17

 どのくらいそうしていただろうか。


 ほんの数分のような気もするが、もしかしたら実際には数時間だったかもしれない。


 だが、そんなことはもう、ローにも、船員たちにとっても、どうでもよかった。


 ローはずっと、***のカオだけを見ていた。


 死人に対して、よく「眠っているようだ」なんて表現を耳にするが、***の場合は当てはまらない。


 ***は眠っている時、こんなにじっとしていない。足はベッドからはみ出るし、頭は枕から外れる。口元は、いつも幸せそうにゆるんでいた。


 ローは手術台を降りた。心電図の電源を切ると、音が止む。


 ***の身体から器具を外して、最後に酸素マスクも外した。


「跡がついちまったな……」


 頬の上の、酸素マスクのゴムの跡をなぞった。赤くついた線が、痛々しかった。


 投げ出されていた***の手を取った。腕は細いが、本人の力が入っていないから、重みを感じる。


 念のため、脈を取る。どこを探ってもやはり、無音だった。


 ローは小さく息をつくと、脈をみた手を***の腹の上へ置いた。


 そして、***の肩と、膝の裏に手を差し入れると、おもむろに抱きかかえた。


「せ、船長……? どこへ……」


 そのまま手術室を出て行こうとするローへ、シャチは涙声のまま訊いた。


「……約束なんだ」


 そうとだけ言うと、船員たちの沈黙を背に、ローは***の亡骸と二人、船を降りた。





 街は活気づいていた。客を呼び込む声が、方々でする。それは初めてこの街に降り立った時と、まったく同じ光景だった。


 先ほどのあれはなんだったのだろうか。夢か、幻か。


 いずれにしても、今のローにとってはもう、どうでも良かった。


 ***の亡骸を抱えたまま、ローはあの森の方へ向かった。


 ***が行きたがっていた場所は、きっとあそこだったのだろう。そう漠然と確信していた。


「おい、兄ちゃん。その子、大丈夫か? 顔色悪いな」


 ローと、***の姿に目を止めた町人が、心配そうに声をかける。


「そっちには森しかないぞ? 医者なら街の方に……って、おい! 兄ちゃん! 聞こえてねェのかっ? おい!」


 無視をしたわけではないが、ローの耳にも、心にも、その声は届かなかった。


 自分の息遣いと、二人分の体重に踏まれる土の音。


 その二つだけを引き連れて、ローは深い森へ入っていった。





 森の中は真っ暗だったが、ある部分だけがスポットライトのように月に照らされていた。


 ローはそこで立ち止まると、***を地に置いて自分も座った。


 広げた長い脚の間に、***の身体を起こして座らせる。


 生きていたら、こんな体勢、***はカオを真っ赤にするに違いない。


 そんなふうに思って、ローは笑った。


「なんだってんだよ。こんなとこ。ただの薄暗ェ森じゃねェか」


『そう思うでしょ? ところがねー、へへっ、あっ、まだ秘密!」


「大体おまえ、こういう暗ェ場所、苦手だろうが。いい歳して、オバケが出るとか言って」


『そ、そう言われてみればそうだね。すごく暗いね。……あっ、でも』









『ローと一緒だから、怖くないかな』









 ローは、腕の中の***を見た。


 亡骸が話すはずはない。***はやはり、ただ静かに笑っていた。


「……呑気なマヌケヅラだな」


 白い頬に触れて、言った。先ほど触れた時よりもっと、冷たかった。


 ローは、自分の着ていたパーカーを脱ぐと、***の身体をくるんだ。頬は、これ以上冷えないように、手の平で繰り返しさすった。


「明日から、朝飯はどうするかな。ペンギンにばかり任せてたら、毎日パンにしやがるし。洗濯物は……ベポにやらせりゃ、シーツが肉球模様になるし、シャチだと生乾きで取り込むからな。他のヤツも……まァ無理だろうな」


 ***の日常を、一つ一つ思い出していた。


 退屈なくらい穏やかで、ローにとってそれは、当たり前の光景だった。


 なくなるはずがない。そう思っていた。


 ……思っていたのに。


 ふと、何かがローの頬の横を通り過ぎた。


 淡い光が、目の端に映り込む。


 よくよく目を凝らすと、小さな黄色い光が、ふわふわと踊るように飛んでいる。


 気がつけば、森全体を、黄色い小さな点たちが、優しく照らしていた。


 ローは、目を見開いた。


「これは……」










『あ? "ホタル"?』


 初めて耳にするその名称に、ローは難しく眉を寄せた。


『そう、蛍!』


 そう言って***は、ローの目の前にうれしそうに本を広げた。


『これね、虫なんだけど……ほら見て! こんなにキレイに光るの!』

『おまえ、虫キライだろうが』

『で、でもほら、光るんだよ!』

『……おまえ、光りゃあキライなモンでも好きになんのかよ』

『はー、キレイだなァ。見てみたいなァ』


 ローの嫌味にも耳を貸さず、***はうっとりと本を捲った。


『……まァ、確かに興味は湧くな』

『えっ、ほっ、ほんとっ? ローも?』

『ケツの光る虫なんて、そうそういねェだろ』

『そっ、そうだよね! 変だよね! 珍しいよね!』

『……おまえ、何嬉しそうにしてんだよ』

『えっ、いやっ、だって……ほら』

『?』


 本を両腕で大事そうに抱えて、***ははにかむように言った。


『ロ、ローと私の興味がカブるなんて、あんまりないから……』

『……』

『……』

『……』

『やっ、やっぱり今のなしっ』

『今度』

『え?』


 ***の腕から本を抜き取って、ローは続けた。


『二人で見に行くか、これ』

『えっ』

『まァ、停泊した街にいればの話だが』

『うっ、うん、……うん! あっ、じゃ、じゃあ、どこら辺にいるか調べておくね!』


 何度も何度も頷いて、***は弾むように言った。


 そんな***を見て、ローは目を細めた。


『あァ、期待してる』










『ロー! ロー!』

『あ? なんだよ、そんな慌てて』

『あっ、あのさっ、さっきベポに聞いたんだけど、これから行く街って、ほんとにここっ?』


 息を切らしながら、海図のある部分を指差して、***は言った。


『あァ』

『ほっ、ほんとにほんと?』

『しつけェな。なんだってんだよ』

『あ、ご、ごめんね。そっか……そっか!』

『? なんだよ。なんかあんのか』

『あっ、あのねっ、私あれからずっと調べてたんだけどね、実はここにねっ』


 そこまで言うと、***は何かを思い立ったように、突然口を噤んだ。


『? なんだよ』

『……へへっ、まだ内緒!』

『はァ?』

『あっ、あのさ、ロー。ローに一生のお願いがあるんだけど』

『お願い? 珍しいな、おまえがおれに』


 目を丸くしたローに、***は両手の平を額の前で合わせた。


『この街に着いたら、毎日夜9時。私と一緒に行動してくれないかな?』

『はァっ? 毎日?』

『お願いっ! だって本には、いつ現れるか分からないって』

『現れる? 何がだよ』

『い、いやっ、だからそれはっ、そのー……とにかく、お願いしますっ!』

『……』


 ***がローに頼み事をするのは、本当に珍しいことだった。しかも、一生のお願い。


『……分かった』

『えっ』

『夜9時な』

『ほっ、ほんと? ほんとにほんとっ? 美味しいお酒あっても、き、キレイなお姉さんに誘われても、毎日だよっ?』

『しつけェ』

『! あっ、ありがとう! ロー!










約束だよ!』










「……バーカ。こんなの……」


 蛍が一匹、ローの膝に留まった。優しい光が、***のカオをじんわりと照らした。


「ただ、おまえがやけに食いつくから、話に乗ってやっただけだ」


 おれとおまえの興味が、カブるわけねェだろ。


 それを、あんなうれしそうに話して。


 あんな、いつ話したかも思い出せないような小せェこと。


 バカみてェに、けなげに覚えてて……


 ああ、でも、


 おまえは、そういうヤツだったよなァ。


 おれや、仲間と過ごす、一日一日を。


 宝物みてェに、大切にするやつだった。


 ぽたっ、と、***の頬に水が落ちた。


 一粒、二粒と落ちていくうちに、目の前が滲んで***のカオが歪んで見えた。


「っ、ごめん……」


 泣き顔を***に見られないように、***の首筋にカオを埋めた。


 ごめん。ごめんな。***……


 約束、守ってやれなくて、ごめん。


 助けてやれなくて、ごめん。


 もっと、ちゃんと、


「大事にしてやれなくて、っ、ごめん……」


 形あるものは、いつかなくなる。「当たり前」など、この世にはない。


 おにぎりを握っていた時、***はどんなカオをしていたのだろう。洗濯物を干す時、***はよく鼻唄を唄っていた。あの曲は、一体何の曲だったのか。


 もっとちゃんと、見ておくんだった。どんな***も、この目でちゃんと。


 当たり前なんかじゃない。


 ***がいる明日は、奇跡そのものだった。


「っ、***、頼む……目ェ開けてくれよ……」


 固く閉じられたまぶたを、親指でなぞった。


 冷えた身体と頬を、何度も何度も、強くさすった。


 それでも、***が目を覚ますことは、ない。


 ローは、一枚の幼稚な絵を思い出していた。


 ***が大切にしていた、あの絵本のワンシーンだった。


 ***の首筋からカオを離して、死に顔に手を添えた。


 親指でまぶたをもうひと撫でしてから、ローはその指で唇に触れた。


「"王子様"なんて……ガラじゃねェけど……」


 自分を嘲るように笑うと、ローはそっと目を瞑った。


 ***、おれはきっと、


 ……おまえのこと、


 淡い光に包まれながら、ローは、***にキスをした。


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