03
薄暗い室内で、衣の擦れる音と女の息遣いだけが聞こえてくる。
自分の身体の上を柔らかな舌がのったりと這うたびに、ローは言い知れぬ焦燥感に駆られた。
『取り返しのつかないことになるよォ…』
月が、やけに紅かった。
「……………どけ。」
「…え?」
「今日は勃つ気がしねェ。だからもういい。」
「なっ…!!」
上に跨がったままだった女の身体を乱暴にどかすと、ローははだけていた服を整えて立ち上がった。
「わっ、私の何が気に入らないのよっ、」
「ツレが二人いる。おれは船に戻ったと、そう伝えておけ。」
女の詰問には答えず、ローはドアを荒々しく開け放つと、香水の匂いが充満したそこをあとにした。
―…‥
まとわりつくような、嫌な予感。
それは、時間が経つほどに濃くなっていって、ついにローは意地を張ることをやめて船へ戻ることを決めた。
船にはベポを置いてきている。
余程のことでもないかぎり、何かが起こるとは考えにくい。
考えにくい、が…
「この町一番のおいしいショートケーキ!ラスト一個ですよー!」
その呼び声に、ローはピタリと足を止めると、数秒迷ってから声の方へ進路を変えた。
「いらっしゃいませ!この町一番のショートケーキがラストいっ、」
「全種類一個ずつ。」
「ぜ、全種類ですか?」
「あァ。早くしてくれ。」
「はっ、はいっ…!!」
そのローの言葉に、店員は全員総出で慌ててケーキを包み始める。
ローのただならぬ雰囲気に圧されたのか、ケーキはものの数分で差し出された。
ポケットに入っていた有り金をすべてトレーに置くと、ローは店員の「お客様…!多すぎます…!」という声にも答えず店を出た。
―…‥
「あれっ、キャプテンおかえりー。早かったね。」
船に戻ると、呑気に夜釣りをしていたベポに迎えられた。
「…変わりはねェか、ベポ。」
「?うん、ないよ?」
「そうか、…***はどこだ。」
「***?***なら今おっきい方の女風呂に、…あっ、キャプテーン!」
突然小走りで船内へ向かうローに、ベポは首を傾げながらも再び釣りざおへカオを戻した。
―…‥
女風呂の更衣室のドアをノックもなしに乱暴に開けると、ローは中を見回した。
浴室から、シャワーの音が漏れている。
ローはズカズカと浴室のドアまで近付くと、中にいるであろう***に向けて声を掛けた。
「***。」
数秒待ってみたが、中から応答がない。
「?……………***、いんだろ?」
少し大きめに声を張り上げてみても、浴室からは相変わらずシャワーの音だけ。
「…!!……………***…!!」
嫌な予感は的中した。
そう確信して、ローは浴室のドアを勢いよく開けた。
「え、……………ぎゃあああああ…!!」
「…あ?」
「ロっ、ロっ、ロー…!!なにっ、なにして…!!」
すると、浴室には泡まみれになった***の裸体。
ローは呆気に取られたのち、小さく息をついた。
「…なんだよ、生きてんじゃねェか。」
「あっ、あっ、当たり前でしょ…!!いいから早く閉めてよ…!!」
カオどころか、身体まで真っ赤にして、***は涙目で叫ぶように言う。
「…上がったら船長室に来い。」
未だわめきたてる***にそうとだけ告げると、ローは浴室のドアを閉めて女風呂を出た。
―…‥
「信じられない。」
「…………………。」
ほわほわと身体から湯気を立ち上らせながら、***は船長室の床に体育座りをしている。
「ふっ、普通いきなり女風呂のドア開ける?しっ、しかも私がいるってわかっ、わかっててさっ、」
「…だから声掛けたって言ってんだろ。」
「シャ、シャワーの音で聞こえなかったんだもん…」
拗ねたように横目で床を見つめながら、***は小さくそう反論した。
「で、でも突然帰ってきたりしてどうしたの?何かあっ、」
たの?と尋ねようとして、***はピキリと固まった。
ローが、自分の目の前で膝まずいているからだ。
しかも、
「ロっ、ロっ、ロー…!!ちょっ、近い近い…!!」
「…………………。」
おろおろと狼狽える***を無視して、ローは***の頬に手を伸ばした。
「なっ、なにっ、……………いひゃひゃひゃひゃ…!!ひょっ、いひゃいいひゃい…!!」
「…異常ねェな。」
満足したように深く頷くと、ローはつねっていた***の頬から手を離した。
「いたたた、…ど、どうしたの?何かあったの?」
「なんでもねェ。…おら。」
そう言うと、ローはケーキの箱を***に差し出した。
「な、なにこれ、……………あっ!ケーキ!」
「…………………。」
「わっ、しかもこんなにたくさん!ローが買ってきてくれたの?」
「…ケーキ屋の勧誘がしつこくてな。」
「あ、ありがとう!ロー!」
きゃいきゃいと子どものようにはしゃぐ***を見て、ローはようやく心から安堵して頬を緩めた。
「少しは機嫌直ったかよ。」
「う、うん!で、でももうお風呂は覗かないでね。」
「ガキの頃から一緒にいる女の裸見たってなんとも思わねェよ。」
「うっ、」
「これで昼間のこともチャラだからな。」
「…え?」
「いつまでもネチネチ引きずるんじゃねェぞ。」
「…………………。」
船長室にある食器棚からフォークをひとつ取り出しながらそう言うと、途端、***が黙りこくった。
「?…なんだよ。なんか文句でもあんのか。」
「い、いや、そうじゃなくて、」
「?」
***はそこで言葉を切ると、キョトンとした表情のままこう続けた。
「昼間って、……………なんかあったっけ?」
「…あァ?」
***のその一言に、ローは思いきり眉をしかめる。
「何って、…おまえキレてたじゃねェか。おれが今夜出掛けたから。」
「ええ?わ、私が?うそ、い、いつ?」
「…とぼけてんじゃねェよ。どんな嫌がらせだ。」
「ちっ、ちがうよ…!あ、あれ?」
そんなことあったっけ?と、大きく首を捻る***。
いなくなったはずの胸騒ぎが、またじわりと腹の底から沸き上がってくる。
「…この町に着いたらおれに見せてェモンがあるって言ってただろ。」
「ローに、……………見せたいもの…?」
「あァ。毎日必ず夜九時に付き合えって、おまえ何日も前からうるさかったじゃねェか。」
「毎日、夜九時、…………………ああっ!!」
すると突然、何かを思い出したように、***は大きく口を開けた。
「そっ、そうだったそうだった!!思い出した!!」
「…………………。」
「それなのにローが今日出掛けちゃっ、…あっ!ロ、ロー…!私まだ怒ってるんだからね…!」
「忘れてたヤツが何を偉そうに。」
「で、ですよね…でも、なんで忘れてたんだろう?」
「…知るか、バカ。」
慌てふためく***をジトリと睨み付けながら、ローは呆れたように大きく溜め息をつく。
「あはは、お風呂覗かれた衝撃で忘れちゃったのかな…」
「おれのせいにしてんじゃねェよ。」
「へへ、ご、ごめんごめん。」
眉をハの字に下げて申し訳なさげにそう言うと、***はローからフォークを受け取ってショートケーキに突き刺した。
「あっ、これおいしい!」
「…………………。」
「ローも食べる?甘さ控えめだからきっとローでも、」
「おまえ、」
「ん?」
「……………今日何もなかったよな?」
「?何かって?」
「……………いや、なんでもねェ…」
「?」
***はほんの少し目を丸くした後、再びケーキに意識を戻した。
その幸せそうなカオを見ても、ローの心に再び安心が戻ることはなかった。[ 53/68 ][*prev] [next#]
[mokuji]
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