本心 1/2
「じゃあ……本当に、お世話になりました」
「……」
玄関先でそう頭を下げても、ナルミくんは未だどこか腑に落ちない様子だった。
「あのお花屋さんと、幸せになってくださいね。海賊狩りもいいですけど、彼女のためにも、あまり無理はしないように」
「ねェ。本当に大丈夫なの?」
ここを出て行くと告げた日から、諸々準備をして、一週間。彼は毎日、何度もこの言葉を口にした。
なので私も、この一週間で繰り返した返答を、もう一度口にした。
「大丈夫ですって! こう見えても、元海賊ですよ? それなりに修羅場くぐってるんですから」
そう胸を張ってみても、ナルミくんの表情が晴れることはない。このカオも、ここ一週間とまったく同じだった。
「アンタが一人で海渡っていけるとは、到底思えないんだけど」
ナルミくんの眉間の皺は、深くなる一方だ。
「実は、航海術は少しだけ知識があるんです。航海士と仲が良かったので」
これは本当だった。ベポの隣で、彼の記す航海日誌を眺めているうちに、基本的な知識は身についていた。普通の海なら、おそらく問題なく渡っていけるだろう。
無論、グランドラインは、〈普通の海〉ではないのだけれど。
「少しだけの知識じゃあ、難しいと思うけど」
「……これから乗せてもらう船の旅行者の方の中に、航海士の卵がいるらしいんです。だから、次の島に着くまで、みっちり勉強させてもらいます」
「所詮、卵でしょ」
「……卵はいつか、孵るじゃないですか」
「そもそもなんだけど、その船の人たち、本当に信用できるの? やっぱりおれも一度会って」
「大丈夫です、大丈夫。それに、そんなことしたら、疑ってるみたいに思われちゃうかもしれないじゃないですか」
「……ほんと、おれと彼女に気なんか遣わなくて、いいんだけど」
「やだな。気なんて遣ってませんって」
玄関先で、終わりの見えない水掛け論をする。
ナルミくんは、本当に心配そうに眉をひそめて、言った。
「せめて、海賊船に戻ったら?」
「……」
「故郷じゃなくてさ」
「……」
「その方が、まだ距離的にも」
「逃げて来たんです」
「……え?」
ナルミくんの言葉を遮って、私は言った。
「前にナルミくん、言ってたよね」
「……」
「『本当は逃げて来たんだね』って」
「……」
「……その通りなんです」俯きかけたカオを上げた。「逃げて来たんです、私。本当は」
自分が、どんなカオをしているのか分からない。
分からないけれど、ナルミくんは、辛そうな目で私を見ていた。
「だから、帰りたく、ないんです」
「……」
「そもそも、海賊なんて……危険ですし!」
「……」
「この穏やかな町で過ごして、心底思いました。やっぱり私には、こういう平和な場所が合ってるなァって」
「……」
「だから、なんとかして、故郷に戻って」
「分かったよ」
ふうっ、と、ナルミくんは長めに深く、息を吐き出した。もう、何を言っても無駄だと、そう感じたらしい。
「最後まで、心配かけてごめんなさい」
本当に申し訳なかった。
最後の最後までお世話をかけたことも、
嘘をついていることも。
「……ほんとにね」
そう言ってナルミくんは、困ったように笑った。
「じゃあ……さようなら」
深く頭を下げて、住み慣れ始めていたこの暖かい家をあとにした。
*
港に着くと、漁船がたくさん停まっていた。
その中で私は、これから出航しそうな、慌ただしい気配のある漁船に近付いて行った。
「……あの」
「あん?」
強面のその漁師は、私の方を見ることなく、そうぶっきらぼうに返事をした。
「この船は、どこまで行きますか?」
そう訊ねれば、彼はようやく私を見た。
「どこって……この少し先にある、島の前くらいだが」
「……その島まで、送って頂くことはできますか?」
漁師は、怪訝なカオをした。
「そりゃあ構わねェが……あの島は、そんなに大きな島じゃねェぞ」
「人は住んでますか?」
「まァ、何人かは……」
無人島ではないなら、そこからまたさらに旅を続けられるだろう。
「じゃあ……お願いします」
「あ、ああ……」
その漁師は、気味の悪い物を見るような目付きをしてから、船へと戻って行った。
*
早朝五時。待ち合わせ場所は、南方面にある桟橋。
必要最低限の物を詰め込んだボストンバッグ一つを携えて、私はその場所へ向かった。
目の端を通り過ぎる景色は、どれもこれも見慣れているはずなのに、もうすでに「懐かしい」と感じる。
それは、これから私がここより遥か遠くへ旅立って、二度と戻っては来ないと、覚悟を決めているからかもしれない。
小走りで乱れた呼吸をそのままに、私は目的地付近を一周見渡した。
まだ来てないのかも、と一瞬思ったが、本当に一瞬だけだった。
桟橋近くの大木から、長い脚が生えている。もちろん、正確には誰かが寄りかかっているだけだ。
嫌味なくらい長い脚を投げ出して、ローはぼんやりと海を見ていた。左手には、私のそれより小さめのバッグ。右手には、そろそろ見慣れ始めたローの愛刀が握られていた。
白み始めている空気に、ローの横顔のシルエットが浮かぶ。それは、子供の頃に観た薄暗い絵画に似ていて、恐怖を超越して思わず魅了された。
ローにしては珍しく、隙だらけだ。ここではないどこかへ、思いを馳せているのだろう。その瞳は、目の前の海ではなく、どこか別の海を見ているようだった。
声をかけるべきかどうか悩んだのと、ローに見とれていたのとで、私は数秒そこで立ち尽くした。
空気がひんやりしていて、肌寒い。すんっ、と思わず鼻をすすると、ローはようやくこちらを見た。
「……来たな」
「う、うん。お待たせ」
「……」
「……」
二人とも、言葉少なだった。
自信家とはいえ、ローもこれからの航海に幾分か不安があるのだと、この時初めて察した。
「……行くぞ」
「はっ、はいっ」
ローが桟橋の方へ歩き出したのを見て、私も慌ててその方へ走った。
靄で見えていなかったが、桟橋には船が一隻、停まっていた。漁船とは違う、少し小洒落た船。
その大きさも、私の予想を遥かに上回っていて、私は思わず感嘆の声を上げた。
「すごい! 大きい!」
「大きくねェよ。これでも、一番小せェモデルだ」
桟橋に繋いだ縄を解きながら、ローはそう言った。
「こ、これで小さいんだ……」
「とりあえずの船だからな。仲間が増えてくりゃあ、この広さじゃ足りなくなる」
「仲間……」
その単語には、やはり胸が踊った。これから、どんな出会いがあって、どんな人たちと航海をしていけるのか。まだ見ぬ仲間たちへ、思いを馳せた。
「***、そろそろ乗れ。食料はもう積んである」
「う、うんっ」
揺れる床に足を踏み込むことに苦戦をしていたら、先に乗っていたローが私に向かって手を差し伸べた。
「王子様みたい。海賊になるのに」とか思いながらその手を取って、ようやく私は乗船した。
船が、ゆっくりと出航して行く。
船尾に立って、遠ざかる故郷をずっと見ていた。見えなくなるまで、ずっと。
「親は大丈夫だったのか」
しばらく船内で舵を切っていたローが、いつのまにか背後に立っていて、そう訊いてきた。
「大丈夫だったのか」なんて。珍しい。そんな物言いをする人じゃないのに。
訊いたことはないけれど、ローにとって彼の家族は、私の家族のように暖かな存在だったのだろう。
何かがあって、彼の心が荒んでしまったのは、家族と別れた後だったのかもしれない。
「うん。海賊になるって言った時は、そりゃあ怒られたけど」
「……よく許したな」
「ローと一緒だって言ったら、最終的には許してくれたよ」
ローに笑いかけてそう言えば、ローはあっけに取られたカオをした。
「さすがおまえの両親だな」
「……へ?」
「こんな得体の知れねェ男を信用して、のんきなモンだ」
「……」
……そうかな?
納得のいかないカオで首を傾げていれば、ローが、ククッ、と小さく笑った。
それが、いつものローで、少し安心した。
荷物を整理して、船の操作や船内の案内を簡単に受ける。
それが終わると、船頭で二人、毛布に包まって、昇ってくる朝日をぼんやりと見つめていた。
ローの横顔を盗み見る。
朝日のオレンジ色と濃い藍色が混ざり合って、ローの瞳は複雑な色をしていた。
「……何があるのかな。この先」
「……何があるだろうな」
いろんなことがあるだろうな。と、ローは付け足した。
「……怖い?」
「……」
数秒、黙り込んでから、ローはゆっくりと首を横へ振った。
「そんな言葉じゃあ、片付けらんねェな。今のこの感情は」
「……」
「ガキの頃もいろいろあったが、そん時は……助けてくれる人がいた」
ローは、目を細めて海を見た。泣き出しそうに見えたけど、ローは泣かなかった。
「あの時は、ただその背中を追いかけてりゃ良かったが……これからは違う」ローは、私を見た。「これからは、おれがその背中になる」
私は、じっくりと、深く頷いた。
「おまえは?」
「え?」
「怖いか?」
「ううん……正直、よく分からないんだよね。想像が、まったくつかないっていうか」
「まァ、そうだろうな」
「でも」
ローを見た。
ローは、眉頭を少しだけ上げて、私の言葉を待った。
「ローが一緒だから、大丈夫だよ」
そう言えば、ローは虚をつかれたようなカオの後、小さく笑った。
「この先のスワロー島に、仲間にしてェヤツらがいる」
「えっ? そうなの?」
「あァ。二年前に知り合ったが、一時別れた。おれは、おまえの故郷の医学を学びたかったからな」
「そうだったんだ……〈ヤツら〉ってことは、複数だよね? 何人?」
「二人。と、一匹」
「い、一匹?」
「動物、好きだろ」
「へ? う、うん。まァ……」
「ククッ、きっと気に入る」
「?」
朝日が、水平線から半分以上、顔を出す。
朝が来る。まったく未知な、朝が。
「***」
呼ばれたのでローを見れば、ローは目を細めて私を見ていた。
潮風に弄ばれている私の髪を、ローのすらりとした指が丁寧に梳かす。
その手を私の頬に添えて、ローは言った。
「おまえは、おれが守る」
「……」
「おれの命に代えても」
「……」
「だからおまえは、黙っておれについて来い」
「……」
「分かったな」
「……はい」
それから二人、何も言葉はなく、ただただ水平線を見つめ続けた。
ローと私。十五の時だった。
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