恋-2

「理論的に、というのは、そもそも難しいと思います」

「“そもそも難しい”? なぜだ」

「だって――」


 いつもは涼しげな目元が、水面のように揺れる。瞳の奥をゆらゆらと潤ませて、ナルミは言った。


「恋って、本能的にしてしまうものだから」

「……本能的に?」 

「はい。だって、おれだって――」ちら、とローを見遣ってから、続けた。「理論的に――頭で考えてできるものなら、女の子を好きになってます」

「……あァ」


 ローは、気まずくなって視線を外した。ナルミの、切なげな視線を受けて、どこか責められているような気持ちになる。この男の気持ちを知っていて、こんな質問をするのは、確かに無神経だったかもしれない。


 いや、しかし――勝手に好きになる方が悪い。


 持ち前の豪気な気性を立て直して、ローは、つまり、と切り出して、ナルミを見据えた。


「おまえは、おれに“強く惹かれ、会いたい、一緒にいたい、独り占めしたい、精神的にも肉体的にも結ばれたい”――そう思ってるんだな?」

「えっ」


 ナルミは、白い頬を赤らめた。滑らかな曲線を描く唇が、わずかに怯えたように震える。


 やがて、観念したように、ナルミは蚊の鳴くような声で、はい、と言った。


「なるほど」


 そう呟いて、ローは、ナルミの手から辞典を取り上げた。開きっぱなしだった三百二十八ページを、視線で軽くなぞってから、閉じた。


 ベッドに辞典を放ると、ローは小さく息をついた。


「そのすべてのピースが揃って初めて、〈恋〉になるということだな」

「はァ、まァ……」

「よくわかった」


 やはり、自分には経験がない。ローは、改めてそう実感した。


 正直なところ、ルピが、自分にとってのそれなのではないかと、ローはずっと感じてきた。とはいっても、いつもそんなふうに感じていたわけではなく、ふとしたときに、ああ、この女は、他の女とは違う、だから、恋なのかもしれない、と、頭の片隅を掠める程度だ。この女相手なら、自分という人間が恋をしても、まァ、納得もいく。そんな感じだった。


 けれど、辞典や、ナルミの話と照合すると、どうやらそれは違うらしい。確かに、ルピには他の女にはない、特別なものを感じる。けれど、それは〈恋〉とは違う。


 ローは、ルピに対して、“強く惹かれ、肉体的にも結ばれたい”とはそれなりに思うが、“会いたい、一緒にいたい、独り占めしたい、精神的にも結ばれたい”とは、まったく思わなかった。厳密に言えば、“強く惹かれ”も、若干疑わしい。


 すべてのピースが揃わない。やはり、ルピではない。それがわかっただけでも、とりあえずローは満足した。


「付き合わせて悪かったな。もう行っていい」

「……はい」


 ナルミは、渋々、といったふうに、立ち上がった。もう少し自分と話をしていたかったのかもしれない、と感じたが、その気持ちに応えることが、ナルミに期待を持たせる一端になるかもしれない――そう考えて、ローは、彼を引き止めることはしなかった。


 けれど、ナルミは扉の前で立ち止まると、名残惜しそうに、ローの方へ振り向いた。


 そのことに、ローは無論気づいたが、ベッドに寝そべったまま、目を開けることはしなかった。


「おれ――」静かな声が、船長室に響いた。「おれ、ローさんと***のこと、邪魔するつもり、ありませんから」


 その言葉に、思わず目を開ける。正確には、突然、脈絡もなく出てきた名前に、ローは眉を顰めた。


「***? なぜ***の話になる。なんの話だ」


 ローは体を起こした。顰めた眉を、そのままナルミへ向ける。


 ナルミは、少し怖気づいたようなカオをして、けれど、それと同時に、不思議そうなカオもしていた。


 ナルミは、不思議そうなカオの方を色濃くしてから、言った。


「だって、ローさんは、***に恋してますよね?」


 そう問われて、ローは一瞬、頭が真っ白になった。なぜか、頭の中が、夏島に浮かぶ入道雲のように、真っ白になる。


 真っ白なまま、声だけが、は? と、口をついて出た。


 ナルミは、少し戸惑ったように瞳を揺らしてから、彼特有の切れ長の目を、すっとローへ向けて、断定的に言った。


「ローさんは、***のこと、好きだと思いますよ」


 かしゃん、と、心の中で、なにかが割れる。いや、割れたのではないのかもしれない。心の中で散らばって、うまく片付けられないでいたものが、突然、一瞬で綺麗に組み立てられたような。そんなふうにも、感じた。


 あるいは、そのどちらも、なのかもしれない。


 とどめを刺すように、ナルミは、彼特有の清廉な声で言った。


「ローさんは、ずっと、***に恋してるんです」




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