08

「ん…」


腕の中で***が小さく身じろぎして、ローは緩く瞑っていた目を開いた。


空が白々と朝を告げ始めている。


眉をしかめてまどろみと戦う***の頭をなでると、***はうっすら目を開けた。


「…よォ。」

「…………………。」

「きったねェな。よだれついてるぞ、おまえ。」


口元についた白い跡を指先で拭ってやると、***のカオはみるみるうちに赤くなっていった。


「なっ、ロっ、ロー…!!なっ、なっ、なんっ、なんで私のベッドでっ…!!」


パクパクと口を震わせながら、***はあからさまに狼狽する。


「…べつに、なんとなく。」

「なっ…!!なんとなくってっ…!!そっ、そんな理由で一緒に寝ないでっ、」

「朝からうるせェな。いいだろ、べつに。」

「よよよっ、よくなっ、…わっ…!!」


ジタバタ暴れ出した***の身体を、押さえつけるようにして腕に閉じこめた。


***の早すぎる鼓動が、ローの身体を通して伝わってくる。


「ぎゃあああっ…!!ちょっ、はなっ、離しっ、」

「あー、ねみィ…」

「ロっ、ロー…!!」


涙目になりながら懸命に訴える***を見て、ローは安堵した。


それが、『いつもの』***であることに、こんなにも。


「ロ、ロー、あのっ、私、ご飯作らなきゃっ、」

「あとにしろ。」

「でっ、でもっ、」

「船長命令だ。」

「うっ、」


それを言えば、***は何も言えなくなって押し黙る。


ようやく***は、ローの腕の中でおとなしくなった。


落ち着かないのか、***の手が所在なさげに視界の端をうろちょろする。


ローは、***の手を引っ掴むと、自らの背に回した。


「わわっ、ちょっ…!!」

「…………………。」

「くるっ、苦しいよロー…!!」

「…………………。」

「……………ロ、ロー、あのー…」

「…………………。」

「…………………。」


眠っていると思ったのか、***はそれ以上何も言わなかった。


「…………………。」

「…………………。」

「……………今日、」

「あっ、あれっ、起きてた。」

「今日、朝飯なんだよ。」

「え、あ、そ、そうだね、ど、どうしようかな…」

「シャケと味噌汁がいい。」

「あ、い、いいよ。あっ、でも、シャケあったかな…」


昨日買ってきただろ。


そう言いかけて、ローはやめた。


もし、覚えていなかったら。


この穏やかな時間が、だいなしになってしまう気がして。


「…腹減ったな。」

「…そろそろ起きる?」

「…あァ。」

「…………………。」

「…………………。」

「あ、あれ、お、起きるんじゃないの?」

「…あァ。」

「…眠いんだったら寝ててもいいんだよ?」

「…………………。」


そう言われて、ローは腕の力を緩めた。


一緒に起きる、その意思表示だ。


強張っていた***の身体から力が抜けて、***が小さく息をつく。


ローはむくりと身体を起こすと、大きくあくびをした。


眠れなかった、またしても。


目を覚ました時、***が自分を忘れていたら。


そんなことを、夜じゅうずっと考えていた。


そそくさとベッドから出た***が、あるものを見て「あれ?」と小さく声を漏らす。


「な、なんだろ、これ…」

「あァ?」

「あ、いや、ほら、見て、…パジャマがこんなに。」


キョトンとしたカオで、***はそれが入った袋をローに見せた。


ギクリと、ローの身体が揺れた。


「だれか間違えて置いてったのかな…」

「…………………。」

「あっ、でもこれ女用だ!あれ、じゃあだれの、」

「おまえのだよ。」

「へ?」


呆けたカオをした***を横目にローはベッドから出ると、Tシャツの中に手を入れて脇腹を掻いた。


それを見た***が、ほわりと頬を染める。


「おまえのあれ、あっただろ。虫柄のパジャマ。」

「…あ、あれちょうちょなんだけど。」

「あれな、ダメにした。」

「ええっ!」

「ワイン溢してな。」

「そ、そうだったの?」

「あァ、だからそれ買ってきてやったんだよ。」

「ロ、ローが女用のパジャマ買いに行ったの?」

「あァ。」

「ひ、一人で?」

「…あァ。」

「…………………。」


そう言うと、***は再び袋に入ったままのそれを見た。


「……………へへっ、」

「?」


そして、とてもうれしそうに、***はカオを綻ばせながら言った。


「ありがとう、ロー!」

「…………………。」

「一生大切にするね!」

「…アホか。ただのパジャマだろ。」

「でも、ローが私のために選んでくれたんだもん。」

「…………………。」

「なんだって、うれしいよ!」


しあわせそうに笑った***を、ローは無意識に抱き寄せていた。


……………嘘だ、バカ。


それは、おまえが自分で選んだんだよ。


一緒に買いに行ったんじゃねェか。


……………忘れてんじゃねェよ。


「ロっ、ロー?どっ、どうしたのっ?」

「…………………。」

「……………ロー…?」

「…………………。」

「……………何か、あったの…?」

「…………………。」

「ロー、なんか変…」


不安げな声を出した***に、ローはゆっくりと身体を離して***を見た。


「…あった。」

「な、なにがあったの…?」

「…………………。」

「私でよければ、なんでも聞くよ…?」

「…いびきがな、」

「い、いびき?」

「あァ。」


そう言うと、ローはそのまま***の肩口に頭を置いた。


「だれかさんのいびきが、すっげェうるさくてな。」

「へ、」

「おかげでおれは睡眠不足だ。」

「なっ…!!」


そのローの言葉に、***はいっきにカオを赤らめる。


「うっ、うそだっ、そんなのっ、」

「嘘じゃねェよ。見ろ、この隈。」

「だっ、そんっ、そんなのいつもじゃんっ、」

「いつもより濃いだろ。」

「…そ、そう言われてみれば…ううっ、ご、ごめん。」


申し訳なさげに俯いた***の頭を、ローはひとなでして笑った。


「味噌汁、うまく作れよ。シャケは極めてふっくら焼け。わかったな?」

「…!うっ、うん…!」

「よし、行くぞ。」

「はい!」


そう元気よく答えると、***はドアを開けたローの後を追う。


「でも、あんなにパジャマがあったら、『おまえパジャマで生活すんのかよ』って言われちゃいそう。」

「…だれに。」

「え?」

「だれに、だよ。」

「だれに…」


ローにそう問われて、***はしばらく考えてから、パッとカオを上げた。


「ははっ、そんなこと言う人、この船にはいないか!」

「…………………。」

「あー、お腹空いたねェ。」


楽しげに笑う***の横顔を、ローはいつまでも見つめていた。


―…‥


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