恋-1

“恋――特定の相手に強く惹かれ、会いたい、一緒にいたい、独り占めしたい、精神的にも肉体的にも結ばれたいなどと思う気持ち。”


 ローは本を閉じた。表紙に書かれている〈ことばの意味辞典〉の文字に視線を滑らせる。


 腕を組んで目を瞑る。潮騒とウミネコの遊び声、仲間たちの喧騒――そのすべてに聴覚を預けて瞑想する。


 こい、コイ、恋――。


 目を開ける。見慣れた船長室を睨みつけて、ローは呟いた。


「……解せん」



 

 喧騒を辿って行くと食堂に着いた。扉が半開きになっているのを見て、シャチが中にいることを悟る。案の定、扉の隙間からはシャチの笑い声が漏れていて、ローは眉を顰めて扉に手をかけた。


「シャチ。おまえまた扉が半開き――」

「あっ、船長ー! 聞いてくださいよォ、ペンギンがまたチェスでズルを――」

「おまえが勝手に罠に嵌っただけだろう」

「罠かけるなんてズルじゃねェかっ」

「ズルじゃない。作戦だ」

「……シャチ、だから扉が――」

「ねっ、船長! ズルですよね? ねっ」

「船長を仲間に引き込もうとするな」

「男なら正々堂々戦えよなっ」

「おまえはもう少し頭を使え」

「やっ、やなやつー!」

「……」


 ローは踵を返した。不毛な言い争いをする二人から離れた位置に座って、椅子に脚を乗せる。愛刀を抱えて腕を組むと、目を瞑った。先ほど辞典で見た文字が、バラバラになってまぶたの裏で舞った。


 あんな子どものようなシャチでも、〈恋〉を知っている。いや、実際に本当に知っているかどうかは疑わしいところだが、少なからず実感したことはあるのだろう。シャチは街に停泊するたびに『失恋したんす……』と泣きべそをかきながらいつも出航準備をしている。


 ……言えない。口が裂けても。――自分は、恋を知らないなんて。


 幼少期に家族をなくし、恩人もなくし、ローにはそういうことを教えてくれる人間がひとりもいなかった。本来ならば成長と共に同性の親にそれとなく教えられるのかもしれないが、幼かったローに父が教えたのは医学のことだけだった。


“恋――特定の相手に強く惹かれ――” 


 乱雑に並んだ文字を組み立てていく。けれど、何度その文字を心の中で復唱しても、ローの疑問は増すばかりだった。


「二人ともなに喧嘩してるの?」


 中性的な声が耳に届いて、ローは目を開いた。声のした方を一瞥すると、興奮したシャチを宥めているナルミの姿が目についた。地下倉庫から食材でも取りに行っていたのだろう。細い腕にはダンボール箱が抱えられていた。


「……ナルミ」


 思わず呼びつける。


 ナルミはミーアキャットのようにぴんと耳をそばだてると、忙しく辺りを見渡した。程なくしてローの姿を目に捉えると、ダンボール箱をテーブルの上に置いて子犬のように駆けてきた。


「はい。なんでしょう、ローさん」

「ちょっと来い」


 ナルミの答えは聞かず立ち上がる。一瞬ナルミが頬を赤らめたのは見なかったことにして、ローは船長室へと誘導した。



 

「解説してみろ」


 船長室に着くなり、ローは机の上に置きっぱなしにしていた本をナルミへ差し出した。


 胸に押し付けられた〈ことばの意味辞典〉を受け取りながら、ナルミは戸惑ったように忙しくまばたきを繰り返した。


「か、解説……ですか?」

「あァ。三百二十八ページ、十六行目だ」

「……はァ」


 ローがベッドの縁に腰かけたのを見て、ナルミは唯一ある椅子におずおずと座ってから本を開いた。


「三百二十八ページ……十六行目……」


 女のような指がページを捲っていく。該当のページが近くなってきたのか、捲るスピードを緩めてあるページで完全に動きを止めた。


 人差し指で文字を辿っていく。ついに目標に辿り着いたようで、ナルミはマネキンのように整ったカオをローへ向けた。


「〈恋〉、ですか……?」

「あァ。解説しろ」

「解説しろって……このままの意味だと思いますけど……」ナルミはページを押さえたまま表紙を見返した。「これ、有名な辞典ですよね? 載ってない言葉はないし、シンプルで分かりやすいって新聞か何かで読んだことあります」

「おれには説明がシンプル過ぎて却って理解ができない。もう少し理論的な解説がほしい」

「あァ。なるほど……」


 そのローの言い分には納得したようだが、ナルミは困ったように瞳を揺らして腕を組んだ。リロンテキ、と、口の中で復唱をする。


 ナルミが答えを導き出すまでローは辛抱強く待った。自分と似た思考回路を持っているのは、この船ではペンギンとルピ、そしてナルミだけだ。船員であるペンギンに教えを乞うなんて船長の沽券に関わるし、ルピは異性という時点でまったく同じ思考回路とは言えない。厳密にいうと純粋な船員ではなく、同性であるというピースが揃うのは、ナルミだけだった。


 ローの刺すような視線に気圧されたのか、ナルミはおそるおそるといったようにカオを上げた。


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