案ずるより、

 一番最初に、嗅覚が起きた。


 焼き魚の匂いと、お出汁の香り。


 その後すぐに、とんとんとんっ、と、小気味の良い音が耳に届く。リズムが完璧。気持ちが良くて、このままもう一眠りしてしまいたくなった。


 それを拒否したのは、「ここ、どこだっけ」という疑問である。


 ついでに、ご飯の匂いと包丁のリズムに刺激された空腹も、同じくそれを拒否した。


 目を開けると、見慣れた天井。息をすれば、吸い慣れた空気。


 安心感だけが、私を包んだ。


「あ、起きた?」

「……!」


 聞き慣れた、抑揚のない声。表情の乏しい整ったカオが、右斜め上から、にゅっと現れた。


「ナっ、ナルミ、くん……」

「すごい寝てたよ。三日間。死んだかと思ったけど、生きてたね」


 そう言いながら彼は、視界からフェードアウトした。デジャヴ。


 そうか。三日間も──。


 再開された包丁の弾む音を聞きながら、ぼおっと天井を見つめた。


 久しぶりに、夢も見ないで眠った。熟睡って確か、こんな感じだったな。そう実感できるくらい、本当にぐっすりと。


「起きられる?」


 その声に、ようやく首を動かしてみる。


 首の真ん中辺りから、ぎぎぎ、と、錆びついた機械みたいな音が鳴った。


 答える代わりに、私は体を起こしてみた。すっきりと軽い。ここ一ヶ月くらいの自分の体とは、まるで別物のようだ。


「お腹空いた……」


 まさかの第一声に、自分が一番驚いた。「生きる気力が一ミリも湧かない」とか思っていたくせに。生きるために、ご飯を食べようとしている。


 右手にご飯茶碗、左手にお味噌汁のお椀を持っていたナルミくんは、それを聞いて小さく笑ってくれた。


「何日か振りの食事だから、固形だとあれかなと思って」


 テーブルの上に置かれた食器から、お出汁の良い香りが湯気に乗って鼻へ届く。


 それに誘われるように、私はテーブルの方へと這って行った。


 とろとろに溶けた優しい色のお粥を見て、ついに、ぐうっ、とお腹が鳴った。


「美味しそう……」

「でしょ。魚も食えそうだったら、一緒に食べよ」


 てきぱきと、丸テーブルに食事が並べられていく。


 まだ食べてもいないのに、そのどれもが暖かくて、涙が出そうになった。


「ナルミくん……」

「ん?」


 自分の分のご飯をよそいながら、彼はそう生返事をした。


「この度は、ほんと……」

「……」

「何から何まで……」

「……」

「なんてお礼を言ったらいいか……」


 俯き加減でぼぞぼそと話していたら、カオの前に箸が差し出された。


「まず、食わない?」

「……」

「話はそれから」


 ね、と言って、ナルミくんは私の右手に箸を握らせた。


「いただきます……」


 手を合わせて、お味噌汁のお椀を持つ。一口口に含むと、柔らかなお味噌の味がふわりと広がった。


 美味しい。幸せ。


 生きてて、良かった。


 飢えた犬のようにご飯をかき込んでいたら、「ご飯、逃げないから」と、ナルミくんが苦笑いをした。


 食器があっというまに空になって、お腹が幸福感で満たされる。


 そのお腹をさすっていると、ナルミくんが温かいお茶を淹れてきてくれた。


「……さて」


 ぞぞっ、と、お茶をすすってから、ナルミくんは私を見た。


「すぐ行ける? それとも、今日一日休んでからにする?」

「……え?」


 その質問は突拍子もなくて、私はぽかんと口をほうけた。


「帰るんでしょ? トリ……あ、トラ……なんちゃらさんのとこ」

「あ……」

「おれとしては、出来ればなるべく早めに出たいんだけど」


 湯呑みをテーブルに置いて、彼は食器棚の上に重なっていた新聞の束へ手を伸ばした。


 ナルミくんが用があったのは、新聞本体ではなかったようだ。その間に挟まった二つ折りの紙の束をごそっと取り出すと、それをそのまま私へ差し出した。


「見てみな」

「?」


 手渡されたそれを、首を傾げながらも素直に受け取る。


 二つに折られていたそれを開いて、息が止まった。


「ちょうど、三日前の朝刊に入ってた」


 ナルミくんのその言葉を、意識の端で聞く。


 手渡されたそれは、手配書だった。〈ハートの海賊団〉の。


 開いてすぐが、ローの手配書だった。久しぶりに見るローのカオに、頭の中が真っ白になった。


「懸賞金、上がってるね。多分、全員」


 その言葉に、ようやく意識を現実に戻す。二枚目、三枚目と捲っていくと、かつての仲間たちのカオが次々に現れた。


 最後から二枚目の紙を捲る。一番後ろにあったのは、ルピの手配書だった。


 手配書が出回るということは、ルピにも懸賞金がかけられたということ。DEAD OR ALIVEの下に、その名前と、6,700,000ベリーとあった。


 後ろの方から、もう一度一枚ずつ遡って、今度はその金額を見る。確かに全員、懸賞金が上がっている。ローに至っては、ついに二億の賞金首だ。


「何かしたの?」


 懸賞金が上がるということは、海軍の目につくような、目立った〈何か〉をしたということ。


 ナルミくんにそう訊けば、彼はもうその記事を用意して待っていた。


「格上の海賊団、一つ潰したっぽい」


 該当の記事だけを新聞から引き抜いて、私へ差し出す。


 その記事をよくよく読めば、確かにそんなようなことが書いてあった。


 そして私の目は、その記事の中の、ある部分に釘付けになる。その事件が起こった〈場所〉だ。


 記事には写真が数枚掲載されていて、その中の一枚は海図だった。ご丁寧に、「ここで事件は起きましたよ」と、赤い丸がついている。


「遠いよね。結構。ここから」


 お茶の残りをすすりながら、ナルミくんが言う。


 彼はなんてことない声色で言ったが、「結構遠い」の距離ではないように思えた。


 記事を閉じて、もう一度手配書を見る。一枚、一枚。一人、一人。その懐かしいカオを、順に眺めていく。


 最後にはやはり、ローのカオを見つめた。


「この記事を元に、おれなりに〈ハートの海賊団〉の航路を推理してみたんだけど」

「いいかもしれない」

「え?」


 ローの手配書を指でなぞりながら、私はもう一度言った。


「戻らない方が、いいかもしれない」

「……」

「私の居場所は、やっぱりここには、もう無いみたい」


 手配書からカオを上げて、ナルミくんに向けてほほえんだ。


「みんな、いいカオしてる」

「……」

「きちんと前を見て、強く突き進んで行こうっていう、そんなカオ」

「……」

「きっとみんな……乗り越えてくれたんだと思う」


 私の〈死〉を。


 きっと、苦しみながら、もがきながら。


 それでも、前を向いて歩いて行こうと。


 懸命に、その足を動かしている。


「ローにとって、みんなにとって。私はちゃんと、〈過去〉になりつつある」

「……」

「きっと、辛かっただろうに」

「……」


 ローの、みんなの、その健気でひたむきな心を思うと、とても胸が痛かった。


「そんな、みんなの気持ちを無下にして」

「……」

「自分のことだけ考えて、のこのこ戻るなんて」

「……」

「私は、やっぱりできな」

「別に良くない?」


 私の言葉を遮って、ナルミくんがようやく声を発した。


 彼は、冷めてしまったお茶を淹れ直していた。


「え?」

「別に良くない? アンタの体なんだから、アンタの気持ちで動かして」

「……」

「会いたいって言ったじゃん」

「……」

「違うの?」

「……そう、だけど」


 ナルミくんの言葉は、いつもシンプルでまっすぐで。ストレートに心に突き刺さる。


 私は言い淀んでしまった。


「それに、アンタの言うその〈みんなの気持ち〉? 全部アンタの想像でしょ」

「……」

「そんな写真一枚で、本当に彼らの心が分かるの?」

「……」


 淹れ直したお茶を差し出しながら、ナルミくんは言った。


「直接会って、聞いた方が早くない?」

「……」


 反論の余地がない。私は素直にお茶を受け取った。


「船に戻るかどうかは、会ってから決めればいいじゃん」

「……でも」

「何」

「……」


 きっと、私が戻りたいと言えば、彼らは暖かく迎えてくれる。


 例え心の中で『もういらないのに』と思っていても。


 きっと、優しい嘘をつく。


 そして私は、その嘘にいつか気付く。その時私の心は、本当に死ぬかもしれない。


 それなら、知らない方がいい。


 みんなの心を想って、なんて。偉そうなことを言ったけれど。結局は、自分が傷つきたくないだけだ。


「……とりあえず、行ってみようよ」

「……」

「見つけたら、陰からこそっと覗いてみてさ」

「……」

「それで、本当にアンタの居場所無いなって思ったら、その時は」

「……その時は?」


 切れ長な目を柔らかく細めて、ナルミくんは続けた。


「おれと一緒に、すごすごと帰ってこよ」

「ナルミくん……」


 私の情けない本心も、彼にはきっと、すべてお見通しなのだろう。


 羞恥心でいっぱいで、穴があったら入りたいくらいだけど、それを知ってくれたのが彼で良かったと、心から思った。


「出発、明日の早朝にしよう。アンタがいつ目覚ますか分からなかったから、そういえば準備してない」

「うっ、うん」


 ナルミくんが食器を片付け始めたので、私もそれに続いて後片付けをした。


 いつものように、二人並んで食器を洗っていく。


 もし、私があの場所に戻れたら。そしたら、この光景も、これが最後なのかな。


 そう思ったら、鼻の奥がつんとした。


「家、長期間空けることになるから、近所の人に挨拶しないと」

「あ、そうですね。なんか菓子折りとか持って行きます?」

「そうしよ」


 ナルミくんに手渡される洗浄済みの食器を拭きながら、近所の人々のカオを思い浮かべた。


 菓子折り何個必要かな。鍛冶屋のおじさんとおばさんのところと、八百屋さん。それから、お肉屋さんに、その角の花屋……。


 ……。


「……ああっ!」


 ある重大なことを思い出して、私は思わずそう叫んだ。


 その声に驚いたナルミくんが、シンクの中に泡だらけの食器を落とした。


「うるさいなっ。何っ?」

「ナルミくん! 彼女はっ?」

「え?」

「彼女! 花屋さんの!」


 そうだ。そうだ。そうだった。どうして今の今まで忘れていたんだろう。私がこの家を出たきっかけだったのに。


 何をすっかり忘れて、ちゃっかり甘えているんだ。私のバカ。


「ナルミくんは、やっぱりダメだよっ。私一人で行くから、ナルミくんはここに残ってっ」

「……」

「……ナ、ナルミくん?」


 黙り込んだナルミくんの横顔を覗く。彼は、笑っているような、泣いているような、そんな複雑な表情をしていた。


「別れた」

「は……はァっ?」


 ナルミくんの浮かべた笑みに、自嘲がにじんだ。


「おれさ、いつもなんだ」

「……」

「なんか、大切にし過ぎるんだよね」

「……」

「大切に、し過ぎて」

「……」

「し過ぎて、し過ぎて……」

「……」

「最後、『なんかつまらない』って」

「……」

「そう言われるんだよね……」


 そう言って弱々しく笑うナルミくんは、哀愁まで漂っていて、なんだか少し老け込んで見えた。


「それは……その……」

「……」

「なんか……ごめんね」

「……うん」

「……」

「……」

「ほんと……あの……」

「……」

「元気、出してね」

「……うん」

「……」

「……」


 こうして私は、失恋直後のナルミくんと共に、ハートの海賊団の航路を追うことになった。


ずるより、
むが易し


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