しあわせ
「なーにが『ローならまた新しい出会いがあるよ』だ。他の女に出会わせようとしてんじゃねェよ」
ローは独り言を吐いた。独り言のつもりだったが、向かいにいるベポとルピとナルミは同時に会話をやめた。海図を間に挟んで、わずかにカオを見合わせる。
「ローさん、***とケンカでもしたんですか?」
恐る恐るそう訊ねてきたのはナルミだ。そのとなりで、ルピはあからさまにおもしろくないカオをしている。
「え、えっ。キャプテン、***とケンカしちゃったのっ?」
動揺するベポを見て、ローは罰が悪くなってそっぽを向いた。
「……してねェよ。おれが一方的にイラついてるだけだ」
「どうして***にイラつくの? キャプテン、***のこと大好きなのに」
ベポの天然発言に、思わず目がまるくなる。
ルピが声をあげて笑った。
「大好きなのに、どうしてかしらね?」
ルピをジト目で睨み上げると、ローは席を立った。今はそんなに危険な海域にはいない。ベポがいれば大丈夫だ。
「ね? 理性、枯渇してきたでしょ?」
そらみろ、とでもいわんばかりにルピが顎を上げる。
「……あァ。おかげさまで干からびそうだ」
ローは深いため息をついた。
*
***への気持ちを隠し通すと心に決めて、たった数日。早くも面倒になってきた。
隠したところでなんになる。知られたからといって、***がこの船から下りることは二度とない。自分がそうさせないし、***もそのつもりはないだろう。
けれど、そうはいっても、過去の自分の失態が脳裏をよぎる。そうやって強引に事を進めようとして、失敗した。力任せに説き伏せてやろうと、***の気持ちもろくに考えずにいたから、結果***が船から消える事態になったのではないか。
帽子の上からがしがしと頭をかく。最近、これがくせになってきた。考えれば考えるほど堂々巡りになって、無性にイライラしてくるのだ。
もったりとした感情を腹に抱えて、甲板へ続くとびらを開ける。
最近は秋島の海域に突入して、朝晩と過ごしやすくなった。日中は適度に日が照るもんだから、洗濯ものを片付けてしまいたいという***の願いを聞き入れて今日は潜水をやめている。
とびらの隙間から楽しげな笑い声が聞こえてくる。ペンギンと***のものだ。潮風にのって、柔軟剤の香りがした。
「なにしてやがる」
そう口を挟みかけて、止まる。
ローの体は、ペンギンと***がふたりきりでいるのを見かけたときに即座に割り込むようにできている。だから、ふたりが普段どういう会話をしているのか、ローはほとんど知らない。
とびらをほんの少し元に戻して、長身をかがませる。通りがかった船員たちが、訝しげに自分を見ていった。
***は、てきぱきと洗濯ものを干しながら、なにやら熱心に空を見上げている。ペンギンは、そんな***を時折り穏やかな目で見つめながら、同じように洗濯ものを干していた。
……なにしてんだ?
すると突然、***が「あっ」と声を弾ませた。
「見つけました」
「ほう。どれだ?」
「ほら、あれ。今ニュースクーが飛んでるあたり」
いいながら、***は空を指さす。ローもその方向を見上げた。
休憩中なのか、ニュースクーは首から新聞の束をぶら下げたまま優雅に空を泳いでいた。
「ああ。あれか。……うーん、そうだな」
ペンギンが思案顔になる。難しいカオをして、***が指し示したあたりを凝視している。
なんだってんだ、いったい……。
まったく状況がつかめなくて、ローまで一緒になって空を見上げた。
「……ああ。はいはい。わかったぞ」
黙り込んでいたペンギンが目を輝かせる。
***が驚いたように「えっ」と声をあげた。
「もうわかったんですか?」
「恐竜」
「すごい! 正解です!」
***が大げさなくらいに拍手をする。ペンギンは、まんざらでもなさそうにふっと笑った。
どうやらふたりが見ていたのは、ニュースクー本体ではなく、近くにあった雲のようだ。***がなにかの形にみえる雲を見つけて、なににみえるかペンギンにクイズを出す。洗濯ものを干しながら、ふたりはそんな遊びをしているようだった。
海賊がのんきになにやってんだ……。
しゃがみこんだまま脱力する。ちょうど通りがかったシャチが「船長、なにしてんすか」と声をかけて去っていった。
「じゃあ次はおれの番だな」
「ペンギンさんの問題、いっつも難しいからなー」
しかもまさかの交代制。あんなこと、いつもやってるのか。
あきれながらも、***の横顔に目がいく。太陽の光を全身に集めて、***は無邪気に笑っていた。
こんなところで海賊なんてやってなきゃあなァ……。
最近、***の笑顔を見るたびに、ふとそんなふうに思う。自分と一緒になんて来なければ。***は今ごろあの町で結婚でもして、ペンギンのような穏やかな男のとなりであんなふうに笑っていたのかもしれない。自分のような荒くれ者のとなりなんかではなく。
***を女としてみるようになってから、***の女としてのしあわせを考えるようになった。父と結婚した母が、いつもしあわせそうだったからだ。
平和な町――実際はそうではなくなってしまったが――で家庭をもち、子どもを産み、心穏やかに日々を過ごす。そんな未来が、***にも待っていたのかもしれない。その可能性を、ほかならぬ自分がむしり取ったのだ。
とびらにもたれかかってため息をつく。今さらそんなことを考えたところでなんになる。考えるだけ無駄だ。
けれど、無駄とわかっていて、考えてしまう。
自分が***をしあわせにするには、どんなことをしてやればいいのだろう。
とびらの向こうの笑い声に、ローははっと我に返った。見ると、***が飛び跳ねて喜んでいる。どうやらペンギン出題のクイズに正解したらしい。
おれもああいうことをすればいいんだろうか。……いや、おれがやったら却って不審か。第一そういう問題じゃあ――。
「……ん?」
ふと気にかかることがあって、ローは思考するのをやめた。眉根を寄せて、***とペンギンの手元を見る。
ふたりは不可解な行動をとっていた。かごの中から洗濯ものを取り出したペンギンが、なぜかそれを自分で干さずに***に渡している。***も、特になにをいうでもなくそれを受け取って当たり前のように干していた。
ペンギンが取り出す役、***が干す役というふうに役割が決まっているならわかる。しかしそれならば、すべての洗濯ものをそうするはずだが、そうではない。ふたりは決まった洋服だけをそういう役割で片付けている。
それはすべて、ローの服だった。
「船長。さっきからなにやってるんすか?」
戻ってきたシャチが、先ほどよりも声を張ってそう訊ねてくる。
その声で、***とペンギンが同時にこちらを見た。
「あれっ。ロー、どうしたの?」
「ベポたちと航路の相談してませんでしたっけ?」
ふたりそろって目をまるくする。
「……外の空気を吸いにきた」
盗み見していたのが後ろ暗くて、小さな声で答えながらようやく甲板へ出た。
「えっ。気分でも悪いの? 大丈夫?」
「そうじゃねェよ。潜水もしてねェし、日差しも強くないしな」
いいながら、手すりを背に座り込む。
***は安堵したように肩の力を抜いて笑った。
「そ、そっか。ならよかった」
「それ」
「え?」
ちょうどまたペンギンが***にローの服を手渡したので、ローはすかさずそれを指さした。
「さっきからなにしてる。どうしてペンギンはおれの服を干さねェ」
ただ疑問を投げかけただけだったが、ふたりは小さく肩を揺らした。
***が慌てて首を横に振る。ついでに、ペンギンを庇うようにして立ちはだかった。
「ちっ、違うよロー。ペンギンさんが干さないんじゃなくて、私が干したいってだけでっ」
「……あ?」
「……あ」
当の本人には知られたくなかったようだ。***はカオを真っ赤にして俯いた。
「船長の服は全体的に細身なので、決まったハンガーがあるんです」
答えられなくなった***の代わりにペンギンがそう口を挟む。
「あ? ハンガー?」
「以前、みんなと同じハンガーに船長の服を干したら、肩の部分が型崩れしてしまって。***が船長の姿を見るたびに落ち込んでたんです」
ローはいま着ている服を見た。確かに、自分の体型に合ったサイズの服に出会えることはそうそうない。だから、サイズが合えば同じものを複数買いそろえることも多い。そんな希少価値の高いサイズなので、一般的なサイズのハンガーで干したらそりゃあ型崩れが起きるかもしれないが。
「多少型崩れしてもおれは気づかねェし、かまわねェが」
「私はかまうのっ。せっかくあの服、ローの曲線美が綺麗に出る服だったのにっ」
「きょくせんび」
少しも意識したことがないので、ついひらがなみたいな発音になる。
しかし***は本当に気にしているようで、いまも悔しげに胸をかきむしっている。
「なので、ほら。これは船長専用のハンガーなんです。***が買いそろえたんですよ」
ペンギンの手に収められたそれは、所々補強されていて使い古されている。けれど、そうは感じさせないくらい、汚れは一つもついていなかった。
「干し方にもこだわりがあるそうで。おれはまだ修行中なんです」
ペンギンがおかしそうに笑う。いや、それにつき合ってやっているおまえもおまえだぞ。
「あ、ペンギンさん。あとローの服で最後みたいなんで。私やってしまいますね」
「あァ。じゃあ頼んだ」
昼飯の用意を手伝うというペンギンと一緒に船内へ戻る。
途中、ペンギンが口を開いた。
「船長のことを考えてると、しあわせなんですって」
「……あ?」
しあわせ、という言葉に耳介が動く。
「ああやって、ハンガー一つとっても、船長のことを考えて行動しているだけで、しあわせなんだそうです」
「……へェ」
「愛されてますね」
とびらを閉める前に、もう一度***を見る。
***は、ローのパーカーを宝物のように丁寧に干していた。
その横顔が、かつての母の面影に重なる。
「……あァ。そうみてェだな」
ローは小さく笑うと、そっととびらを閉じた。
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