17
どのくらいそうしていただろうか。
ほんの数分のような気もするが、もしかしたら実際には数時間だったかもしれない。
だが、そんなことはもう、ローにも、船員たちにとっても、どうでもよかった。
ローはずっと、***のカオだけを見ていた。
死人に対して、よく「眠っているようだ」なんて表現を耳にするが、***の場合は当てはまらない。
***は眠っている時、こんなにじっとしていない。足はベッドからはみ出るし、頭は枕から外れる。口元は、いつも幸せそうにゆるんでいた。
ローは手術台を降りた。心電図の電源を切ると、音が止む。
***の身体から器具を外して、最後に酸素マスクも外した。
「跡がついちまったな……」
頬の上の、酸素マスクのゴムの跡をなぞった。赤くついた線が、痛々しかった。
投げ出されていた***の手を取った。腕は細いが、本人の力が入っていないから、重みを感じる。
念のため、脈を取る。どこを探ってもやはり、無音だった。
ローは小さく息をつくと、脈をみた手を***の腹の上へ置いた。
そして、***の肩と、膝の裏に手を差し入れると、おもむろに抱きかかえた。
「せ、船長……? どこへ……」
そのまま手術室を出て行こうとするローへ、シャチは涙声のまま訊いた。
「……約束なんだ」
そうとだけ言うと、船員たちの沈黙を背に、ローは***の亡骸と二人、船を降りた。
*
街は活気づいていた。客を呼び込む声が、方々でする。それは初めてこの街に降り立った時と、まったく同じ光景だった。
先ほどのあれはなんだったのだろうか。夢か、幻か。
いずれにしても、今のローにとってはもう、どうでも良かった。
***の亡骸を抱えたまま、ローはあの森の方へ向かった。
***が行きたがっていた場所は、きっとあそこだったのだろう。そう漠然と確信していた。
「おい、兄ちゃん。その子、大丈夫か? 顔色悪いな」
ローと、***の姿に目を止めた町人が、心配そうに声をかける。
「そっちには森しかないぞ? 医者なら街の方に……って、おい! 兄ちゃん! 聞こえてねェのかっ? おい!」
無視をしたわけではないが、ローの耳にも、心にも、その声は届かなかった。
自分の息遣いと、二人分の体重に踏まれる土の音。
その二つだけを引き連れて、ローは深い森へ入っていった。
*
森の中は真っ暗だったが、ある部分だけがスポットライトのように月に照らされていた。
ローはそこで立ち止まると、***を地に置いて自分も座った。
広げた長い脚の間に、***の身体を起こして座らせる。
生きていたら、こんな体勢、***はカオを真っ赤にするに違いない。
そんなふうに思って、ローは笑った。
「なんだってんだよ。こんなとこ。ただの薄暗ェ森じゃねェか」
『そう思うでしょ? ところがねー、へへっ、あっ、まだ秘密!」
「大体おまえ、こういう暗ェ場所、苦手だろうが。いい歳して、オバケが出るとか言って」
『そ、そう言われてみればそうだね。すごく暗いね。……あっ、でも』
『ローと一緒だから、怖くないかな』
ローは、腕の中の***を見た。
亡骸が話すはずはない。***はやはり、ただ静かに笑っていた。
「……呑気なマヌケヅラだな」
白い頬に触れて、言った。先ほど触れた時よりもっと、冷たかった。
ローは、自分の着ていたパーカーを脱ぐと、***の身体をくるんだ。頬は、これ以上冷えないように、手の平で繰り返しさすった。
「明日から、朝飯はどうするかな。ペンギンにばかり任せてたら、毎日パンにしやがるし。洗濯物は……ベポにやらせりゃ、シーツが肉球模様になるし、シャチだと生乾きで取り込むからな。他のヤツも……まァ無理だろうな」
***の日常を、一つ一つ思い出していた。
退屈なくらい穏やかで、ローにとってそれは、当たり前の光景だった。
なくなるはずがない。そう思っていた。
……思っていたのに。
ふと、何かがローの頬の横を通り過ぎた。
淡い光が、目の端に映り込む。
よくよく目を凝らすと、小さな黄色い光が、ふわふわと踊るように飛んでいる。
気がつけば、森全体を、黄色い小さな点たちが、優しく照らしていた。
ローは、目を見開いた。
「これは……」
『あ? "ホタル"?』
初めて耳にするその名称に、ローは難しく眉を寄せた。
『そう、蛍!』
そう言って***は、ローの目の前にうれしそうに本を広げた。
『これね、虫なんだけど……ほら見て! こんなにキレイに光るの!』
『おまえ、虫キライだろうが』
『で、でもほら、光るんだよ!』
『……おまえ、光りゃあキライなモンでも好きになんのかよ』
『はー、キレイだなァ。見てみたいなァ』
ローの嫌味にも耳を貸さず、***はうっとりと本を捲った。
『……まァ、確かに興味は湧くな』
『えっ、ほっ、ほんとっ? ローも?』
『ケツの光る虫なんて、そうそういねェだろ』
『そっ、そうだよね! 変だよね! 珍しいよね!』
『……おまえ、何嬉しそうにしてんだよ』
『えっ、いやっ、だって……ほら』
『?』
本を両腕で大事そうに抱えて、***ははにかむように言った。
『ロ、ローと私の興味がカブるなんて、あんまりないから……』
『……』
『……』
『……』
『やっ、やっぱり今のなしっ』
『今度』
『え?』
***の腕から本を抜き取って、ローは続けた。
『二人で見に行くか、これ』
『えっ』
『まァ、停泊した街にいればの話だが』
『うっ、うん、……うん! あっ、じゃ、じゃあ、どこら辺にいるか調べておくね!』
何度も何度も頷いて、***は弾むように言った。
そんな***を見て、ローは目を細めた。
『あァ、期待してる』
『ロー! ロー!』
『あ? なんだよ、そんな慌てて』
『あっ、あのさっ、さっきベポに聞いたんだけど、これから行く街って、ほんとにここっ?』
息を切らしながら、海図のある部分を指差して、***は言った。
『あァ』
『ほっ、ほんとにほんと?』
『しつけェな。なんだってんだよ』
『あ、ご、ごめんね。そっか……そっか!』
『? なんだよ。なんかあんのか』
『あっ、あのねっ、私あれからずっと調べてたんだけどね、実はここにねっ』
そこまで言うと、***は何かを思い立ったように、突然口を噤んだ。
『? なんだよ』
『……へへっ、まだ内緒!』
『はァ?』
『あっ、あのさ、ロー。ローに一生のお願いがあるんだけど』
『お願い? 珍しいな、おまえがおれに』
目を丸くしたローに、***は両手の平を額の前で合わせた。
『この街に着いたら、毎日夜9時。私と一緒に行動してくれないかな?』
『はァっ? 毎日?』
『お願いっ! だって本には、いつ現れるか分からないって』
『現れる? 何がだよ』
『い、いやっ、だからそれはっ、そのー……とにかく、お願いしますっ!』
『……』
***がローに頼み事をするのは、本当に珍しいことだった。しかも、一生のお願い。
『……分かった』
『えっ』
『夜9時な』
『ほっ、ほんと? ほんとにほんとっ? 美味しいお酒あっても、き、キレイなお姉さんに誘われても、毎日だよっ?』
『しつけェ』
『! あっ、ありがとう! ロー!
約束だよ!』
「……バーカ。こんなの……」
蛍が一匹、ローの膝に留まった。優しい光が、***のカオをじんわりと照らした。
「ただ、おまえがやけに食いつくから、話に乗ってやっただけだ」
おれとおまえの興味が、カブるわけねェだろ。
それを、あんなうれしそうに話して。
あんな、いつ話したかも思い出せないような小せェこと。
バカみてェに、けなげに覚えてて……
ああ、でも、
おまえは、そういうヤツだったよなァ。
おれや、仲間と過ごす、一日一日を。
宝物みてェに、大切にするやつだった。
ぽたっ、と、***の頬に水が落ちた。
一粒、二粒と落ちていくうちに、目の前が滲んで***のカオが歪んで見えた。
「っ、ごめん……」
泣き顔を***に見られないように、***の首筋にカオを埋めた。
ごめん。ごめんな。***……
約束、守ってやれなくて、ごめん。
助けてやれなくて、ごめん。
もっと、ちゃんと、
「大事にしてやれなくて、っ、ごめん……」
形あるものは、いつかなくなる。「当たり前」など、この世にはない。
おにぎりを握っていた時、***はどんなカオをしていたのだろう。洗濯物を干す時、***はよく鼻唄を唄っていた。あの曲は、一体何の曲だったのか。
もっとちゃんと、見ておくんだった。どんな***も、この目でちゃんと。
当たり前なんかじゃない。
***がいる明日は、奇跡そのものだった。
「っ、***、頼む……目ェ開けてくれよ……」
固く閉じられたまぶたを、親指でなぞった。
冷えた身体と頬を、何度も何度も、強くさすった。
それでも、***が目を覚ますことは、ない。
ローは、一枚の幼稚な絵を思い出していた。
***が大切にしていた、あの絵本のワンシーンだった。
***の首筋からカオを離して、死に顔に手を添えた。
親指でまぶたをもうひと撫でしてから、ローはその指で唇に触れた。
「"王子様"なんて……ガラじゃねェけど……」
自分を嘲るように笑うと、ローはそっと目を瞑った。
***、おれはきっと、
……おまえのこと、
淡い光に包まれながら、ローは、***にキスをした。[ 67/68 ][*prev] [next#]
[mokuji]
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