ただいま、おかえり 1/2

 また映画を観ていた。


 記憶のフィルムをハサミで切って、つぎはぎにテープで留めたような、そんな映像。


 映像の中で私は、船で洗濯物を干したり、山賊に襲われて怪我をしたり、ローの寝顔を盗み見たり、ベポと見張り台で歌を歌っていたり、幼い頃のローにおにぎりを渡していたり――。


 時系列もバラバラな映像が、浮かんでは消え、消えては浮かんでくる。


 けれど、最後に映った映像は、すべて同じ人物ものだった。


 細い線で描いたような横顔。切れ長の瞳。中性的な声。魚をさばくすらりとした指。目までかかる繊細な黒髪。


 鼻の先に、あの優しい味噌汁の匂いと、湿気を帯びた木造建ての家の匂いまでが蘇る。


 ――アンタの名前、初めて呼んだね。


 そう言ったあの笑顔のまま、まぶたの裏のナルミくんは、血まみれになって動かなくなった。










「ナルミくんっ――!」


 自分の叫び声に驚いて、私は目を開けた。


 呼吸がひどく荒い。目からはぼたぼたと液体がこぼれていて、心臓は破裂しそうなほど脈打っている。


 浅い呼吸を繰り返しながら、私は上下左右に眼球を動かした。


 見覚えがある。けれど、懐かしいようで、懐かしくない。来たことがあるのに、まるで初めて訪れたかのような。そんな、不思議な感覚に襲われた。


 先ほどの優しい匂いは、やはり幻だったようだ。空気を吸うたびに、薬品と潮風の混じった匂いがする。


 この匂い――船長室だ。


 部屋を見回す前に、嗅覚でそう勘付いた。


 そして、そう勘付いたのと同時に、暗闇から向かってくる視線に気付いた。


 私は、ようやっとの動きで首を動かして、その方を見た。


「ロー……」


 掠れた私の声が言う。


 ローは、椅子に座ったまま、微動だにせず、ただただ私を見ていた。


 その目に感情がない。怒っているようにも喜んでいるようにも悲しんでいるようにも、何にも見えない。


 空虚な海の底みたいな瞳が、ただただ穴が空くほど私を見つめていた。


「……ごめんなさい」


 私の口からそうこぼれた。意識も感情も、何もかもを通り越して、本能がそう言った。


 ローがまつ毛を伏せる。


 その時初めて、ローの感情が垣間見えた。それは、"悲しみ"に近いように思えた。


 ローが、薄いため息を吐いた。そして、再び私を見た。


 濃紺の瞳が、海賊の色を取り戻していた。


「……厄介なことから片付ける。……来い」


 ローは緩慢な動きで椅子から立ち上がると、私に近付いてきた。そして、流れるような手さばきで、私の腕に繋がった点滴を外した。


 そのすべての作業が終わったのを見届けてから、私は体を起こそうと筋肉に力を入れた。


「……!」


 その瞬間、背中に感じたことのない熱を感じた。思わず「ううっ」と獣のような呻き声をあげる。それが〈痛み〉だと気付くのと同時に、斧を振り下ろしたあの海賊の男のことを思い出した。


 そんな私を、ローはただ見下ろしている。刺青だらけの手は伸びてこない。


 そして、私もそれを察していた。ローは――いや。ローも誰も、この船内で私に手を貸す者はいないだろう。


 私は今――船長命令を無視した、〈元〉船員なのだ。


 なんとか自力で起き上がると、私はよたよたと、まるで筋肉の衰えた老人のように壁を這って歩いた。


 ローは横目で私の動きを見ると、船長室の扉を開けた。


 ローに続いて船長室を出ると、廊下にはかつての仲間たちが全員揃って立っていた。


 けれどやはり、立っているだけで、皆人形のように体を動かさない。


 視界の端で、ベポだけがぴくっと大きな手を前に出して、そしてすぐに引っ込めた。


 私は、誰のカオも見られなかった。


 みんながどんなカオをしているのか――知るのが怖かった。


 激痛の走る体を引きずって、私は船長の背中を追った。





「――! ナルミくんっ――!」


 ローに連れて行かれたのは、地下倉庫だった。


 船の地下は冷えて暗い。数分いるだけでも気が滅入る。


 そんなところに、ナルミくんはただ〈物〉のように転がされていた。


 ナルミくんの姿を見て、私はまず始めに安堵した。


 あのまま、あの街に放置されていたら――。この深手では、まずふつうの医者では治せない。


 私はナルミくんの状態を見た。


 私とは違い、ナルミくんに施されている治療は、応急処置の範疇を越えてはいないようだった。助けられたというよりは、"生かされている"に近い。


 もともと日焼けのしにくい色白なカオは、あの日のまま真っ青だった。まるで、ナルミくんの時間だけが、あの日から止まったままのように。


 〈ふつう〉の医者には治せない。


 けれどここには、優秀な外科医がいる。


 私は、ナルミくんを抱きかかえたまま、ローに懇願した。


「お願い、ロー……」

「……」

「この人を助けて……」

「……」

「お願い、します……」


 ローの体は、ぴくりとも動かない。尖った眉を、ただ数ミリしかめただけだ。


「っ、ロー……お願」

「その男は海賊狩りだ」


 ローの低い声が腹に響く。地下を伝って背中まで這いずってきて、傷がズク、ズクと疼きだした。


「"海賊狩り"だぞ。***」ローは繰り返した。「海賊の命を狙ってくる海賊狩りを、海賊が助ける道理がどこにある」


 私は拳を握った。


 そして、「ありません」と答えた。


「だけど……助けてください……」

「……」

「この人は、私の命の恩人なの……」

「……」

「私の心も……っ、助けてくれた……だから」


 ナルミくんを、そっと床に横たえた。


 そして、私はローの足元に土下座した。


「お願いします……っ、この人だけは……助けて……」

「……」

「お願い、します……」

「……」

「お願い……」


 床に額をくっつけて、私は尚も懇願した。


 随分、勝手なことを言っている。


 自分の力不足を分かっていながら、船長の指示も仰がず、勝手な行動をした。おまけに、戻って来いという船長命令も無視した。


 挙句、死にきることもできず、みんなの航路を邪魔して。結局、みんなの足を引っ張った。その上、自分が帰りたいからと、のこのこと海賊狩りと一緒に海賊を追ってくるなんて……。


 命を賭けた航路を、みんな必死で渡っているのに。


 私は、海賊失格だ。


 けれど――。


「私の身勝手な行動と失態は……この人には関係ない……」

「……」

「この人もただ……私のわがままに付き合わされた一人なの……」

「……」

「お願い、ロー……」頭を上げて、ローを見上げた。「ナルミくんを、っ、助けて……」


 ローは目を瞑った。そして、ため息を一つ吐くと、後方にいたベポに呼びかけた。


「手術室運べ」

「アイアイッ! キャプテン!」


 大きな足音を鳴らして走ってくると、ベポはナルミくんの体を丁寧に抱きかかえてくれた。


 うなだれた私の後頭部に、ベポの視線が落ちてくる。けれどベポは何も言わず、そのまま遠ざかっていった。


 その後に続いて、ローのブーツの足音も遠ざかっていく。そして、船員たちの足音も、一人、また一人と、私の元から去っていった――。





「う……ん……」


 その声に、私はうとうとと落としかけていたカオを上げた。


 いつのまにか陽が落ちていて、室内の様子が見えにくい。


 私は慌ててランタンを灯した。


 オレンジ色の炎に照らされたナルミくんは、すでにうっすらと目を開けていた。その眼球が、やはり上下左右に線を描く。


 ナルミくんは、私をその目に映すと、そこで動きを止めた。


「……***?」

「っ、」


 言葉どころか声にもならず、私は嗚咽だけをもらしてナルミくんの体にカオを埋めた。


 安堵と、申し訳なさと――それ以外にも。言葉では言い表せないいろんな感情が入り混じって、それがただ涙となってあふれ出した。


「***……怪我したの……? どっか痛い……? 大丈夫……?」


 自分もこんな状態なのに、ナルミくんはまだ私の心配ばかりをしていた。埋めたままの私の頭に、弱々しく手の平が乗せられる。


 それがとても暖かくて、私はついにむせび泣いてしまった。


「っ、ごめんねっ……ナルミくん、っ、ごめん……」


 一番最初に出た言葉は、やはり申し訳なさからくるものだった。


 わがままに付き合わせて、ひどい思いをさせて。


 私と出会っていなければ、ナルミくんは今も、あの暖かい町で、平和に暮らせていたはずなのに。


 私が未練がましいばかりに――ナルミくんにも、みんなにも、ローにも。辛い思いをさせてしまった。


 悔しくて、情けなくて。私は拳を強く握りしめた。


「アンタ、ほんと……謝ってばっか……」


 ナルミくんの掠れた声が言う。


 あきれたような笑い声も聞こえてきて、私はようやく埋めていたカオを上げた。


 ナルミくんは、やっぱり困ったように笑ってくれていて、私はそれを見て再び嗚咽をもらした。


「ここ……海賊船だよね……?」ナルミくんは、自分の腕に繋がれた点滴の管を見た。「治療されてるってことは……襲ってきた海賊船に拉致されたわけじゃないね」


 ナルミくんはすでに勘付いているようだったが、私はなんとか嗚咽を止めて答えた。


「ハートの海賊団の船だよ。私とナルミくんの治療は、ローがしてくれた」


 そう言うと、ナルミくんは心底安心したように深く息を吐き出した。


「そっか。……よかった。無事送り届けられて」

「……」

「トラファルガーさんとは、ちゃんと話せたの?」

「……」

「……***?」


 私は言い淀んでしまった。


 本当のことを言えば、またナルミくんに甘えてしまうことになる。けれど、嘘をついたところで、ナルミくんにはきっと分かってしまう。そうすれば彼に、また余計な気を遣わせる。私が彼の家を出た、あの日のように。


「私……やっぱり、要らなかったかもしれない……」


 結局、蚊の鳴くような声でそう白状した。


 ナルミくんはしばらく沈黙してから、天井にカオを戻して「そっか」と言った。


「じゃあ……おれとすごすご帰るコースだね」

「っ、」


 そう言うナルミくんの声が優しくて、私はまた泣き出してしまった。


「私、もう……ナルミくんに迷惑かけたくない……」

「……」

「こんな……っ、怪我までさせて……」

「……」

「一緒にいてもらう理由……ないから……」

「……」

「っ、だから」

「そのことなんだけど」


 私の言葉をさえぎって、ナルミくんが言う。


 ナルミくんは、私の頬に手の平を添えて、続けた。


「***。おれと一緒に、あの町に帰ったら」

「……」

「おれと、け――」


 バンッ――!


 突然、室内にそんな音が響いて、私は音のした扉の方を見た。


「ペ、ペンギンさん……」

「……」


 扉を開けて入ってきたのは、ペンギンさんだった。ペンギンさんがこんなふうに乱暴に扉を開けるところを見たことがなかったので、私は怯えたカオを彼に向けてしまった。


「……***に触るな。海賊狩り」


 ペンギンさんにそう言われて、ナルミくんは何も言わずに私の頬から手を離した。


 それを見届けてから、ペンギンさんは私とナルミくんに視線を流して言った。


「二人とも来い。……船長がお呼びだ」


 ペンギンさんの背中を見送りながら、私とナルミくんはカオを見合わせた。


 ナルミくんが体を起こそうとしたので、私はそれを支えた。ベッドを出る時に、ナルミくんのカオが苦痛に歪む。


「大丈夫? ナルミくん……」


 私の不安げな表情を見て、ナルミくんは蒼いカオで笑った。


「……行こ」


 ナルミくんが自分で点滴を外すと、二人で一緒に、彼らが待ち受けているであろう食堂へ向かった。




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