嵐がやってきた!

その扉をあけると、湿っぽい潮風の匂いがした。


天候は、晴れ。ニュースクーが、青空のなかを忙しそうに泳いでいた。


「よォ。気分はどうだ。」


その言葉が自分にかけられたものだと、すぐにわかった。女は声のしたほうを向いた。


男は、白いくまに寄りかかって本を読んでいる。くまは眠っているようだ。ひらいたらまるいであろう瞳は緩く閉じられていた。


「あら、どうも。」

「その分だと、悪くはなさそうだな。」

「ええ。おかげさまで。それにしてもおどろいたわ。目を覚ましたらだれもいないんだもの。」


あざけりが混じったその言葉に、ローは小さく口元を歪めて笑った。


「おまえに見張りはいらない。」

「あら。なぜ?」

「なぜ?カンタンだろ。おまえにおれたちをどうこうする力はねェ。それがわかったからだ。」


言いながら、本のページを一枚めくった。


紙面をすべるその指を、粗悪な刺青が装飾している。文字を追う目は、定規で引いたように切れ長だ。


いつだったか、バーかどこかで目にしたそれを、女は思い出していた。懸賞金は1億をゆうに越えていたはずだ。


写真より、いくらか幼く見える。


それに、


いい男だ。


「…あの子は?」

「あの子?」

「あの女の子。ほら、私を助けてくれた。」

「…あァ。それがなんだ。」

「あの子一人なら、私にも殺せそう。」


男の目が、初めて自分に向けられた。


もともと吊り上っている目が、さらに吊り上げられている。


いまの一言は、どうやらよくなかったらしい。


ルーキー至上、もっとも冷徹非道な海賊と称されるこの男のアキレスけんは、やはりあの小娘だったようだ。


「そんなに怒らなくてもいいじゃない。ジョーダンよ。私にあの子を殺すメリットがある?助けてもらったのに。」

「…メリットがあろうがなかろうが、好きなヤツは殺すだろ。人殺しが好きなヤツはな。」

「あら、私がそんな殺人鬼に見えて?」

「そんなことは知らねェよ。知らねェ、が。」


そこで言葉をきると、ローはいくらか目元をゆるめた。


「おまえは、そんなことしねェ。」

「…あら、なぜ?」

「理性的だからだ。それに頭もキレる。自分に不利益なことはしねェ。」

「おかしなことを言うのね。会ったばかりの人間のことがわかるの?」

「あァ、わかる。」


節ばった人さし指が、女のほうへ向けられた。


「おまえはおれによく似てる。」

「…!」

「おまえもそう言ったろう。」

「…自分は理性的で頭がいいと?」

「あァ。」

「自己評価が高いのね。」

「何言ってやがる。低いくらいだ。」


その一言に、女は愉快気に笑った。


おもしろい男だ。なるほど。『いい』かもしれない。


「ねェ、あの子はどこにいるの?」

「…なぜだ。」

「なにもしないわ。ただおしゃべりするだけよ。」


笑みを浮かべる女のカオを一瞥して、ローは数秒押し黙った。


するとやがて、「今の時間ならキッチンだ。」と告げた。


女はその言葉を聞くと、くるりと踵をかえした。


背中に、突き刺さるような視線を感じた。


あの射抜くような目が、自分を見ているのだ。


女は、口元に大きな弧を描いた。


ー…‥


キッチンを訪れると、迎えてくれたのは目的の人ではなかった。


「…何か用かよ。」


サングラスの奥から、わずかに敵意が向けられている。


その手に握られていたのは、男性が「楽しむ」ための本で、表情とのアンバランスさに、女は小さく笑った。


「そういう女が好みなの?」

「あ?」


キャスケット帽子の坊主がほうけたカオを向けてきたので、女は顎でそれをしゃくった。


「えっ、あっ、いやっ、これはっ、」

「右のページの女のほうが、きっとしまりがいいわよ。」

「は?」

「ほら、足首が細いでしょう?足首のしまりはアソコのしまりに酷似しているって、そういう話。聞いたことない?」


シャチは思わずエロ本に目をもどした。


なるほど。たしかに右の女の方が足首が、


「…ってコラっ!どこに行く気だよっ!」


女はすでに、厨房の方へ足を進めていた。


いたずらが見つかった子どものように肩をすくめると、女は言った。


「女の子がここにいるでしょう?私を助けてくれた。」

「…だからなんだよ。」

「その子に会いたいの。」

「***に?なんでだ?」

「助けてくれたお礼をまだ言っていないから。」

「…いや、でも、」


キャスケット帽子は、戸惑った表情を浮かべた。


「…そんなに警戒しなくても、***ちゃん?がここにいることを教えてくれたのは、船長さんよ。」

「えっ、」

「よっぽどあの子が大切なのね、あの船長さん。あなた、ボディガードでも頼まれてるんでしょう?」


図星だったのか、キャスケット帽子は罰が悪そうに目を泳がせた。


「ほんとに何もしないわ。私はただ、…!」


中途半端に会話を終了させて、女はシャチから目線を外した。


それがどうやら自分の後方へ注がれていると気付くと、シャチは弾かれたように振り向いた。


「***!」


厨房から出てきた***は、シャチ、そして女へと目を彷徨わせると、困惑したカオをシャチに向けた。


「話す声が聞こえたから…」

「こんにちは。***、ちゃん?」


答えたのはシャチではなかった。女は微笑みながらそう言った。


「…具合はもういいんですか?」

「ええ、あなたの船長さんのおかげで、もうバッチリ。」


女がそう言うと、***はわずかにその表情を歪めた。


「もしかして、船長さんの悪口を言ったこと、まだ怒ってるの?」

「…………………。」

「な、なんだよ、船長の悪口って…」


聞き捨てならなかったのか、シャチが横からそう口を挟んだ。


「…シャチくんは知らなくていいことだよ。」

「そうよ。だってただのジョーダンだもの。船長さんも怒ってなかったわ。」


二人の女は笑っていたが、その表情は相対するものだった。


***のこんなカオを初めて見たかもしれないと、シャチは思った。


船長が絡んでいるなら、それも頷ける。


「ねェ、そんなに怖いカオしないで?私、あなたにお礼を言いたくて来たのよ。」

「お礼?」

「ええ。助けてくれたお礼。あの時は本当にありがとう。助かったわ。」


女がそう頭を下げても、***の表情が和らぐことはなかった。


「…それから、船長さんのことも。悪く言ってごめんなさいね。」

「…………………。」

「ちょっとおどろいたのよ。海賊が人助けなんてするかしら、ってね。」

「…ローは私のわがままを聞いてくれただけです。」

「そうだったわね。わかったわ。」


ようやく、***は強張らせていたカオの力を抜いた。


「それにしても、あなたと船長さんってどういう関係?」

「え?」

「だってあの人、女のわがままを聞くようなタイプじゃないでしょう?それに、ボディガードまで。」


アーモンド型の目でシャチを一瞥しながら、女は言った。


「かと言って、恋人同士でもなさそうだし。」

「ど、どうしてですか?」


女のその言葉に、***は少なからずおどろいた。


初めて会った人間には大概、恋人同士と思われる。


「だってあなたたち、セックスの匂いがしないもの。」

「セッ…!ごほっ…!」


思わずむせた。少し離れたところでシャチもむせていた。


「それとも、ええ?恋人同士なの?」

「ちっ、ちがいます!ちがいます、けど…」

「じゃあ、なに?兄妹にしては似てないし…」


***はひとつ、咳払いをすると、ごにょごにょと答えた。


「私とローは、幼なじみです…」

「幼なじみ?それだけ?」


***はわずかに眉をしかめたが、すぐに「それだけです。」と小さく言った。


「ふうん、そう…」

「そ、それがなんですか?」

「いいえ、べつに?…でも、」


言いながら、女は歩き出していた。***のいる方だった。


シャチはわずかに身構えたが、それを制したのはかるく上げられた***の右手だった。


女は、***の耳元に口を寄せた。


「あなたは、それだけじゃなさそう。」

「…え?」

「船長さんのことをあなたがどう想っているのか、私にはわかるってこと。」

「…!!」


***は愕然としたカオで女を見た。女は薄く笑っていた。


「しばらくここでお世話になると思うわ。…君も、よろしくね。」


あとのほうの言葉は、シャチに向けられたものだ。


「応援するわ、***ちゃん。」


そう耳打ちすると、唖然とする二人を置きざりにしてキッチンをあとにした。


がやってきた!


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