10

「きゃあああああ…!!」


何も変わらない現状から何日か経ったある日。突如、***の金切り声が船内を走った。


満足に眠っていない脳がうとうととし始めていたが、それを耳にすると、ローは即座に声のしたほうへ走った。


甲板へのドアを乱暴にあけると、***が身体を震わせながら小さくうずくまっていた。


洗濯ものを干そうとしていたのだろう。洗い立ての真っ白なシャツが、床におちて汚れていた。


「***…!!どうした…!!何があった…!!」


そう呼びかけて小さな肩を揺らせば、すがるように怯えた目と目が合った。


「ロ、…洗濯、干そうとして甲板、出たら、っ、たくさん、知らない人っ、」

「知らない人…?」


***が指し示したその先には、困惑するハートの海賊団クルーたち。


そのなかには、ついにペンギンもいた。


昨日までは、覚えていたはずだった。


「…***、本当に知らねェか?」

「え…?」

「よく見ろ。本当にわからねェか?何人かいるだろ。全員わからねェのか?」


ローにそう問われて、***はそろそろとクルーたちのカオを見た。


「わ、わからないよ?ローはこの人たち知ってるの?もしかして、お、お友だち?」


ローに友だちなどいるはずもないことは、***が一番よくわかっているはずだった。


それすらも忘れたのか、それともそう思いたかっただけなのか、ローにはわからなかった。


「…悪かった、***。」

「え?」

「そうだ。おまえにはまだ言ってなかったな。仲間を増やしたんだ。コイツらは、今日からおまえの仲間だ。」

「仲間…」


呟くようにそう声を漏らすと、***は強張っていたカオをわずかにゆるめた。


「なんだ。そうだったんだ。なんだ。よかった。」

「あァ。悪い。」

「う、ううん…!私のほうこそごめんね。大きな声出したりして…」

「いや、いいんだ。悪い。」

「?ロー…?」


手の震えが伝わらないよう、***の手を強く握った。


「ほんとに、…悪かった。」


―…‥


「船長、少し眠ってください。」


医学書に目をとおしていると、頭上からそんな言葉がふってきた。


ローは、弾かれたようにカオをあげた。


「…ペンギンか。」

「…おれの気配にも気づかないなんて、重症です。少し休んでください。」

「原因だ。原因がわからなけりゃ、この状況より良くなることはねェ。」


ペンギンの言葉には耳を貸さず、ローはそう呻いた。


「何かあったはずなんだ。あの日。必ず何かが。」

「…………………。」

「…おれが、」


くしゃり。本のページがローの拳で歪んだ。


「おれがあの日、出かけたりしなければ…」

「船長…」

「アイツのそばにいてやれば、こんなことにはならなかったはずだ…」


『取りかえしのつかないことになるよォ…』


なぜか、あの老女のことが思い出された。


「…船長、少し眠ってください。」


ペンギンは、再び言った。ローはしばらくしてから、ゆらりと身体を横たえた。


「なにかあったらすぐ起こせ。***は船長室で眠らせてある。」

「はい、わかりました。」


ローがゆるく目を瞑ったのを見届けてから、ペンギンはそこをあとにした。


―…‥


状況は、明らかに悪くなっている。


ペンギンは、そう感じていた。そして、そう感じているのは、おそらくペンギンだけではない。


***が今日、「知らない。」と言ったクルーは、自分も含め全員で6人いた。


この前までは1人か2人。それが、今日は6人。


それが何を意味しているか。***はきっと、明日には6人以上は忘れているだろう。


そして、いつかは…


ペンギンは、大きく首を振った。


いや、ちがう。そんなことはない。あってはならない。


…船長は。


忘れずにいられるはずだ。船長だけは。


あの二人には、それほどの絆がある。


自分たちには計り知れない、強い絆が。


そうだろう、***。


ペンギンは小さく船長室をノックしてから、そのドアをあけた。


***の様子を一目見てから、自分も少し眠ろうかと考えていたからだ。


重苦しかったはずの頭が、いっきに冴えた。***がいなかったからだ。


ペンギンは息をのむと、慌てて船長室をでた。むろん、ローに知らせるためだ。


だが、すぐにその動きは止まった。


鉢合わせた相手に、ペンギンはおどろいた表情を見せた。


「***…」

「ペンギンさん…?」


息を切らしているペンギンを見て、***は訝しげな目を向けてきた。


「どうしたんですか?そんなに慌てて…」

「あ、あァ、いや…***、その、…おれが、わかるのか?」


おそるおそるそう尋ねれば、***はぽかんと口をあけてから、眉を寄せて困ったように笑った。


「わかるのかって、当たり前じゃないですか。ペンギンさんでしょう?」

「あ、あァ、いや、そうだよな。悪い…」

「あははっ、もしかして、ねぼけてるんですか?」

「いや、…あァ、そうかもな。」

「めずらしいですね、ペンギンさんが。シャチくんならともかく。」


***のその言葉に、ペンギンは、はっと息をのんだ。


「おまえ、…シャチを、」

「ペンギンさん。」


ペンギンの言葉にかぶせて、***は呼びかけてきた。力強い声だった。


「ローを、お願いしますね。」

「え…?」


***を見つめかえせば、まっすぐな瞳に見すえられた。


「ローが悩んだり、困ったりしていたら、お願いします。力になってあげてください。」

「***…」

「ローは、」


哀しげに、目を伏せて言った。


「人に頼ったりするの、ちょっと苦手だから…」

「…………………。」

「だから、どうか、お願いします…」


***は、小さく頭を下げた。


なぜか、胸がしめつけられる思いだった。


「…なぜ、今、おれにそんなことを?」

「え?そうですね、なんでかなァ…」


右斜め上に視線を彷徨わせてから、***は言った。


「なんだか、今をのがしたら、もう言えない気がしたので。」

「***…」

「ははっ、なんとなくですけど。」


おどけたように笑った***は、ペンギンの知っている***だった。


ペンギンも、つられるように頬をゆるめた。


「あんまりあちこち行くなよ。船長が心配するからな。」


そう言って立ち去ろうとするペンギンに、***は不審そうなカオを向けて言った。


「船長って、…だれのことですか?」


ペンギンは、息を止めた。


「…なに?なんだって?」

「だってペンギンさん、今、『船長』って。」


ペンギンの全身から、血の気が引いた。


さきほどシャチの存在が***の口から出たとき、もしかしたら快方に向かっているのかもしれないと、望みをつないだばかりだった。


今の一言で、それはあっけなく断ち切られた。


「なに、言ってる…船長は、船長っていうのは、おまえの、」

「そういえば、」


ペンギンの言葉は、***には届いていないようだった。


***は宙を一点に見つめたまま、こう呟いた。


「私、どうして船になんて乗ってるんだろう…」

「***…おまえ…」


取り乱しているペンギンをよそに、***はカゴにはいった洗濯ものを見てから「干さなきゃ。」と小さく言って去って行く。


その背中を、ペンギンは見えなくなるまで呆然と見送った。


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