弱虫は、それしか-Bitter Valentine's day!2012-

 さえずる爽やかな小鳥の鳴き声が耳に届いて、エースは目を覚ました。


 直接肌に触れるシーツが、少し冷たい。


 カーテンから射し込む日の光に、エースは目をしかめた。


「あら、起きた?」


 声のした方へ視線をやると、ふわりと笑い掛ける恋人と目が合う。


「あァ……おはよ」

「ふふっ。おはよう、エース」


 そう言うと、ベッドの縁に座ってエースに、ちゅ、と口付ける。


「出掛けんのか?」

「もう……昨日も言ったでしょう? 今日から海外で撮影なの」


 答えながらエースの首筋に唇を寄せる。


「あァ……そういやそんなこと言ってたな。売れっ子モデルは大変だな」

「ふふっ。まァね」


 ちくちくと、首に感じる小さな痛み。


 長く離れるときは、いつも。浮気防止のつもりらしい。


「エース、帰ってくるまでイイ子にしててね?」

「犬かよ、おれは」


 クスクスと笑う女の唇に、エースは深くキスをする。


「エー、ス……行きたくなくなっちゃうから、ダメ」

「行かなきゃいいだろ」

「ダーメ」


 女はするっとエースの腕から抜け出した。


「すぐ帰ってくるわ」


 そう言いながら、エースの首に散らばった紅い痕に指を這わす。


「浮気しちゃダメよ」

「へいへい」


 ……自分は、してるくせに。


 エースはそんなことを思いながら、心の中で嘲笑した。


「はい、これ」


 そんなことを考えていると、おもむろに女は小さな箱をベッドの上に置いた。


「なんだ? これ……」


 エースはそれを手にとってまじまじと見つめた。


「やだ、今日バレンタインよ?」

「……あ」


 そういえば……。


「モテる男はそんなの眼中にないのかしら? 憎たらしいコ」


 女はラッピングを剥がして、箱からチョコを一粒つまんだ。


 それを自分の口の中へ入れると、そのままエースに口付ける。


 甘い匂いと味が、エースの口に広がった。


「ん……おいしい?」

「あァ……甘ェ」

「エース、いやらしい」

「どっちが」


 笑いながら、女は下着を外し始めた。


「……時間ねェんじゃなかったか?」

「エースがあんなキス、するから」

「ははっ、おれのせいかよ」


 エースは女を引き寄せると、女の首筋にキスをした。


「好きよ、エース……」


 香水とチョコの甘い匂いがした。





 大学一年の夏。エースは、家を出た。


 付き合い始めの恋人から、一緒に住もうと言われたからだ。


 元々エース自身、そろそろ家を出ようと考えていたので、特に迷うこともなかった。


 それを伝えると、ルフィは少し寂しそうなカオをしたが……


 『アイツ』はというと……。


『あ、そうなの? 今までありがとう、エース! さよなら!』


 と、それはそれは爽やかに笑った。


 エースはそれを思い出して、軽く苛立ちを覚えた。


 くそ。誰のせいで、おれが家出たと……。


 浮かれた街中を歩きながら、エースは人知れずため息をついた。


 バレンタインということもあり、街中は恋人たちで溢れている。


 エースは、空を見上げた。


 ちらちらと、冷たい雪がエースの頬を濡らす。


 何してっかな、アイツ。


 もう、何ヵ月も会っていない。


 心の浮気の方が、きっと重いよな……。


 今の恋人が、好きじゃないわけではない。


 綺麗で、柔らかくて、刺激的で。


 ……でも、


 他の男も触れていると分かっても、なんの感情も湧かなかった。


 まァ、そんなもんか。そう思った。


「はァ……」


 ……なんか、あれだ。


 ……会いてェな。


 アイツは、誰かにチョコやんのかな。


 今日は、誰に会うんだろう。


 ……好きな男、できたかな。


 そんなことを考えているだけで、胸がぎゅっとしめつけられる。


 アイツが、他の男に触られてるなんてことがわかったら。


 おれはきっと、相手の男を殺したくなる。


「頭おかしいのか、おれは……」


 そんなことをぼそっと呟いた時だった。


「……エース?」


 その聞き慣れた柔らかい声に、エースの身体がどくっと揺れた。


「***……」

「やっぱり! 久しぶりだね、エース!」


 そう弾むように言うと、***はうれしそうに笑った。


 それを見て、エースの胸が、変な音で泣く。


「あ……あァ、げ、元気だったか?」


 どもっちまってる、おれ。緊張してる。くそ、だせェな。


「うん、元気だよ! ルフィも元気!」

「ははっ、そうか」

「エース……今日一人なの?」


 ふと、***が不安げにそう尋ねた。


「ん? ……あァ」

「も……もしかして、フラれちゃったの?」


 おそるおそる***がそう聞いた。


「おれがフラれるわけねェだろ。海外で撮影なんだと」

「あ、そっかそっか。モデルさんだもんね」


 ***はほっとしたように息をつく。


 ……***はなんとも思わねェんだろうな。


 おれが、どこで誰と何してようが。


「……じゃあな。……おれこれから用あるから」


 これ以上一緒にいたら、離れた意味がなくなる。


 エースは自分のいろんな想いを抑え込むと、***にそう告げた。


「あ、そうなんだ……ごめんね、呼び止めて」

「アホか。んなこと謝んな」


 そう言って笑いながら、エースはぐしゃぐしゃと***の頭をなでた。


「わっ、ちょっ、ちょっとエース……!」


 ……好きだ。


 好きだよ、***。


 おれは、男なんだよ。


 おまえに、触りたくてしかたがない。


 最近、それが我慢できなくなってきて。


 自分が、怖くなって。


 だから、おまえから離れたんだ。


「……じゃあな、***」


 エースはぽんぽんと頭を優しく叩くと、そのまま歩き出した。


「……エース!」


 突然そう呼ばれて、エースは慌てて振り向く。


 すると、***がエースに向かって何かを放った。


 エースは、反射的にそれを掴む。


「……チロルチョコ?」


 手の平に収められたそれは、チロルチョコだった。


「ごめんね、会えると思ったなかったから用意してなくてさ! エース、その味一番好きだよね?」


 ***は困ったように眉を寄せて笑うと、こう続けた。


「ハッピーバレンタイン、エース!」


 じゃあね、と***は手を振って去っていった。


「……」


 ……なんだよこれ。チロルチョコ一個って。なめてんのか、こら。


 ……こんな、こんなもんで。


 再びチロルチョコを見ると、


 確かにそれは、エースが一番好きな味。


 いつ教えたかもわかんねェこと、覚えてたんだな。


「ずりィだろ、こんなん」


 こんなもんでおれは、喜んじまうんだから。


 エースは、それをそっとポケットにしまいこむと、ゆるむ頬を抑えてまた歩き出した。



 弱虫は、それしか















 家に帰ると、***は小さく息をつく。


 バッグの中に手を入れると、忍ばせておいたそれを引っぱり出した。


「……怖じけづいちゃったな」


 かわいくラッピングされたそれをみて、ぽつりと呟くように言った。


 ……まさか、ほんとに会えるなんて。


『***、おれ家出るんだ。最近、付き合い始めたヤツいるって言ったろ? そいつと住むことにした』


 それを思い出して、***は人知れず膝を抱えた。


弱虫は、それしか


 それしか、できなかった。


 ただ、逃げるしか。


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