光のない、夢をみる

 聞き覚えのある音がする。鼓膜の下から突き上げてくるような、そんな音。それが次第に、確実に近付いてくる。


 ローは、瞑っていた目をゆっくりと開けた。けれど、そこに光はなく、ただただ闇ばかりが広がっている。次第にローは、自分が何者で、どこにいるのかも分からなくなってきた。


 足元が頼りなく揺れる。まるで地面がないかのように、ゆらゆらと。その感覚には慣れているはずなのに、ローは〈あの頃〉と同じように、心細くなってきた。


 轟音が迫る。足元が揺れる。息がやけに切れる。自分の荒い呼吸音も、轟音と同じ音量で耳に届いた。


 縋る思いで光を探す。目を細めて必死に辺りを見渡せば、たった一箇所、じんわりと光が滲んでいる場所を見つけた。


 その光の中に、***がいた。不安げな表情でローを見ている。何かを言いたそうにしているのに、***は何も言わなかった。


 ――どうした。どうして、そんなところにいる。早くこっちに来い。


 声に出しているはずなのに、出ていない。***にも届いていないようで、***はただただ不安げに目を伏せている。


 轟音が、もう近くまで来ている。そこまで来て初めて、この音がサイクロンの音だと認識した。


 ***、そこにいるな。早く、おれのところに――。


 声が届かない。伸ばしているはずの手が届かない。心臓が、ドック、ドックと、冷たい音で高鳴り始めた。


 ***、そのままそこにいたら、おまえは――。


 ようやく脚が動いた。けれど、走っているのに、***がちっとも近くならない。それでもローは、息を切れ切れにしながら、必死に走った。


 轟音がもう耳のそばだ。***を助けなければ――。


 手を懸命に伸ばす。もう少しで***に触れられそうだ。もう少し――。


 助けられる――そう確信した瞬間、***がローを見た。そして、ゆっくりとその表情を変えていく。


 ***のそのカオを見て、ローは一瞬、***に触れるのを躊躇った。


 そして、次の瞬間、***は自然の脅威に丸飲みにされた――。









「***――!」


 自分のその叫び声で目が覚める。あんなにうるさかった轟音は嘘のように消えていて、自分の荒い息遣いだけが空間に残されている。必死に手を伸ばしている先は、見慣れた船長室の天井だった。


「"また"、夢を見たの……?」


 その声に、はっとする。声のした方を見れば、隣で眠っていたルピが心配そうにローを見つめていた。


「***が戻って、もう随分とたつのに……」

「……」


 深く息を吸って、長く吐き出す。嫌な速度で動いていた心臓が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していった。


 ベッドから出ると、手近にあったタオルで汗を拭いた。こめかみから首元まで、びっしょりと滴っている。タオルを床へ放ると、湿っぽくなった服を脱いだ。


「……どこへ? まだ三時よ?」


 ルピのその問いかけに、窓の外を見る。うっすらとだけ空が白んできていて、確かにそのくらいの時間なのだろうと、ローは思った。


「……様子を見てくる」


 そうとだけ言い残して、ローは船長室を出た。





 ***の部屋の前に立つと、静かにドアノブを回した。キィ、と控えめに蝶番が鳴く。室内はまだ暗い。


 部屋に入ると、***の寝息が聞こえてきた。それだけでも、ローの心は少し落ち着いた。


 部屋に入って、ベッドサイドに立つ。しゃがみ込んで、***の寝顔を覗いた。


 瞑った目が緩い。もうじき目覚めの時刻だと、脳が気付き始めているのだろう。あと少し日が昇れば、***は自然に目覚めるかもしれない。


 ***の頬についた傷に目がいく。剣の稽古をつけてやると明言したあの日から、***は毎日のように教えを乞いにやって来る。厳しくしているつもりではあるが、それでも***は、毎回生き生きと剣を振っていた。


「ロー……」


 ***が、はっきりと自分の名前を呼ぶ。起こしたのかと思ったが、***の口元はむにゃむにゃと波打っていた。


「ロー……もういっちょ……お願いしま……」


 ローは軽く目を見開いてから、呆れたように笑った。どうやら***は、夢の中でも稽古をしているらしい。夢の中の自分は、一体どんな返事をしたのだろうか――。


 立ち上がって、扉へと移動する。最後にもう一度***を見てから、ローは部屋を出た。





「……何してる」


 水を飲もうと食堂へ入れば、まだ誰もいないキッチンにナルミがいた。


 覇気のない黒目を少しまるめてから、ナルミは自分の手元に視線を落とした。そして、右手に持っていたおたまを少し持ち上げた。


「朝ご飯の用意」

「……」


 ローは、手近にあった椅子を引いた。それに腰を下ろしながら、左の口の端を上げた。


「毒でも盛ってんじゃねェだろうな」

「……毒?」


 虚をつかれたような表情をしてから、ナルミはもう一度自分の手元を見た。そして、カオを上げてから言った。


「その発想はなかった」

「……」


 あからさまな呆れ顔をナルミへ向ける。向けられた本人はというと、そんなことは意に介さず、手元の鍋に意識を戻していた。


 ――変な野郎だ。しかし、まァ……コイツなら確かに、毒を盛るなんて方法はとらないだろうな。


 大して知りもしない男なのに、ローはそう感じ取っていた。自分の中の本能的な部分が、そう確信している。何より、損得勘定なしに***を助けた男だ。ズル賢いタイプではないだろう。


 さて、自分は何しにここへ来たか――あァ、そうだ。


 早朝だからか、頭が完璧には働かない。水を飲もうと立ち上がったところで、ナルミがお椀を差し出してきた。


「……なんだ」

「お味噌汁」

「……こんな時間から腹なんて減らねェよ」

「汗かいたんじゃないの?」

「……あ?」


 眉を顰めてから、自分のこめかみに手を当てる。拭いきれていなかった汗が指の腹について、そのまま袖口で乱暴に拭った。


「塩分、摂った方がいいよ」

「……」

「ほら」


 見下ろしたお椀から白い湯気が立っている。それに乗った味噌と出汁の匂いを嗅いだら、なんだか腹が減ってきたような気がした。


「塩分摂れって……ババアか、おまえは」


 憎まれ口を叩きながらも、ローは素直にお椀を受け取った。それを見たナルミが満足そうに微笑んだので、ローはつんとそっぽを向いた。


 汁を一口口に含む。***が作る味噌汁と同じ味がした。


「美味しいでしょ」

「……」

「***に教えてもらったから」

「……」

「***に教わる前までは、ただのお味噌溶かしたお湯の味だったんだけど」

「……」

「料理ってやっぱり、手間暇必要――」

「アイツはどうだった」


 無意識のうちに口を突いて出ていた。唐突な上に主語もなかったので、問われたナルミは、ぽかんとした。


「え?」

「……おれたちと離れている時の、アイツは」

「……」


 ナルミは何も答えない。底のない漆黒の瞳が、質問の意図を汲み取ろうとローを見つめてくる。


 その視線から逃げるように、ローはゆっくりと目を瞑った。


「アイツがいなくなってから……毎晩夢をみる。今もだ。夢の中でアイツは、毎回波にさらわれる。今日こそ助けてやりたいと思うのに、どうあがいても助けられない」


 まぶたの裏に、***の最後の表情が蘇る。


「助けられると思った瞬間――アイツが笑うからだ」


 夢の最後で、***はいつも笑っていた。寂しげに――それでいてどこか、幸せそうに。それを見るたびに、まるで金縛りにあったように動けなくなって、そんな自分に失望するのだ。


「あの日――***が波に飲み込まれた、あの時――***は確かに笑っていた」

「……」

「***がいなくなってからずっと、あの笑顔の意味を考えてた」

「……」

「アイツ……***は、本当は――」瞑っていた目を、ゆっくりと開ける。「おれから離れたかったんじゃないかと……そう思った」


 味噌汁に視線を落とす。まんまるに切られたニンジンがなんだか***に似ていて、ローの頬はほんの少しだけ緩んだ。


「だから……本当は今頃、清々してんじゃねェかって」

「……」

「アイツを探している間、ずっと思ってた」

「……」

「おれの勝手で海賊に仕立て上げて、飼い殺して」

「……」

「おれに愛想尽かして、本当は……逃げたんじゃねェかって――」

「ローさん」


 ナルミの呼びかけで、ローははっと我に返った。昨日今日会ったような人間に弱音を吐いてしまったことを、少なからず悔いた。


「……いい。忘れろ」

「手配書、ずっと眺めてたよ」


 鍋をかき混ぜながら、ナルミが言った。その口元が、穏やかな孤を描いている。


「何時間も……何度も何度も」

「……」

「一枚一枚、丁寧に捲ってさ」

「……」

「そんなに見てて飽きないの、って訊いたら、見てると元気出るんだ、って」

「……」

「嬉しそうに、みんなの話してたよ」

「……」

「だからおれ、ここに来た時……みんなに初めて会った気、しなかった」


 ナルミは楽しげに笑った。無邪気に笑うと、より一層幼く見える。不思議な男だと、ローは頭の片隅で思った。


「ローさんの手配書は、また別でさ」

「……別?」

「うん。ただの紙なのに、まるで宝物みたいに扱ってて」

「……」

「みんなのはバッグにしまってたけど、ローさんのはずっと、胸ポケットにしまってたよ」

「……」

「折りたたむ時も、すごく丁寧に折り目つけててさ」

「……」

「愛想尽かしてる人の写真、そんなふうにしないと思うけど」

「……」


 ***と再会した時のことを思い出していた。あの時の***は、傷だらけの身体を懸命に動かして、自分に向かって駆けてきた。


 腕に触れた瞬間――***は、心底安心したように泣き顔を歪めて笑った。


 ――そうだ。あの時も、***は笑っていた。波に飲み込まれた時の、諦めたような笑顔ではなく、航海を始めたばかりの時の、希望に満ち溢れた笑顔で。


 ローは全身の力を抜いた。そして、無意識のうちに微笑むと、「そうか」と呟いた。


「……ローさんって」

「……あ?」

「***のこと、好きなの?」

「……は? なんだよ、好きって」

「いや……恋してるのかなって」

「……"恋"?」


 ローの眉は、これでもかというほど顰めた。随分、突拍子もないことを言う男だ。


「んなわけねェだろ。幼なじみだ」

「……そう? へェ。まァ……ふうん」

「?」


 納得したのは口先だけのようで、ナルミは釈然としない様子で首を傾げている。それを見て、ローも心の中だけで首を傾げた。


 やはり、変な男だ。けれど、まァ――。


「……おまえには感謝してる」

「え?」

「***を助けたことだ。あのまま放置されていたら、アイツは間違いなく死んでいた」


 ナルミの目をまっすぐに見つめ返す。今度は、ナルミの方が居心地悪そうに目を逸らした。


「船長として、礼を言う」

「いや、そんな……いいよ。お礼言われるの、苦手なんだ」

「おれも礼を言うのは苦手だ」

「じゃあやめない?」

「そうだな」


 少しの沈黙の後、二人は同時に笑った。静かに笑うところが、なんだか自分に似ていると、ローは思った。


 少しぬるくなった味噌汁を綺麗に平らげて、お椀をナルミに渡す。


 食堂を出る直前、「やっぱり変な人」と背中で聞いた。


 ローは振り返ると、左の口の端を上げて「どっちが」と言い返した。


 食堂を出て、甲板へ向かう。廊下でちらほらと会う船員に挨拶を返しながら、扉を開けた。


 甲板へ出ると、外の世界は濃い橙色に包まれていた。水平線に目をやると、ちょうど日が昇り始めている。


「……朝が来る」


 仲間と、***のいる、騒がしい朝が。今日は、どんな訓練でしごいてやろうか――。


 潮風を胸いっぱいに吸い込む。手すりに寄りかかって座ると、そのまま目を瞑った。


 この日を境に、ローはあの夢をみなくなった。


光のない、をみる


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