お知らせします。この船は、

 ――ほら。ね? ちっとも動かないでしょ?


 ――うーん……確かに。呼吸はしているようだが……。


 耳の、遥か向こう側で、そんな言葉が聞こえる。


 私の眉間が、自分の意思とは関係なく、ぎゅっと訝しげにしかめた。


 ――あっ、今少し動いたぞっ。


 ――そうか? 俺には分からなかったが……。


 ――面倒くせェな。もう起こしちまえよ。


 ――でも、こんなにぐっすり眠ってるのに……。


 まるでステレオのスピーカーのように、方々から声がやってくる。その声のすべてに、聞き覚えがあった。


 私のカオの表情筋が、ようやく全体的に働き始めた。


「あっ! やっぱり動いたっ! ほらほらっ!」


 ついに、音がクリアになる。


 私は目を開けた。


「――! ぎゃっ」


 大きな叫び声が出そうになって、慌てて口を塞ぐ。


 そんな私を、かなりの至近距離から、ベポ、シャチくん、ペンギンさん、そして、ローが見下ろしていた。


 やれやれといったふうに、シャチくんがあきれ顔を作った。


「なんだよ。元気そうじゃねェか。驚かせやがって」

「えへへ、ごめんね。あんまりにも微動だにしないで寝てるもんだから、なんだかおれ、心配になっちゃって」


 ベポが、まるい耳の下あたりを掻きながら、照れくさそうにそう言う。


「ったく……。おまえは少し大げさなんだよ、ベポ」

「……その両手に抱えた医療器具の山はなんですか、船長」


 ローは、ペンギンさんをひと睨みしてから、再び私を見下ろして、言った。


「気分はどうだ」

「あ……ええと……」


 そう問われて、ふと考え込む。ここ何日かの記憶がない。体も、まるで風邪の引き始めの時のように、少し重かった。


「おまえ、昨日まで高熱でうなされてたんだよ」

「え? こ、高熱?」


 ロー以外の三人が、うんうんと頷く。けれど、高熱で苦しかった記憶は、やはりない。


 いや、熱があったなら、記憶がない方が自然なのかもしれないけれど。


「あ……し、心配かけてごめんね。もう大丈夫そう……」


 そう伝えると、みんなが安堵したように笑った。ローも、珍しく優しげに目を細めている。


 なんだか少し照れくさい。


「よっし! ***も目ェ覚めたことだし、飯にしようぜっ」


 シャチくんがそう言うと、ペンギンさんが「そうだな」と答えて、あとに続いた。


「……ベポ」

「アイアイッ! キャプテン!」


 そう元気よく叫んで、ベポはベッドの傍らにひざまずいた。そして、くるりと私に背を向けて、言った。


「ほらっ、乗って! ***!」

「えっ?」

「怪我が治るまでの***のおんぶ係、おれが任命されたんだ! キャプテンが、おれ以外にはやらせないって!」


 だからほらっ、早く早く! と、ベポはうれしそうに体を左右に揺らした。


「……ありがとう。ベポ」


 お礼を言って、素直に甘える。


 ベポの背中は、大きくて、暖かい。思わず頬をすり寄せれば、「くすぐったいよー!」と、くふくふ笑われた。


 それを見たローが、すぐ隣でほほえんでいて、思わず胸のあたりがくすぐったくなる。


 ベポにおんぶされながら、私はみんなと一緒に食堂へ向かった。


 その道すがら、ベポの高さからローを見下ろして、訊ねた。


「そういえば、あの……ナルミくんは、大丈夫かな?」


 私が高熱を出したということは、ナルミくんも同じ症状になっている可能性が高い。


 彼の身を案じておずおずとそう訊ねれば、ローはギロリと私を睨み上げた。


 こっ、こわー……。


 でも……ローの上目遣い、新鮮。なんか、いい。


 レアなアングルのローにうっかりときめいていると、ペンギンさんがこちらを振り向きながら、笑って言った。


「アイツなら大丈夫だ。今日も今頃――」

「……え?」





「あれっ。***、おはよう」

「ナっ、ナルミくん……!」


 食堂に着くと、そこにはキッチン内でコックたちと一緒に朝ご飯の準備に勤しむナルミくんの姿があった。


「熱下がったみたいだね。よかった」

「あっ、うん。ご心配お掛けして――って、そうじゃなくてっ。何してるのっ? そんなところでっ」

「何って……」ナルミくんは、手に持ったフライパンと菜箸を見た。「朝ご飯の用意」


 見てわかんない? と、ナルミくんはかわいらしく首を傾げた。


「いっ、いやっ、わかるけど……どうしてナルミくんがそんな――」

「ナルミ、今日も釣れたのか?」


 私の言葉に被せて、ペンギンさんが横からそう口を挟む。


「うん。今日も結構釣ったよ。ペンギン」

「そうか。おまえはほんとに釣りがうまいな」

「ナルミー! 今日も鮭、釣れたー?」

「たくさん釣れたよ、ベポ」

「ナルミナルミっ! おれ二匹食う!」

「……鮭だよ? シャチ」


 いつものあの、飄々とした表情と声で、ナルミくんは次々とクルーたちと言葉を交わしていく。


 な、馴染んでいる……。まるで、前々からこの船にいたかのように……。


 その光景に、さすがに私はあっけに取られた。


「トラファルガーさん、今日もおにぎりでよかった?」


 ナルミくんが、私の隣にいるローにそう訊ねた。


「あァ」


 ローですら、まるでこの船のクルーと話しているかのような声のトーンで、そう答える。


 仮にも、海賊狩りなのに……なぜこんなに急速に仲良く――


「***。***の分もご飯できてるから、一緒に食べよ?」


 そう言ってナルミくんは、いつものあの柔らかな表情で、私に向かってほほえんだ。


 随分と顔色が良い。もしかしたらナルミくんは、順調に回復していたのかもしれない。とりあえずは、その事実にほっとした。


「***? 大丈夫?」

「あっ、うっ、うんっ。いただきますっ」


 若干の戸惑いを覚えながらも、私は、ロー、ベポ、ペンギンさん、シャチくん、そして、ナルミくんと同じ食卓についた。


「***は胃の中空っぽだから、お粥作ってたんだ」


 そう言いながらナルミくんは、私の目の前に、とろとろに溶けたお粥が盛られたお椀を置いてくれた。


「わあっ……おいしそうっ」

「なんかおれ、***にお粥作ってばっか」


 ナルミくんが困ったように笑うので、私もなんだか照れくさくなった。ナルミくんの家を、下手な嘘を吐いて無理やり出ていった時のことを思い出したからだ。


「***って、ほんっと手がかかるんだよなァ」


 シャチくんが、パリパリに焼かれた鮭の皮を食べながらそう言う。


「おまえが言うな、シャチ。おまえもどっこいどっこいだぞ」

「えっ。わ、私、手がかかってますか? ペンギンさん」

「? あァ」

「えっ」

「でも、***もシャチも、そこがかわいいんだよねー」


 この船で最もかわいい生き物であるベポにそう言われて、少し複雑な気持ちになる。シャチくんも、「おまえが言うなよっ」とツッコミを入れていた。


「でもおれは、***がいてくれて助かったことの方が、たくさんあるよ」


 さらりとした前髪の下にある、切れ長な目を細めながら、ナルミくんが言った。


「魚のさばき方も、***に教わったしね」

「えっ。ま、まァ、うん。えへへ。それくらいは――」

「***に魚のさばき方を教えたのは、おれだけどな」


 これまで黙っていたローが、やけに声を張り上げてそう言った。


 ペンギンさんが、あからさまなあきれ顔を作る。


「張り合わないでくださいよ、船長」

「べつに張り合ってねェよ。真実を言ったまでだ」

「あっ、あの……! 私実は、ずっと気になってたことがあったんですけどっ」


 ローとペンギンさんが、いつものあの静かな言い争いを始めようとしたので、私は慌てて挙手をした。


 目論見通り、全員の視線が私に向いたので、私は続けた。


「あの日――ほらっ、私たちが海賊に襲われてたところを、みんなが助けてくれた日。あの日、どうしてみんな、あの街にいたの?」


 ハートの海賊団と再会をしてから、今まで。ずっと頭の片隅にあった疑問を、ようやく私は彼らにぶつけた。


 するとナルミくんも「おれもそれ、気になってた」と同意してくれた。


「おれたちがあの街に着いた時、トラファルガーさんたちはすでにあの街を出た後だった。それなのにあの街にいたってことは、わざわざ戻ってきたってことになる」


 ナルミくんの言葉に、私は何度も大きく頷いた。


 海賊船は、よほどのことがない限り、航路を戻ることはしない。事実ハートの海賊団は、今までそんなことをしたことはなかった。だからこそ、疑問だったのだ。


 すると、私とナルミくん以外の全員は、「ああ。そのことか」といったふうな、納得顔で頷いた。


 疑問に答えてくれたのは、ペンギンさんだった。


「子電電虫に連絡があったんだ。おれの……正確には、おれとシャチの旧友からな」

「お、お友だちから、ですか? ペンギンさんとシャチくんの……?」


 いまだ疑問符を浮かべたままの私とナルミくんに、ペンギンさんはその時のことを語り始めた。


「おれたちが船長と出会う前――つまり、スワロー島でおれとシャチが馬鹿やってた頃。おれたちには、他にも何人か仲間がいたんだ」


 懐かしさからか、ペンギンさんの目が柔らかく細められる。


「そのうちの一人に、海図を描くために、海を渡ってるヤツがいてな。そいつが偶然、あの街に降り立っていたんだ。その時に、***とナルミを目撃したらしい。確か……飯屋で昼飯を食ってた時、と言っていたな」


 私とナルミくんは、思わずカオを見合わせた。あの、気のいい女主人の飲食店のことだと、すぐに分かったからだ。


「『あの界隈で名の知れた海賊狩りが、おたくの船長を探して、なにやら行方を追っているそうだ』とな」

「そっか……。私がカウンターで女主人にローの手配書を見せた時――その人にも、ローの手配書が見えたんだ……」


 そういえばあの時、カウンターに一人、客がいた。女主人がその人に、チャーハンを振舞っていたのを覚えている。


 手配書の名前と賞金額は隠していたけれど、見る人が見れば、それが海賊・トラファルガー・ローの写真だと分かるだろう。


「海賊狩りが追ってきているところで、それが名の知れたヤツであろうと、普段の船長なら気にも留めなかっただろう。けど――」

「***が一緒にいたから、ってことだね」


 私より一足先に理解したらしいナルミくんが、ペンギンさんの言葉尻を繋いだ。


 ペンギンさんは、深く頷いた。


「『その海賊狩りは、一匹狼で知られている――にも拘らず、大した手練れでもなさそうな、どんくさそうな女を連れている。何か心当たりはないか』、とな」


 ようやく私にも話が見えてきた。


 その続きは、ローが引き取った。


「おまえの死体が一向に見つからなかった時点で、自ずと二つの可能性が導き出される。一つは、海王類がまるごと飲み込んじまった可能性。そしてもう一つが、どこかで生きている可能性だ」


 おにぎりの、最後の一口を飲み込んでから、ローは続けた。


「本来なら、前者の可能性が高い。が、***がサイクロンに吹っ飛ばされたあの日、海流はひどく荒れていた。事実、海王類も、数日間は静かなもんだった。後者の可能性も、十分にあった。――まァ、そう信じたかった、というのが、正直なところだがな」


 ローが、そう言って自嘲した。


 数日前の、ローの震えた泣き声を思い出してしまって、思わず泣きそうになる。


「あの時がおれ、一番怖かったなァ。***が生きてるかもしれないってなって、あの街に戻ってる時」


 ご飯を食べていた手を止めて、ベポがぽつりとそう言った。


「変だよね。***が波に飲まれた、あの瞬間より、***が生きてるかもしれないって、希望が見えた後の方が、うんと怖かった。だって……だって、もしそれで、やっぱり***じゃなかったって、そうなったら。今度こそ本当に諦めなきゃって、そう思ったから……」


 変だよねェ、ダメだよねェ、こんなの。と、ベポは潤んだ瞳で無理やり笑った。


「ベポ……ごめんね、怖い思いさせて……」

「いいんだ。いいんだ、***。だって、ちゃんと戻ってきてくれたんだし……」


 ベポと私が、お互いの手を握り合っていたら、シャチくんが思いっきり鼻をすすった。


「おまえらもうやめろよっ。朝から辛気くせェっ」

「……なぜおまえも号泣する、シャチ」


 ペンギンさんが、シャチくんと私たちの前に箱ティッシュを置いてくれたところで、ローが椅子の背もたれに体を預けて、言った。


「今回の件では、本当におまえらには迷惑をかけた。一番の古株である船員が、まったく情けない話だ」


 ローのその言葉に、私は椅子の上で背筋を伸ばした。


 ローは続けた。


「そして――***にそういう行動をさせた全責任は、船長である、おれにある」

「ロ、ロー……」

「船長として――幼なじみとして、おれは、きちんと責任を取る必要がある」


 そう言い切ると、ローは、まっすぐに私を見た。


「***」

「はっ、はいっ」


 私だけでなく、その場にいる全員に緊張が走った。


「おれは今日から……おまえにこの海での戦い方を教えていく」

「……え?」

「戦い方、と一口に言っても、実戦のやり方だけじゃねェ。航海術、医学、食料の調達――それに、体力も。この海でやっていくには、足りなさすぎる」


 折っていった指を元に戻して、ローは続けた。


「おれたちと一緒に、強くなれ。***。おれはもう――おまえを甘やかさねェ」


 まァ、たまには、あるかもしれねェが。と、ローは小さな声で付け足した。


「おまえにもう二度と、『自分はお荷物だ』なんて、思わせない」

「ロー……」

「それが、おれにできる、おまえと船員への、最大の償いだ」


 それでいいんだろ? と、ローは少し、寂しそうに笑った。


「っ、ありがとう……ロー……」


 ローが初めて、本当の意味で、私を信じてくれた。


 おまえならできる、と。そう言ってもらえているようで、うれしい。


 私は、他の誰よりも、ずっとずっと。ローに、そう言ってほしかった。


「剣術と医学は、基本的にはおれ。おれの手が空かない時は、ペンギン。おまえに頼む」

「承知しました」

「航海術はもちろんベポ。おまえだ」

「アイアイ! キャプテン!」

「甘やかすなよ。それから、食い物の調達は、生きていくためには基本中の基本だ。狩りの仕方や釣りは、シャチ。おまえが教えてくれ」

「分かりました! ビシバシいきます!」


 最後にローは、もう一度私を見据えて、言った。


「甘くねェからな。***。なんとか食らいついてこいよ」

「はっ、はいっ!」


 そう元気よく返事をすると、ローはようやく、厳しい表情をほどいた。


 隣でずっと話を聞いてくれていたナルミくんが、「よかったね」と私に耳打ちをした。


「あの町で***と暮らすのもいいかなって思ってたから……おれは少し残念だけど」

「ナルミくん……」


 そういえば――と、私は思い当たることがあって、ナルミくんに訊ねた。


「ナルミくん。ナルミくんが、この船で目を覚ました時……ナルミくん、私に何か言いかけたよね?」

「え?」

「ほら、『おれと一緒に、あの町に帰ったら』って。あれ、なんて言おうとしたの?」


 ナルミくんは、しばらく考え込んでいたが、その時のことを思い出したようで、「ああ、あれか」と言って、朗らかに笑った。


「おれと結婚しよう、って言おうとしたんだよ」


 ナルミくんのその言葉に、ペンギンさんとシャチくんが、一斉に味噌汁を吹いた。


「***、ナルミと夫婦になる約束したの?」


 ベポが、心底驚いたように、無邪気にそう訊いてくる。


「しししっ、しないよっ! ナルミくんもっ、なに冗談言ってっ」

「え? なんで? だって、他人同士が一緒に暮らしてる方が、変じゃない?」


 いい方法だと思ったんだけどな、と呟きながら、ナルミくんは味噌汁をすすった。


「おまえらまさかっ……一緒に暮らしてる時に、あんなことやこんなことっ」

「してないしてないっ! 誤解だよシャチくんっ!」

「***っ、本当に本当かっ? おまえが覚えてないだけで、何かされたりとかっ」

「ペっ、ペンギンさんまで……! そんなわけないじゃな――」


 その時。スラッ、と、刀が鞘から抜かれる音がした。


 背筋に凍るような冷気を浴びて、私とシャチくんとペンギンさんは、恐る恐る後ろへ振り返る。


 ローが、額に太い青筋を立てて、薄ら笑いをしながら言った。


「魚だけじゃなく、人間のさばき方も教えてやろうか? 海賊狩り。――おまえの体でな」


お知らせします。この船は、
通常運航再開です


 おおおっ、落ち着いてっ、ロー……! ほらっ、刀しまって……!


 おまえ……コイツの肩持つのか? あァっ?


 教えるっていうけど……おれの体で試したら、おれは見られなくない? ねェ、シャチ。


 ふつうにツッコむなっ!


 みんな仲良しだねェ。ねっ、ペンギン!


 ……おまえは平和だな、ベポ。


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