となり 2/2
第一弾の洗濯物を乾かしているあいだに、第二弾の洗濯物を洗い始める。洗濯物の洗い場は特に設けられていないので、私はいつも大浴場の脱衣所で洗っていた。
しゃがみ込んで、みんなのシーツを一枚一枚洗濯板で洗っていく。すると突然、勢いよく脱衣所の扉が開いた。息を切らして入ってきたその人物に、私は目をまるくした。
「ロっ、ロー?」
「……おまえだけか?」
「う、うん。……そんなに慌ててどうし――」
「しっ!」
ローは、すらりとした人差し指を口元に当てた。その表情は険しく、こめかみから汗まで垂らしている。
何事かと訊ねようと、口を開きかけて止まる。廊下の方から、ものすごい勢いで足音が近付いてきたからだった。
ローがとっさに浴場に隠れたのと、脱衣所の扉が開いたのは、ほぼ同時だった。
「***!」
「ル、ルピ!」
「ロー船長、見なかったっ?」
まるで鬼のような形相で、ルピが詰め寄ってくる。
思わず浴場の方を見そうになって、止まる。ぎこちない笑顔をルピに向けて、私は答えた。
「こ……ここには来てないよ?」
「……本当でしょうね?」
美しいアーモンドアイに凄まれて、思わず肩をすくませる。やっとの思いで首を上下に振ると「本当、本当」と繰り返した。
「……」
「ど、どうしたの……?」
「……まァ、いいわ」
悔しげに爪を噛みながら、ルピは脱衣所を出ていこうとした。ほっとしたのも束の間、手入れの行き届いたブロンドを翻して、ルピは振り向いた。
「いい? ***。ロー船長を見かけたら、真っ先に私に教えてちょうだいね?」
「わっ、わかった」
「間違っても、あの男にだけは教えないでちょうだい」
「あ、あの男?」
「決まってるでしょっ? あの海賊狩りよ!」
「あ、あァ。はーい……」
再び身を翻して、今度こそルピは脱衣所を出ていった。
「……」
「……」
「……もう大丈夫だよ。ロー」
そう声をかけると、ローは疲れ切った様子で浴場から出てきた。猫のように背を丸めているせいで、せっかくの長身が子どものように小さく感じる。
私は思わず笑ってしまった。
「人気者も大変だね」
「ったく……いい迷惑だ」
そうぼやきながら、ローは私の隣に腰を下ろした。
ローの二の腕が、私の肩にわずかに当たる。潮風と、消毒薬と、汗の匂い。そういえば、ローとこんなふうに二人きりになるのは、随分と久しぶりかもしれない。
ローの存在がいっきに近くなって、ドコドコと鼓動が駆けてくる。その音がローまで聞こえてしまうのではないかと心配になって、私は声を張り上げた。
「ロっ、ローって」
「あ?」
「おっ、男の人は、ダメなの?」
「……」
「あ、ほ、ほらっ。昔、男の人と宿入っていったこと、あったよね?」
「……若気の至りだ。アイツには言うなよ」
「ア、アイツ?」
「ナルミ」
「あ、あァ……」
「期待されても困る」
「……」
と、いうことは……今はもう男の人はダメなんだろうか。いやいや、でも、まったく経験がないわけじゃないんだから、あるってだけでまだ可能性は――
「ったく……愛だの恋だの、くだらねェ」
ローが、吐き捨てるようにそう言う。
まるで、自分に言われているようだ。私の胸はつきりと痛んだ。
「……く、くだらない、かな?」
「あァ。くだらねェ」
「……」
「あんなふうに理性を欠いて、自分を見失う。今のアイツらがいい例だ」
「……で、でも」
「あ?」
「確かに、そういう時も、あるかもしれないけど」
「……」
「だけど、全然……それだけじゃなくて」
ローに恋して、自分を見失って……自分を嫌いになる時も、確かにある。
だけど、そんな自分を愛おしいとも思う。こんな、バカみたいに夢中になって、好きで好きでたまらなくて。ローの一挙手一投足に振り回される自分が、かわいく思える時もある。
何より、ローがこの世に存在してくれているだけで――それだけで、私の人生は宝石よりもキラキラ輝くことができている。本当、大げさじゃなくて。
黙り込んでいたローが、へェ、と口の中だけで唸る。そしてすぐに、で? と問いかけてきた。
「……はっ、はい?」
「おまえは、どこの馬の骨に恋してるって?」
「……! ごほっ」
何も飲んでいないのに噎せた。カオを真っ赤にして咳き込んでいる私を、ローはじいっと睨んでいる。
何もかもを見透かすような藍色の目に射抜かれて、私の鼓動はますます逸りだした。
「いっ、いやっ、だからあれはっ――」
「童話や小説の受け売りだって? おまえの嘘が、おれに通用すると思ってんのか」
「うっ」
「さっさと吐きやがれ」
なんだか今日は、人によく疑われる日だな……。
私は観念した。とは言っても、もちろん本当のことを言うわけにはいかない。こんなこともあろうかと考えておいた筋書きを、私はつらつらと語った。
「あ、あれは実は……子どもの頃の話でね」
「……子どもの頃?」
「子どもの頃って言ってもあれだよっ? ローに出会う前の、ほんとこんな、こーんな小さい頃!」
こーんな、のところで、親指と人差し指をくっつく寸前まで近付ける。
ローが、あからさまな呆れ顔をした。
「おまえの幼少期は米粒か」
「も、物の例えだよ」
「子どもの頃、ねェ……」
「……」
「……へェ」
口の中で小さく唸ると、ローはまた押し黙った。すぐ真隣にいるので、その表情は窺い知れない。
沈黙が苦しくなってきて、そそくさと洗濯を再開する。シーツを洗濯板に擦り付ける音だけが、脱衣所と鼓膜に響いた。
な、
なぜお黙りに?
まさか、まさかだけど……バレたわけじゃないよね?
内心ひやひやとしながら、シーツの汚れを取っていく。小窓から滑り込んできた潮風が、すうっと二人の間をすり抜けた。
「でも――」
ローがようやく声を出す。
視界の端で、ローの柔らかな髪の毛がふわりと浮いた。
「でも……おまえは、おれと来ただろ」
「……え?」
思わず、洗濯板から目を離す。ローの方を見れば、ローの横顔は小窓から見える夏空を見上げていた。ウミネコの鳴き声が、潮風に乗って聞こえてくる。
故郷を出て初めての朝も、こんなふうに二人でウミネコの鳴き声を聞いた。
「親も、友だちも……恋も、すべて置いて」
「……」
「おまえは、おれと一緒に海へ出た」
「……」
「おれにとって、その事実以上に大事なもんなんて、なくていい」
「……」
「だからおまえも、おれ以上に大事なもんは作るな」
「……」
「わかったな」
「……ははっ」
たとえ、この気持ちが恋じゃなかったとしても。
私はきっと、ローについてきていた。
「ローは私にとって、友情とか恋とか……そういう次元超えてるから」
そう受け答えれば、ローはとても満足そうに口の端を上げた。
「じゃあ、おれはその男以上ってことだな」
「こ、こだわるね、そこ」
「忘れろ。そんな男」
「……ローが思い出させたんじゃん」
まァ、実在しないんですけど。そんな人……。
ローが、全体重を私に預けてくる。ドキドキする間も無く、ローの頭が私の頭の上に乗った。
「おまえの隣が、一番落ち着く」
たとえこの気持ちが、恋として叶わなくても。
あなたが隣にいるだけで、私は――
「……光栄です。キャプテン」
隣で目を瞑っているローが、楽しそうにくつくつと笑った。
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