07
***が、小さく寝息を立て始めた。
くうくうと眠るその頬をひとなでして、ローは立ち上がる。
窓の外を見ると、先程まではなかった暗雲が空を覆っていた。
「…荒れそうだな。」
そうだれにともなく呟くと、ローはもう一度***を一目見てから、***の部屋を出た。
―…‥
カチャリ。
小さな音を立てて甲板に続くドアを開ければ、たくさんの目が一斉にローへ向けられる。
どれもこれも、その表情には困惑が滲んでいた。
「全員いるな?」
その問い掛けには、ペンギンの頷きが答えた。
ローはそれを見て小さく息をつくと、ゆっくりと口を開く。
ハートの海賊団全クルーに、ピリリとした緊張感が走った。
「話がある。……………***のことだ。」
ローがそう切り出すと、甲板がざわついた。
「***?」
「アイツ、どうかしたのか?」
「おれだって知らねェよ。だから船長がこうして話してんだろ?」
「でも、***今日も普通だったよな?」
「あァ、一緒に洗濯したぜおれ。」
「***ちゃんにいったい何が…」
騒然となるクルーを、ローは咎めることなくただ床一点を見つめていた。
その皆の様子を見て、クルーを一喝しようとペンギンは息を小さく吸ったが、となりに座っていた男がスクッと立ち上がった。
「うるせェぞ!黙れおまえら!」
そう声を荒げたのはシャチだった。
「船長がこうしておれたちをわざわざ集めて話そうとしてんだぞ!」
「…………………。」
「それだけで、もう尋常じゃねェのがわかんだろ!」
「…………………。」
「…おれたちには、普通に見えたって、」
「…………………。」
「何かあったに、違いねェんだ…」
「シャチ…」
シャチはそう声を詰まらせると、まっすぐにローを見つめて言った。
「…そうなんでしょ、船長。」
「…………………。」
「アイツに、………………何があったんですか…?」
カオいっぱいに不安を滲ませながらも、シャチの瞳はローからそらされることはない。
シャチは、***と特に仲が良い。
***が唯一、なんでも言い合えるのが、シャチだったからだ。
先程の***を見て、シャチもなにか感じるものがあったのかもしれないと、ローは思った。
クルー全員の眼差しを一身に受けて、ローはようやく口を開いた。
「異変に気付いたのは昨日。昨日から今日にかけて、アイツが『忘れた』ものは三つ。」
「…『忘れた』?」
ペンギンの整った眉が、困惑したように中心に寄る。
「あァ、…ひとつはおれとの約束。もうひとつは、…ベポ。」
「えっ、おっ、おれ?」
大きな身体が、動揺からおろおろと揺れた。
「あァ。…それから、」
ローはそこで言葉を切ると、自分をまっすぐに見つめているシャチを見た。
シャチの身体が、ピクリと揺れた。
「おまえだ、…シャチ。」
「お、おれを、忘れた…?」
目を大きく見開いて、その言葉の意味をなんとか咀嚼しようと、口の中でそう復唱した。
「船長、……………それは、つまり…」
その先を求めるように、ペンギンはローを見つめた。
それに対して、ローはひとつの頷きで答えると、昨日からずっと頭をよぎっていた病名を口にした。
「***は、……………『記憶障害』だ。」
―…‥
「おれ、明日一緒にシャケ食べようねって約束したんだけど、…それも忘れちゃうかなァ、***。」
あははっ、と寂しげに笑うと、ベポはその大きな瞳を伏せた。
ローは、一口酒を煽ると、ベポのみでなく、ペンギンとシャチに向けて言った。
「一度は思い出すんだ。約束もベポもシャチも、一度は思い出していた。…が、」
『私、ローと何か約束してたっけ?』
「……………おれとの約束は、今日にはもうすっかり忘れ去られてた。」
「つまり、…おれとベポのことも、明日になったら思い出せないってことですか?」
「…………………。」
ローはそれには答えられず、再びグラスに口をつけた。
4人だけのキッチンに、重苦しい沈黙が走る。
そんな空気を払拭するかのように、シャチがパッとカオを上げて明るい声で言った。
「でもっ、そんなのきっと、船長が治してくれますよね!」
「そっ、そっかァ!そうだよね、シャチ!」
「あったりまえだろベポ!うちの船長に治せねェ病気なんてねェよ!ねっ、船長!」
「…………………。」
すがるように向けられたそのまっすぐな目に、ローは応えられないままグラスの縁を見つめた。
そんなローの様子を見たシャチとベポが、視線の端で不安げにカオを見合わせる。
「…記憶障害となると、損傷があるのはおそらく、…脳。」
いつもよりキツめの酒を一口乱暴に煽ると、ペンギンは熱い息を吐き出しながらそう言った。
「脳の障害は、『治す』という意味では、非常に難しい。…たとえ、船長でもな。」
「そ、そんな…」
ペンギンのその言葉に、シャチとベポは言葉を失った。
「…んなカオすんな、バカ。」
「せ、船長…」
「おれだって、なにもあきらめてるわけじゃねェ。…ただ、」
カランッ…
グラスの中の氷を液体の中で弄びながら、ローは続けた。
「ペンギンの言う通り、厄介な病気なのもそうだが、なにより、『ああ』なった原因がわからねェ以上、手の打ちようがねェ。」
「原因…」
ローがそう言うと、三人は低く唸って思案し始めた。
「たしかに、何か原因がないとああはなりませんよね…」
「なにかあったとしたら、昨日、か…」
「おれも一緒に船番してたけど、特に変わったこともなかったもんな…」
ペンギン、シャチ、ベポの順で各々そう口にすると、ローはカタリと音を立てて椅子から立ち上がった。
「なにか思い出したら、すぐに教えてくれ。小さなことでも、なんでもいい。」
グラスをシンクに置くと、ローはそのままキッチンの扉へ向かった。
「…船長!」
そう呼び掛けられると、ローはキッチンを出ようとしていた足をピタリと止めた。
呼び掛けたのは、シャチだった。
シャチは、数秒ためらったのち、ローにこう尋ねた。
「……………***が死ぬなんてことは、ないですよね…?」
その問いに、ピクリと身体を揺らしたのは、ペンギンとベポだけはなかった。
ローは、ゆっくりと振り向くと、まっすぐにシャチを見つめて言った。
「どんな病気にかかっていようが、***が死ぬなんてことはねェ。」
その目は、戦闘時の指示同様、迷いがなく、力強い目だった。
「おれが、そうはさせねェ。どんなことをしてもな。」
「船長…」
ローのその言葉に、三人は初めて安堵の表情を浮かべた。
「…よーし!おれも医学の本いっぱい読んで***の病気治すぞー!」
「シャチ!おれもおれも!」
「シャチ、ベポ。人には向き不向きというものがある。そこはおれと船長に任せろ。」
「なっ、なんだよペンギンえらっそうに!」
「そうだそうだ!ちょっと頭がいいからって!」
「ちょっとじゃない、おれは船長の次に頭がいい。」
「せっ、性格わりー!」
ぎゃあぎゃあといつものように騒ぎ立てる三人を見ながらローは口の端を上げると、そのままキッチンをあとにした。[ 57/68 ][*prev] [next#]
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