14
――お頭。できるかぎりのことはしてみませんか?
――ここまできてあきらめる必要は、まだないのではないでしょうか?
――お頭の想いは、船員である私の想いです。お手伝いさせてください。
「……って、いうのは簡単だけどなー」
無人の食堂に情けない弱音が響く。コップに水を注いでいた手は自然と止まっていた。
昨夜の自分の言葉を頭の中で反芻する。ああはいったものの、どうしたらいいかなんて皆目見当もつかない。ひとの心を救うなんて、そんな簡単なことじゃない。ましてや、お頭ほどの人が救えなかった人の心なんて。
だけど、見ていられなかった。あんなにつらそうなお頭のカオは。
――もともと、恋仲じゃないんだ。おれとラナ、もともと恋人同士じゃない。
コップの水面に、お頭とラナちゃんがみつめあっている姿がうかぶ。
お頭の口ぶりから察するに、お頭の気持ちはきっと、恋心ではないのだろう。
じゃあ、ラナちゃんは? 彼女のほうも、恋ではなかったというのだろうか。
自問自答してかぶりを振る。
ラナちゃんのほうはまちがいなく恋だろう。あの瞳にみつめられて恋におちないなんて、到底無理なはなしだ。
自分に置き換えて考えてみる。相手の気持ちは自分にないのに、触れあえたりみつめあえたりしてしまう。地獄だ。想像だけで頭がおかしくなりそう。
あの瞳にみつめられて恋におちないなんて、無理なのに。お頭はご自分の魅力をきちんとわかっておられないようだ。
「ほんと、罪な人……」
「だれのこと?」
はっとして、声のしたほうを見る。
ラナちゃんが、にっこりと笑ってとびらの前に立っていた。
「ラ、ラナちゃん……」
「***さん。また一緒にお酒飲みません?」
唐突にそう提案してボトルをかかげる。まるいフォルムに桜色の液体。ラナちゃんの柔らかそうな頬の色にそっくりだ。
「うん。もちろん」
ラナちゃんから話しかけてくれるなんて、ラッキーだ。まずはどうやってラナちゃんに接触しようか、そのことが第一関門だったのだから。
キッチン棚からグラスを二つ手に取ってテーブルへ向かう。
同じタイミングで、ラナちゃんも席に着いた。
さて、どうやって話を切り出すか――。
「もう……聞いてますよね?」
ラナちゃんがグラスにお酒を注ぎながらいった。
「え?」
「私が次の島で船を下りること」
ひゅっと喉が鳴る。私はなにも答えられなかった。
「その様子だと、私とシャンクスが恋人同士じゃないことも、知ってますよね」
「あの――」
「いいんです」ラナちゃんはにっこりと笑った。「さいごに、***さんに知ってもらえてよかった」
ラナちゃんの手から、差し出されたグラスを受け取る。
ひらひら、ゆらゆら。水面が花びらのようにゆれていた。
「私、***さんのこと、お姉さんみたいって思ってました」
お酒に視線を落としながら、ラナちゃんは語り始めた。
「私、家庭環境があまり、その、……よくなくて」
「……」
「姉妹どころか、友だちもいなかったから」
「……」
「だれにもなにも相談できなくて」
「……」
「ずっとひとりぼっちだったんです」
「……」
「だから、やさしくしてくれたシャンクスに……この船に、あまえきってしまいました」
ラナちゃんは力なく笑った。よくみたら、目の端が赤くにじんでいる。泣いていたのかもしれない。
「だけど、だめですね。このままじゃ」
「ラナちゃん……」
「私、強くならなきゃ。これは、そのための儀式なんです」
ラナちゃんの言葉を受けて、もう一度お酒に視線を落とす。「どうして」と、私の口から音がもれた。
「どうして私を……?」
「え? ああ。私、ずっとお姉ちゃんがほしかったの。だから最後は***さんと――」
「ううん。そうじゃなくて――」私はグラスを持ち上げた。「どうして、私を殺そうとしてるの?」
ラナちゃんの頬がひくつく。一瞬、笑顔が醜く歪んだ気がした。
「……え」
「これ……この匂い、毒が入ってるよね?」
ラナちゃんが下唇を噛む。グラスを持つ細い指に力がこめられた。
「ラナちゃんは、私を殺したら強くなれるの?」
ラナちゃんは深く俯いた。だらんと垂れ下がる栗色の髪。まるで人形のようにぴくりとも動かない。
やがて、ラナちゃんはゆっくりとカオを上げた。
目の前に座っているラナちゃんはもう、私の知っているラナちゃんではなかった。何者かが憑依したみたいに、まったくの別人にみえる。
「そうよ。あんたが死ねば、私は強くなれる」
声も全然違う。地の底を這ってくるような低い声色。
背筋がぞっとした。
「あんたが死ねば、私は救われる! あんたさえいなくなればっ、私は……!」
「わ、私を殺しても、ラナちゃんはもうこの船にはいられない。お頭のそばにはいられないよ」
「うるさいうるさいうるさい! それでもいい! あんたさえこの世からいなくなればっ、私は……!」
叫びながら、床にグラスを叩きつける。
透明だった液体に木くずが侵入して、どんどん濁っていった。
「……それは無理だよ。ラナちゃん」
ラナちゃんがきつく私を睨み上げる。
不思議と恐怖はなかった。
そうか。
最初からこの子、私にしか救えなかったんだ。
「だれよりも私が、ラナちゃんの気持ちよくわかる。だって、同じだから。あなたも私も、あの人のいない海は泳げない。あの人のいない世界では私たち、息もできないの」
それほどまでに私たち、深く恋におちてしまった。
ラナちゃんのカオに絶望が広がる。
ラナちゃんを救いたい。ほかのだれでもない。お頭のために。
だけど、この子はきっと、お頭のいない世界では救われない。
私はグラスを持ち直した。
「仲間殺しは重罪。この船にいるかぎり、あなたと私は仲間だから。あなたが私を殺しても、私があなたを殺しても。お頭はどちらかを必ず……殺さなきゃいけなくなる」
「……え」
ラナちゃんのカオが、慄いてかたまる。
「それは、絶対に、させない」
お頭に、仲間の命を奪わせるようなことは、絶対に。
私はグラスの中の液体をすべて口に入れた。そしてそのまま、ラナちゃんの胸ぐらをつかんでキスをする。
「それを飲むな……! ***!」
乱暴に開かれる食堂のとびら。その愛しい声は切迫していた。
ラナちゃんの喉が嚥下したのを見届けてから、私もいっきにそれを飲み干した。
「***……!」
ひゅっと喉がしまって、呼吸が止まる。目も、脳も、肺も、心臓も、いっきにその機能を失って、私の世界は一瞬で終わった。
お頭。私を叱ってください。
私は、あなたが思う以上に、あなた以外のことなんて、どうでもいいんです。
ラナちゃんの気持ちも、私の気持ちも。
あなたの存在に比べたら、ただのちっぽけな石ころです。
だからどうか、気に病まないでください。
私たちのこのちっぽけな恋心ごと。
海に沈めてやってください。
*
夢をみた。
あたたかな海の底に、どこまでもどこまでも沈んでいく夢を。
際限なく沈んでいったその先にはなにもなくて、ただふんわりと泡玉のようななにかに包みこまれる。
こぽこぽという海の歌に寄り添って、だれかの祈るような声が聞こえてきた。
その声がいまにも泣き出しそうで、痛々しい。
細い糸を手繰るように、わずかな光を頼りに歩いていく。
その光は、赤い色をしていた。
*
「***……。頼む……。目を覚ましてくれ……」
海の歌より近くなるその声。ゆりかごが揺れるような懐かしい感覚。
ザザンという波の音でいっきに覚醒した私は、無意識に右手に力をこめた。
「お、かしら……?」
私の右手は、古傷だらけのごつごつとした手を握りしめていた。腕には点滴の管も見える。
赤い頭が勢いよく跳ね起きて、前髪がはらりと落ちる。真っ赤な双眸と目が合った。
近くで見たお頭は、随分と老けこんでみえた。若い若いと思っていたが、この人もいい年なのだ。老いはだれのもとにも平等にやってくるんだなあと、状況に不似合いなことを思ったりした。
「あれ? 私どうし――」
いい終える前に抱きすくめられる体。
突然の体温と肌の感触に、頭の中が真っ白になる。
鼻先を赤髪がくすぐって、お頭の熱い吐息が耳にかかる。
私はついにパニックになった。
「おおおおお頭っ。これはっ、あのっ、そのっ、だめっ」
「よかった……! ***……!」
私の体に縋るように、めいっぱい右腕に力をこめる。
いつもはみずみずしい青年のような声が、しわしわにしゃがれてしまっていた。
「ごめん、なさい」
私、間違えてしまった。お頭をこんなに疲弊させてしまうなんて。
右腕の力が弱まって、体温が離れていく。
至近距離で目が合うと、なんとなくそのままみつめあってしまった。
「よそでやってくれる」
その声に、弾かれたように離れる二つの体。
声のしたほうを見ると、ラナちゃんがとなりのベッドから冷ややかな視線を送っていた。
「ラ、ラナちゃん……」
「もう、ほんと……ばかみたい。死にかけて、いっきに冷めたわ」
そういうと、身をよじって私とお頭に背を向けた。
「さっさと出てってくれる。次の島まで、一人でゆっくり眠りたいの」
お頭と私は同時にカオを見合わせた。アイコンタクトをして、同時に体を動かす。私がベッドから起き上がると、お頭は点滴を引きながら体を支えてくれた。
部屋を出るとき、もう一度ラナちゃんのほうを見た。
細い肩は、小さく震えていた。[ 16/20 ][*prev] [next#]
[mokuji]
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