夢に溺れて 1/2

 戦況はまさに一進一退。巻き上がる砂ぼこりの渦中にいるツナギの群は、攻め入ったり後退したりして、綱引きを彷彿とさせる。


 一際目立つのはオレンジ色のツナギを着たベポだ。体の大きさもさることながら、彼はいつもボールのように飛び跳ねて戦うので余計に目を引く。逃げ惑う住人たちに擬態しながら遠巻きに見ても、その動きにキレがなくなってきているのがわかる。


 水色の泡が膨らむ。ローのサークルだ。それが、先ほどからせわしなく萎んだり膨れたりを繰り返していた。


 賞金額だけでいったらハートの海賊団の敵ではないはずだった。船長で五千万ベリー。億越えのルーキーとして名を馳せるローの足元にも及ばない。賞金額だけは。


 今までどこにそんなに上手に隠れていたんだと純粋に褒めたくなるくらい、彼らの実力は賞金額にまったく適していなかった。もっともローは、賞金額だけで相手を判断しない。町に着いて彼らの気配を察知するとすぐ「嫌な感じがする」と、もともと険しく寄りがちな眉をさらにひそめたのだから、私たちは途端に不安になった。だからこそ停泊はせず、底をつきかけている食料だけを目的に町に降りたというのに。


 ローは、基本的に不要な戦いは避ける。仲間をいたずらに危険に晒すのは得策ではないと考えているからだ。けれど、いかんせん内に秘めた闘争心はさすが[海賊]。実力の計り知れぬ敵を目前にすると、彼は楽しそうに口の端を上げた。


 かくして戦闘が始まったのを飲食店から目撃した私は、すぐさまツナギを脱いだ。仲間だと知られるわけにはいかない。ローに剣を教わって数か月、ローの教え方がうまいから上達は感じているけれど、それでもまだまだだ。


 成長すればするほど、自分の弱さを、相手の強さを痛感する。遠目から敵を確認した私は、すぐに自分の足手まといを悟った。随分成長したと、買ったばかりの洋服に袖を通しながら笑う。


 戦況を確認しながら、決して目立つことのないよう、慎重に船へと移動する。今、自分にできる最大限のことをする。出航準備だ。


 出航準備だけとはいっても、一人ですべて行うのは骨が折れる。それに、船に仲間がいるだなんて、敵に察知されてはいけない。私という弱みを握られるばかりか、船を奪われてしまう可能性だってあるのだ。


 海軍だって、いつ騒ぎを聞きつけてやってくるともしれない。無人の船内で、ワノ国の忍びのごとく、ひたすら気配を消して準備に没頭した。


 案の定、しばらくすると海岸に海軍の軍艦が見えた。船内から、慌てて町を見下ろす。


 ローはすでに気づいていたようで、全員が船へと一目散に駆けてきているところだった。ローは、左腕を押さえてベポに支えられていた。海賊たちが追ってこないところをみると、勝利は無事収めたらしい。


 その事実に安堵しながら、海軍のほうを気にかける。みんなが乗りこむのが先か海軍が町に着くのが先か。どちらが先でもおかしくない。


「厄介な海兵がいるな。間に合うか……!? すぐに出航準備をっ――」


 ローの切迫した声。傷だらけで戻ってきてくれたみんなの前に躍り出る。


「出航準備、できてます!」


 私の叫びを聞いて、ローを含めたみんなが口をほうけたのち、飛び上がって湧く。それぞれが持ち場につくなかで、ローだけは私をまっすぐに見て、ゆっくり近づいてきた。


 お、怒られる……?


 ローの大きな手が頭に向かってきて、思わず肩をすくめる。


「でかした……!」


 ぐしゃぐしゃと私の髪をかき混ぜたローは、子どもみたいに笑っていた。


 海賊船の船長のカオに戻って指示を飛ばす幼なじみの横顔を、私はただぼうぜんとみつめた。





「私、ローのことあきらめます」


 前置きもなくそう打ち明ければ、ペンギンさんは隣ではっと息をのんだ。やけに緩慢な動きでこちらへ向くと、目も口もぽかっと開けて私を見る。ほっぺたとおでこに痛々しい傷痕。冬の脆弱な月明かりがそれを照らして、ぼんやり浮かんでみえた。見張り台でのことだ。


 ペンギンさんの表情が、きょとん、というよりは、ぎょっ、としていて、私は一抹の不安を覚えた。


「あっ、あれ? ペンギンさん、私の気持ち知ってます、よね?」


 確認のためにそう問えば、ペンギンさんはいやに歯切れ悪く、いや、あァ、まァ、と呻いた。


「気づいてはいたが、その、なんだ。面と向かっていわれると、その」


 少し驚いた、とペンギンさんは付け加えた。


「しかし、なんでまた急に」

「……」


 昼間の出来事を回想する。ローの無邪気な笑顔を思い出して、また胸が熱くなった。


「今日、ローに褒められました。出航準備してたこと」

「あァ。あれは本当に助かった。ファインプレーだ」


 ペンギンさんにまで褒められて、へへっ、と照れ笑いがもれる。


「褒められたこと、自体も、あんまりないんですけど。ああいう、みんなの命が関わっている状況で褒められるなんてこと、昔の私じゃ考えられなかった」


 ローやみんなにまもられていただけの自分。なにができてなにができないか。その判断すらできなかった、鳥かごの中の私を。


「船長としてのローを支えられれば、それだけで十分だなって。あのローの笑顔を見た瞬間、心から思ったんです」


 ペンギンさんはしばらく沈黙した。やがて、ふっと息をつくと、そうか、と穏やかに笑う。


「せめて、気持ちを伝えてからでもいいんじゃないか?」

「うーん。それも考えたんですけど」コバルトブルーの空にしかめた眉を見せる。「このままでって決めたなら、本当にこのまま、何一つ変えないほうがいいのかなって」


 気持ちを伝えても、ローならきっと上手に受け止めてくれる。けれど、彼は優しいひとなので、いまの空気感と寸分違わず、とはさすがにいかないだろう。


「なるほどな。それもそうか」

「はい。だからこのまま、自分の中で密かに埋葬します」

「……」


 つらいな。ペンギンさんがぽそりといった。


「そうですね。ずっと、つらかったなァ」


 楽しいときも幸せなときも、もちろんたくさんあったけれど。つらいことも、同じくらいあった。


「おれはいつでも、おまえの味方だ」


 頭をそっとなでてくれたペンギンさんの手は大きくて暖かくて。思わず泣き出してしまいそうになった。





 船内に戻ると、部屋の前にローがいた。


「あれっ、どうしたの? ロー」


 駆け寄ると、ローが怪訝なカオをする。


「……こんな時間にどこ行ってた」

「え? あ、あァ、見張り台。今日は冷えるから、お茶淹れて持って行ったの」


 いいながら、船内の廊下も随分冷えるなァと肩をすぼめる。部屋のとびらを開けて中へ促せば、ローの表情に躊躇いが生まれた。


「あ、あれ? 入らない?」

「……いや」


 ローはのろのろと歩を進めた。不思議には思ったけれど、さして気にも留めず、ローと一緒に部屋に入る。


「すっかり冬島の気候だね。見張り台なんて風が冷たくて――」

「誰だ?」

「へ?」

「今日の見張り」

「あ、あァ。ペンギンさんだよ」

「……」

「それがどうかした?」


 窺うように問えば、ローは心許ない声量で、いや、とだけいって沈黙した。相変わらず様子がおかしい。


「あ……。そ、そのお酒どうしたの?」


 ローの右手には赤ワインのボトルが握られていた。ずっと気づいてはいたけれど、誘われたわけではないのであえて触れないでおいた。だって、私と飲むつもりじゃなかったら恥ずかしいし。それなのに、沈黙に耐えかねて触れざるを得なくなってしまった。


「……あァ。今日はまァまァ大変だったからな。ゆっくり飲もうと思って」

「ははっ、あれでまァまァなんだ」

「まァまァだな」

「まァまァか」


 思わず笑ってしまう。ローは目を見開いてから、そっと視線を外した。あれ、笑っちゃいけなかったかな。すぐに唇を結わう。


「グラスあるか?」

「え? あ、あるよ!」


 一緒に、というフレーズはなかったので、その問いかけにほっとする。グラスを二脚戸棚から出して、一脚をローへ手渡す。私の部屋には硬い木の椅子が一脚しかないので、ローにはベッドに座るよう勧めた。


「ここで飲むのか?」

「え? そ、外行きたいの? すっごく寒いよ?」


 はたと気づいてから、それもそうだな、とつぶやく。いつものローなら考えるまでもなく気づきそうなもんだけれど、やはり何か、他の事柄が脳の大半を占めているのだろう。思考にいつものキレがない気がする。


 居心地悪そうにベッドに腰かけてから、ワインの蓋を開ける。葡萄の熟した香りが部屋いっぱいに広がった。


 お互いにお酌をしてから、いただきますといって口をつける。辛すぎず少し甘みのある味が私好みだった。


「……鍵」

「へ?」

「かけてねェんだな」


 いいながらとびらのほうへ目配せする。なにをいまさら、と訝しくは思ったが、私はおとなしくうなずいた。


「泥棒が入るわけないし、まァ、そもそも盗られて困るようなものも置いてないからね」

「……不用心だな」

「ええ? だって、船の中にいるのうちの船員だけだよ?」

「そうじゃなくて」

「え?」


 数秒、考え込むように押し黙ってから、ローは続けた。


「おまえは女だろ」


 さすがにきょとんとしてしまう。つまりローは、私の貞操を心配しているとでもいうのだろうか。


「そ、それだって大丈夫だよ。い、いままでだってなにもなかったし」

「……」


 ローはグラスの中身をいっきに空にした。慌ててボトルを手に取って、ローのグラスに注ぐ。


 変。やっぱり、どうもおかしい。最近ずっと思っていたし、理由も大体は把握しているつもりけれど。私にはどうすることもできないことだから、やはり見守るしかないんだろうか。……飲ませて気持ちを吐かせる、なんてどうだろう。


 考えごとをしながらグラスを口に運ぶ。いつのまにか私のグラスも空になっていて、ローがなめらかなうごきでお酌をしてくれた。


 だけど、お酒にのまれて本心を吐露するようなタイプじゃないしなァ。そもそもローってあんまり酔わないし。


「……ペース早くねェか?」

「へ? ……あ」


 またいつのまにか空になっている。時間差で頭がふわふわしてきて、私が飲みすぎてどうする、と心の中で突っ込みをいれた。


「こ、このお酒飲みやすいね」

「そうか? ちょっと甘ったるかったな」


 感想を述べながら、ローもグラスを空にした。口の端にこぼれた雫を舌で拭う。


 ふわついた頭でぼおっとローに見とれる。ほんと、きれいな男の人だ。老若男女問わず夢中になってしまうのもうなずける。所作の一つ一つに品を感じるのに、海賊という生業に合った荒々しさも兼ね備えていて、まさにいいとこどり。贅沢な人。


 無防備に開いた唇に目がいく。いかんいかん。あきらめるって宣言した一時間後にこんな卑猥な気持ちをもってどうする。いままで以上にもっと奥深く、こういう気持ちは沈めていかないと。


 つぶやくなら、心の中。心の中だけで。


「はー、キスしたい」

「……」

「……」


 びたりと空気が止まった。止まったというか、固まった。一瞬、自分の心の声が頭に響いたのかと思ったけれど、よくよく思い返せば空気を伝って鼓膜に届いた気がする。


 さあっ、と酔いが醒めて、いっきに血の気が引いた。


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