朝は来る 2/2
町の中心部は、昨日見た時とはまるで別世界だった。
香ばしい地中海料理の匂いであふれていた町は、今は火薬の匂いが充満している。
逃げ惑う人々と、それを追う獣のような人間たち。地面も建物も、血と炎で赤黒く変色していた。
海賊たちの振り下ろす剣を、無我夢中でかわす。途中、何度か体に当たったが、とにかく夢中で、そんなことは意にも介さなかった。
生と死の狭間で必死に切り抜けながら、ナルミくんの名前を叫び続けた。
全員を助ける力は、今の私には無い。無念さが胸を締め付けながらも、私はナルミくんだけを探した。
見慣れた建物が目に留まる。昨日の昼に訪れた、あの飲食店だった。
そういえば、彼女はどうなっただろう。あの、陽気で親切な女主人は。
私は、飲食店の出入り口へ走った。
すると突然、その扉が開く。
思わず身構えると、中から人が二人、転がるようにして出てきた。
二人の姿を見て、私はその一方の人の名前を呼び叫んだ。
「ナルミくんっ!」
「……!」
私の声に気付いて、ナルミくんは弾かれたようにカオを上げた。
いつもは乏しい彼の表情が、カオいっぱいに驚きに変わる。
彼の腕の中には、あの女主人がいた。どうやらナルミくんが救い出したらしい。足に怪我をしているが、命に別状はないようだった。
「アンタっ、こんなとこで何してっ」
「文句は後! とにかく、この建物の裏へ……!」
私とナルミくんは、女主人の体を両脇から抱えた。そして、身を縮めながら建物の裏手に回った。
物陰に三人して身を潜めると、ナルミくんはすぐさま自分の服を引きちぎった。そしてその切れ端を、女主人の負傷した足に巻きつけた。
建物の裏手には、他にも身を潜めている町民たちが数人いた。怪我をしている人たちが何人かいて、その中には子供もいた。
私は彼らに近付いて、言った。
「彼女を連れて、ドックまで走れますかっ?」言いながら、女主人に目配せした。「ドックの中に、出航準備がされている船が一隻あります……! それで、町から離れられます……!」
私の言葉を受けて、町民たちの表情に希望が宿る。その中の、比較的怪我の少ない男性が、勧んで女主人の体を支えてくれた。
「ナルミくん……! 立てる?」
彼らの背中を見送ってから、私は後ろでうずくまっているナルミくんに駆け寄った。
飲食店から転げ出てきた時、彼は自分の脇腹を抑えていた。その時は見えなかったけれど、今の彼の脇腹からは、真っ赤な血が流れ出ていた。
「いいから……アンタも、先行って」
「喋っちゃダメ」
私は上に着ていたシャツを脱いだ。歯で布の端を引きちぎると、そのまま力任せにそれを裂いていく。
ナルミくんのお腹を包むようにそれを巻きつけて、力を振り絞って縛り付けた。
ナルミくんは、苦痛にカオを歪めて、小さく唸り声を上げた。
「ねェ、お願いだから……アンタも逃げて」
ナルミくんの声を無視して、私は彼の体を支えて立ち上がった。
細く見えるが、鍛え上げられた筋肉が予想以上に重い。私は一瞬、体をよろめかせた。
「こんなスピードじゃ……すぐ捕まるってっ」
「っ、いいから……! 頑張って、歩いてっ」
「***っ」
「私の体だから!」
思わず叫んでいた。
ナルミくんは、驚いたカオで私を見下ろした。
「私の体だから……!」
「……」
「私の気持ちで、動かしてる……!」
「……」
「そう教えてくれたの……ナルミくんでしょ……?」
泣き出しそうな彼の瞳を見つめたら、私の方が先に泣き出してしまった。
「私に指図……っ、しないでよね」
「***……」
もし、ここで。ナルミくんを見捨てて、ローやみんなに会えたとしても。
私はきっと、彼らの前で笑うことは、二度と出来ないだろう。
彼らならきっと、例え志し半ばであっても。仲間を見捨てるようなことは、決してしない。
私は、ハートの海賊団の一員だ。
仲間たちに、そして……
船長に恥じるようなことは、絶対にしない。
私の瞳を見つめ返していたナルミくんは、フッと小さく笑って、「前言撤回」と言った。
「アンタ、やっぱり海賊。向いてるよ」
こんな状況なのに、うれしくなって。私は、同じように笑い返した。
背後では、叫び声と轟音が、近くまで迫っている。
二人して懸命に足を動かしていると、突然、ナルミくんが大きなうめき声を上げた。
「ナルミくん……!」
そのまま崩れ落ちるようにして倒れた背中に、大きな切り傷がついている。そこから、ぶわりと鮮血が噴き出した。
後ろを振り返る。
大きな斧のような物を持った男が、ゆっくりと私たちに近付いて来ていた。
「なんだ? まだ生存者がいたのか?」
そのさらに後ろからも、海賊が現れた。
「女は生きたまま連れて来い。男は殺せ」
斧を持った方の男に指示を出して、その男は木に寄りかかったまま傍観した。
私は、武器庫から持ってきた銃を、懐から取り出した。ストッパーを外すと、迷うことなく引き金を引く。
乾いた音を発しながら飛び出した弾丸は、男の体をすり抜けた。当たってすり抜けたのではなく、本当にただすり抜けた。
この男。能力者だ。
男は顔色を少しも変えることなく、私たちに向かって歩いてくる。
そういえば、木に寄りかかっているあの男。見たことがある。いつか、手配書で見た。
名前は思い出せないが、懸賞金の額は覚えている。確か、その当時のローと同じ額だった。
私は銃を捨てた。這いつくばるようにしてナルミくんに近付くと、その体を引きずってドックの方へと進んだ。
「逃げて……」弱々しい声で、ナルミくんが言う。「お願いだから……おれを置いて、逃げてよ……」
「っ、」
泣いている場合じゃないのに、涙があふれた。今まで過ごした彼との穏やかな時間が、走馬灯のように蘇る。
助けたい。……助けて。
この人だけでも。
「なんか、面倒くせェな。……女も殺せ」
その声のすぐ後、背中に感じたことのない熱を感じた。まるで、焼印でも押し付けられているようだ。喉の奥からは、聞いたことのない呻き声が出た。
地面に血がほとばしる。見えはしないが、おそらく私の背中には、ナルミくんと同じ傷がついたのだろう。
力が入らなくなって、ナルミくんの体に倒れ込む。
そしてそのまま、彼の体を庇うようにして抱きしめた。
ナルミくんはもう、青白いカオのまま、動かなくなっていた。
「可哀想に。二人一緒の方がいいよなァ」
感情のこもらない声が、もう、すぐそばから聞こえる。
……ロー。みんな。
会いたい。会いたい。
地面に映った大男の影が、斧を天高く振り上げる。
会いたかったけど、
……ごめん。
斧を振り上げるような風切り音が、耳にこだました。
「"ROOM"」
視界を、淡い水色が包む。
この色を初めて見た時、まるで海のうわずみみたいな優しい色だと、そう思った。
それを伝えたら、「なんだそれ」って。
いつもの、あの意地の悪いカオで。そう言って、笑ってくれた。
斧は、私の体を貫かない。ナルミくんの体も。
私は、後ろへ振り返った。早く振り返りたいのに、まるで自分の体じゃないみたいに、ゆっくりと。焦らすように、首は回転した。
業火の中から、人影が一つ。
今まで顔色一つ変えなかった海賊たちが、その姿を見て、カオを青ざめさせた。
「触るんじゃねェ」
獣の唸り声みたいな声に、海賊たちはなおさら気圧されていた。
「その女に、それ以上……薄汚ェ手で、触るんじゃねェ」
鬼がいるなら、こんなカオかもしれない。
だけど私にとっては、そのすべてが愛おしい。
応戦しようと、海賊たちが武器を構える。
それよりも早く、長刀が空を裂いて、二つの体からは、おびただしい量の血が噴き出した。
海賊たちは、そのままぴくりとも動かなくなった。
私は立ち上がった。立ち上がっていた。ほぼ、無意識に。
まるで、磁石が引き合うように。私たちの体は、自分たちの意思を通り越して、本能で動いていた。
この体の、どこにそんな力が残っていたのか。私は走り出していた。
だけど、血液を失った体は、やはり思うようには動かない。私の体は、膝から崩れ落ちそうになった。
すがるように、前へ、前へと手を伸ばす。
膝が地面につく前に、私の腕は、伸びてきた手に力強く引かれた。
そのまま、息もできないくらいに抱きすくめられる。
潮風と薬品が混じったような、懐かしい匂い。
私は、なんだか夢見心地で。彼の肩越しに、明けていく空を見上げた。
「……おれと、おまえの心臓」
「……」
「体の中から取り出して」
「……」
「二度と離れられねェように」
「……」
「溶かして、一個に出来りゃあ、いいのに……」
「っ、……ははっ」
何それ。怖いよ。
最後の力を振り絞って、愛しいその背中に手を回した。
薄れていく意識の中で、
ローの、子供のように泣きじゃくる声を。
ただただ、黙って聴いていた。
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