐられて、おそるおそる目を開けた。
「強請れよ」
「え」
鼻先だけでキスをしながら、ローがいう。
「おれの名前呼んで、キスしてって強請れ」
めまいがする。供給過多。これ以上は、ローの供給過多では? いくら夢だからって。
そう。これは夢。ただの夢。明日になれば、ローはまたちがう女の子に夢中になる。私はただの船員で、幼なじみで。ずっとずっとそうで。
夢だけど、夢みちゃいけない。
「っ、キスして、ロー」
いまだけ。夢のなかでだけ。
そう誓って素直に強請れば、呼吸ごとまる飲みされた。
私の唇の窪みにローの唇が沿って、酸素の入るすきまがなくなる。大きな手のひらが頭をひとなでするたび、私は泣き出しそうになった。
だれに教わったわけでもないのに、両手が自然とローの背中に回る。いかないで。どこにもいかないで。いまだけは。願いをこめて、ほんのわずかなすきまも生まれないよう引き寄せる。
ローはきっと、キスが上手なんだと思う。だって、初めてなのにこんなに気持ちいい。それとも、好きな人とするとき、みんなこんなに気持ちのいい思いをしているのだろうか。苦しげに寄るローの眉を見るだけで、心臓まで心地好くなった。
「っ、ん」
歯を割ってなにかが口の中に入ってくる。それが柔らかくうごめいて、ローの舌じゃないかと思った。噂にはきいたことがある。こんなキスの仕方があると。
呼吸と、心が苦しくて涙がにじむ。こんなに幸せなのに、どうして心が苦しくなるのか。夢だからだろうか。夢で、明日にはなくなってしまうと、知っているからだろうか。
とつぜん、ローが勢いよく体を起こした。ぬくもりがなくなって、さっと血の気がひく。夢から叩き起こされたような感覚がした。
「あ、あの、ロー」
急激に不安に苛まれる。
なにか言い訳を、と考えていると、ローがおもむろに上半身の服を脱ぎ捨てた。目に飛びこんでくるハートの刺青。ローの心臓と目が合って、なぜかぎくりとした。
「悪ィ」
「へ」
「抱く」
……え?
なにをいわれたのかわからなくて、ぼうぜんとする。
ジーンズのボタンをはずして、チャックをおろす。ローは下着も浅めなので、みえてはいけない部分がみえそうになって、慌ててカオをそむけた。
な、なに? なにが起こってるの? いまなんていった? だく? だくって。濁。駄句――。
ちがう、抱く!
「わ、わわ、まっ、待ってロー」
「待てたらとっくに止まってる。これなんだ? スカートか?」
まるでラッピングを乱暴に破るように、スカートをたくし上げる。
太ももからお腹、胸にかけてまでがスースーして、ブラジャーもパンツもあらわになっているんだとわかる。
体じゅうの血が、いっきに沸点に達した。
「ロ、ロー、まっ、まって、おねがい」
涙目でスカートをもどそうとする。
その手を、なんなく長い指で拘束された。
「あー、すげェ……」
突出したローの喉ぼとけが、ごくりと上下する。ごちそうを目の前にした肉食獣みたいに、ローは私の体の隅から隅までを、舐めるように視線でなぞった。
これは夢。これは夢これは夢これは夢これは夢。
経験したことのない羞恥に、歯を食いしばって耐える。
好きな人に、ローに、裸をみられるなんて。恥ずかしさで死ねる。みんな、こんなことを普通にやっているのか。とても信じられない。
白々とした月明かりに照らされる、美しい指。それが、首へのばされる。
つーっと、頸動脈に沿って指が滑る。なにかが腰を這い上がってくるように、ぞくぞくとした。
そのままするすると鎖骨、胸の真ん中、心臓の上、おへそを経由して、子宮のあたりで止まって、ぐっと圧迫される。
「はあっ、***……入りたい」
かすれた声で懇願される。
せつなげに寄る眉が、熱にうかされたような瞳が。初めて会う男の人みたいで、少し恐ろしい。
あつい。体ぜんぶが、火の中にいるよう。
こんな夢、いままであっただろうか。最近は夢まで進化して、感触や感情までこんなに立体的になるのか。気を失いそう。夢のなかなのに。
「――! わっ」
脚が大きくひらかれる。カエルが仰向けになったみたいな体勢。
羞恥がいっきに限界の枠をこえた。
「ロ、ロー、おねがい、っ、もう、やめ」
「***。――」
ローが耳元でなにかをいったのと、つんざくような鐘の音が船内を駆け抜けたのは、同時だった。
続けざまにきこえてくる「敵襲っ」という、ペンギンさんの切迫した声。廊下が、途端に騒がしくなってきた。
息が荒いままのローの目と、涙でカオがぐしゃぐしゃになった私の目が合う。
しばらくみつめあった後、ローは「なに泣いてんだ、おまえ」といった。
ほんと、いつのまにこんなに涙がこぼれていたのか。自分でも気づかなかった。
ふうっ、と、ローは大きく息を吐きだすと、体を起こした。二つの体のあいだに、冬の冷気が戻ってくる。
ローはベッドから下りると、手早く服を着直して、壁に立てかけていた愛刀に手をのばした。
「強い覇気を感じる。おまえはここにいろ」
先ほどまでのあまったるさはどこへやら。すっかり海賊船の船長のカオに戻って、ローは部屋を出ていった。
喧騒を遠くでききながら、私はまだ醒めない夢をみていた。
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