ただいま、おかえり 2/2

 食堂の扉の前に立つと、私は取っ手を握った。


 しかし、それをいつまでも押せない。これから船長に何を言い渡されるか。みんなは、どんな気持ちでいるのか――。それを考えると、みんなと向き合うのが怖かった。


 すると、ナルミくんの手が私の手に覆い被さってきた。


 見上げたナルミくんは、いつもの通り、にこっと笑ってくれた。


 二人で一緒に、扉を押し開けた。


 中に入ると、全船員が立ち並んでいた。その中央で、ローだけが長い脚を組んで椅子に座っている。


「……座れ。***」


 ローは、自分の目の前に置いてある椅子を顎で指し示した。


 私はローの指示通り、その椅子に座った。


 ナルミくんは、ベポに手を引かれて、食堂の端の方へ誘導された。そこに置いてある椅子に座るよう指示されると、ナルミくんは「どうも」と、いつものあの飄々とした声色で言った。


 役者が揃って、重苦しい沈黙が流れる。


 ローが口を開いた。


「あの日……なぜあんな勝手な真似をした。***」


 ローの、低く清らかな声が、鼓膜を揺らす。


 私は答えられなかった。心臓が、嫌な音で脈を打ち始めた。


「おれには、その理由が分かるぜ。***」


 ローが言った。


 私は、頭の中に疑問符を浮かべながら、カオをそろそろと上げた。


「船長である、おれを信じられなかったからだろ」

「……え?」

「おれの指示なんかじゃあ、あの局面を乗り越えられねェと、そう思ったんだろ」

「――! 違っ」

「違わねェ!」


 ローの怒鳴り声に、体が大きくビクつく。


 離れたところで、ベポの体も怯えに震えていて、私は申し訳なくなった。


「ロー、それは違うっ。私はっ」

「違わねェんだよ、***」


 ローの、藍の深い瞳が、まっすぐに私を見据える。


 ローは続けた。


「おまえは……このハートの海賊団の、最初の船員だ」

「……」

「おれと、一番長く一緒にいた船員だ」

「……」

「そんなおまえが、船長であるおれの指示を待たず、あんな行動を取ったら……他の船員はどう思う」

「……」

「『この船長は、一番長くいた船員にも信頼されていない、無能な船長』。そう感じて、不安になる。……命を預けていいのかと、躊躇いが生まれる」

「……」

「おまえが……船員が、船長の指示を聞かねェってことは、そういうことなんだよ。例えそれが、船を守りたい一心でやったことだとしてもだ」

「……」


 私は、膝の上に置いた手に、目を落とした。


 ローを信じてなかっただなんて。そんなことは、もちろん絶対にない。


 そしてそれは、ローも、おそらくみんなも、分かっている。


 けれど、例えみんなが分かっていたとしても、私の行動は、船長であるローの威厳を削ぐ行動になる。船長の沽券に関わるような行動は、例えどんな理由があっても、許されることではない。


 船長を立てられない船員が一人でもいれば、この船はいつか沈む。ローは、そう言いたいのだ。


 謝りたかった。土下座をしてでも。


 けれど、そんなことでは到底足りない。謝ることもできなくて、謝ること以外にも、何もできなかった。


「ちゃんと伝えなきゃダメだよ。***」


 重い沈黙が漂う空気を、中性的な声が切る。


 船員全員がナルミくんを見て、ローも、視線だけで彼を見た。


「思ってたこと、あったでしょ。ヘタでもいいから、ちゃんと自分の言葉で伝えなきゃ」


 切れ長の瞳が、真っ直ぐに私を射る。


 ナルミくんの隣に立っているシャチくんが、「おまえは黙ってろっ」と、厳しめに言った。


 ナルミくんはシャチくんを見上げて、「あ、ごめん」と言った。


「私……私は」


 ナルミくんに背中を押されて、私はとつとつと言葉を前に出した。


「そんなつもりは、なかった……ただ、みんなが助かるならって……そう思って」

「……」

「私、私……」


 ずっと我慢していた涙が、握っていた拳にぼたっと落ちた。


「この船で……何してるのかなって……何が、っ、出来てるのかなって……そう考えたら……自分がどうしてここにいるのか……っ、分からなくなって……」

「……」

「焦ってたから……やることも全部、っ、裏目に出ちゃって……結局みんなに迷惑かけて……」

「……」

「だから、っ、あの時……」


 "あの時"の、自分の気持ちを思い出した。


「この船の中で、っ、『私の命が一番軽い』って……そう思った……」

「……」

「みんなと、っ、ローと一緒にいたかったけど……っ、いつかみんな、きっと私を重荷に思う……」

「……」

「そう思ったら、っ、ここで役に立って、『アイツがいて良かった』って……」

「……」

「そう思って、っ、ほしかった……」


 重荷になりたくなかった。要らないって、思われたくなかった。


 だって、思ってても、この船の人たちはそうは言わない。だから、腫れ物に触るような態度を取られたらどうしようって。


 不安だった。私はここにいるのに、みんなの中から、私がいなくなりそうで。


 だから、例えここにいられなくなっても、思い出の中だけでも――みんなと一緒にいたかった。


 その時、私の泣き声に被さって、誰かの嗚咽が聞こえた。


 その方を見て、思わず私の涙が止まる。


 泣いていたのは、ペンギンさんだった。


 ペンギンさんは、カオをぐしゃぐしゃに歪めて、まるで子供のように泣いていた。こんなペンギンさんは、初めてだった。


 すると、視界の端でベポの大きな体が震え始めた。見るとベポは、血がにじむんではないかと思うくらいに歯を食いしばっていて、その大きな瞳からは、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。


 ペンギンさんの泣き声が、次第に激しくなっていく。ベポはついに堪え切れなくなって、声をあげて泣き出した。


 ベポが泣いたら、その隣の船員も泣いて、さらにその隣も泣き出す。ドミノ倒しのように、嗚咽が伝染していった。


 ルピが、袖口で目元を拭う。最後に、シャチくんが声をあげて泣き出すと、船内は一斉に男たちのむせび泣く声で占領された。


 ローが、小さく息をついた。そして、


「……アイツらなんだ」


 と、そう言った。


「……え?」

「おまえを、最後まであきらめたくないと、そう言ったのは」


 ローが、その時の状況を思い出すかのように、目を細めた。


「捜索を打ち切ると、おれが言った翌日――船長室の前で、コイツら全員、雁首揃えて頭を下げてた」

「っ、」

「……***」


 ローは、あきれたような――それでもどこか、うれしそうな目で、私を見た。


「コイツらが、ちょっとやそっとヘマしたくれェで、愛想尽かして仲間見捨てられるような、出来のいい海賊に見えるか?」

「っ、」

「例え、おまえの体が滅びて、心臓一個しか残っていなかったとしても――それを、命かけて守るバカしかいねェだろ。……ここには」


 フッ、と小さく笑って、ローは続けた。


「軽い命も、要らねェ船員もいねェよ」


 ローの言葉を聞いて、みんなの泣き声の大合唱に、ついに私も加わった。


 喜んじゃいけないのに、うれしい。謝らなきゃいけないのに、ありがとうと言いたい。


 こんな私を、必要としてくれて――大切に思ってくれて、ありがとうって。そう叫びたい。


「ギャブデン……! もういいっ?」


 ベポが、泣き叫びながらローに言った。


「もうっ、許してるんでしょっ? っ、***とまたっ、一緒にいられるんでしょっ?」


 みんなが、固唾を飲んでローの言葉を待つ。


 ローは、あきれたようなカオを作って、ため息をついた。


 そのカオは、もういつものローだった。


「泣くのが早ェんだよ、おまえら……。大体おまえらがな」

「うわあああああん……! ***ー!」

「最後まで聞けっ」


 めずらしいローのツッコミも無視して、みんなが私に突進してきた。ベポの巨体を筆頭に、みんなの体が私に覆い被さってくる。


 私の口から、蛙が潰れたような声が出た。


「***……! いぎででよがっだ……!」

「怪我は大丈夫なのかっ? みんなで交代でおぶってやるからなっ」

「***っ、無事でほんどっ、なにより……」


 私はみんなに、何度も何度も『ありがとう』と『ごめんなさい』を繰り返した。


 みんなにひっちゃかめっちゃかにされるなか、私は今だに一人で佇んで泣いているペンギンさんに目を向けた。


「っ、ペンギンさん……」


 シャチくんが、ペンギンさんの手を引いて誘導してくる。


 私はペンギンさんに向き合うように立って、言った。


「ペンギンさん……っ、ほんとに、ごめんなさ」


 その途中で、ぺしっ、と小さな音が頬から聞こえた。ペンギンさんが、私に軽く平手打ちをした。音はしたけれど、ちっとも痛くない。


「……おまえなんか、っ、大嫌いだ」

「っ、うんっ……」

「おかえり……***……」


 ぐしゃぐしゃのブサイクなカオで、私はようやく「ただいま」と言った。


 視界の端で、ナルミくんがようやく心から安心したように、笑っていた。





 あの後、みんなで一緒に夜ご飯を食べた。


 みんなと別れてから二ヶ月ほどしか経ってないのに、まるで何十年も離れていたかのように、その空間が懐かしく感じた。


 何をしていても、知らず知らずのうちに涙があふれて、みんなで泣きながらご飯を食べた。


 それを見て、ローとナルミくんは、あきれたように笑っていた。


 自分の部屋に戻ると、私はベッドに横たわって、ぼんやりと壁を見つめた。


 まだ、夢を見ているのだろうか。月明かりしかない暗闇の中にいると、そんな錯覚に陥る。けれど――。


 自分の手を見た。みんなに触れた手の平が、まだじんわりと暖かい。


 戻ってきた。戻ってこられた。ナルミくんに支えられて。みんなに――ローに、許してもらえて。


 帰ってはこられたけれど、これで終わりではない。今回の私の失態は大きなものだ。本来ならば、おいそれと許されていいことではない。


 けれどこれは、誰の助けを借りることなく、自分で解決していかなければいけない。


 一歩、一歩。亀の歩みのようでもいい。私が、"本当の意味"で、この船の役に立てるように。一日一日、考えて行動しなければ――。


 その時、暗闇の中で、ノックが二回鳴った。


 私はすぐさま「はいっ」と返事をした。いつものように扉には出向けないので、「どうぞ」と続けた。


 扉が開いて、廊下の灯りが部屋に線を作る。


 その隙間から現れたのは――。


「ロー……」

「……」


 ローは、何も言わずに部屋に入って、扉を閉めた。そして、ベッドの傍らまで来ると、サイドテーブルに医療器具を並べた。


「あ……せ、背中の治療してくれるの?」

「……あァ」


 ローは静かに答えた。医療器具を並べ終えてから、ランタンに火を灯す。


 ローが言葉少なだったので、私も自然と黙り込んだ。ローに背中を向けて、パジャマをめくる。


 しばらくすると、背中にひやっとした何かが押し付けられた。消毒液を湿らせた綿の感触が、ぽんぽんと背中の上で数回はねた。


 その間中、私たちは無言だった。二人の息遣いと、医療器具がぶつかり合う金属音しか聞こえない。


 重い沈黙に、次第に緊張してきた。私から何か話しかけた方がいいかと思い悩んでいたら、ふと、背中に温もりを感じた。


 ランタンの灯が織りなす、二人の影を見る。


 ローが、私の背中に、おでこをくっつけていた。


「ロっ、ロー……? あのっ」

「悪かった……」

「……え?」


 声が小さすぎて、よく聞こえなかった。するとローは、もう一度同じ言葉を口にした。


「おまえにあんな行動を取らせたのは……おれだ」

「え?」

「おまえにきちんと向き合わなかった、おれの責任だ」

「い、いや……それは違」

「そうなんだよ」


 ふうっ、と、ローは深く息を吐いた。


「……悪かった、***」

「……」

「こんな、体に傷まで残しちまって……」

「……」

「本当に……っ、おれは……」


 ローのか細い声が、震え始めた。


 それを聞いたら、なんだか私まで泣けてきてしまって。


 二人して、体を震わせた。


「アイツらが……おまえの捜索を続けたいって言い出した時……っ、おれは、心の底からほっとした……まだ、おまえをあきらめなくていいんだと……そう思ったから……」


 けど、と、ローは続けた。


「船長としては、失格だ……アイツらに甘えて……私欲を優先したんだ、おれは……けど、それでも、っ、おれは」


 背中に、ぽたり、ぽたりと、温かい水滴が落ちてくる。それが肌に触れるたびに、私の心は痛かった。


「おれは……おまえの心も体も……っ、失うのが怖い」

「っ、」

「おれは……おまえに依存してる……っ、ダメだと思うのに……やめられねェ」


 刺青だらけの手が、縋るようにお腹に絡んできた。


「おれはこんなだけど……頼むから、っ、愛想尽かさねェで、そばにいてくれ……」

「っ、」

「もっと、ちゃんと、っ、強くなるから……」

「っ、うん……」


 私は、ローの腕に手を添えた。


 そして、


「ただいま……ロー……」


 ただの、弱っちい幼なじみに、そう言った。


ただいま


 おかえり、***……。


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