13

 ママに頬をぶたれるとき、いつも真っ先に心配するのは、耳が無事かどうかだった。


 ママの平手打ちは、それほどに力が強い。ぶたれてすぐは、いつも音が聞こえにくくなった。


『まーたママの男をたぶらかしたねっ? この淫乱がっ』


 自分もインランなくせに、ママは私がインランなことは許せない。新しいパパが喜ぶと、ママがいつもうれしそうにするから、私も新しいパパを喜ばせてあげたのに、ママはそれを知るとなぜか怒り狂った。


 だけど、私が成長するにつれて、ママは優しくなった。今まで男に出していた猫なで声を、私にも出す。


『ラナちゃん。ママの喜ぶカオが好きよねェ?』


 そう言って、甘いホットケーキを焼いてくれる日の夜はいつも、男が待つ部屋へ連れていかれる。そして、男たちは決まって私の体を傷つけてきた。


 初めて二の腕を切られたときは、怖くて怖くて、命からがらママの元へ逃げ帰ってきた。けれど、ママは鬼の形相で私を叱りつけて、髪の毛を引っ張って私を部屋へ連れ戻した。


 私は、体を切り刻まれることよりママが怒ることのほうがずっとずっと怖かったから、その夜は何をされても黙って身を固くした。


 朝、男に渡されたお金を握りしめて血だらけで帰宅すると、ママはにっこりと笑って言った。ラナちゃん、いい子ねェ。さすがママの子ねェ。


 私は、ママの笑顔が大好きだった。





「こんな趣味の女、ほんとにいるんだなァ。たまんねェなァ」


 生臭い吐息が肌にかかって、ラナは回想をやめた。しとしとと降りしきる冷たい雨が、男に殴られた頬を冷やしていく。


 草と土が濡れた、青臭い匂い。それが、はるか昔に母と花摘みをした記憶を呼び起こさせた。


 花畑で笑っている母のカオが、みるみるうちに般若みたいな怒り顔に変わる。


 ラナは、震える声で男に懇願した。


「そんなんじゃだめ……。もっと痛めつけて。そんなんじゃ濡れない」


 ラナの言葉通り、繋がったところがみるみるうちに乾いていく。


 男は腰の動きを止めると、草むらに置いたままだったナイフに手を伸ばした。それを引き抜いて、むき出しになった白い腹を浅く裂く。


「あー、締まる。ひひ、濡れてきてるぞ。この変態がっ」


 おまえも変態だろうが。


 心の中で毒づきながらも、達しそうになるのを止められない。ラナは嬌声をあげた。


「あー、出る出る。もう出すぞっ」


 あー、イクイク。イッちゃう。ママの言うとおりにして、今日も気持ちよくなっちゃう。これで今夜も、夢の中でママが笑ってくれる。ぐっすり眠れる。


 絶頂に達しそうになった、まさにそのとき。


「盛り上がってるところ悪いが、そこまでにしてもらおう」


 地を這うような低い声。腰を振っていた男の動きは、首筋にあてがわれた切っ先の冷たさを感じて、ぴたりと止まった。


 獣かと見紛うほどの、赤い瞳。それに見下ろされて、男の熱は一気に引いたようだった。


 達する前に引き抜かれるそれ。男は下半身をむき出しにしたまま、悲鳴をあげて走り去っていった。


 心の中で舌打ちがこぼれる。私はその男を睨みつけた。


 二メートルは優に越えそうな、長身の男。黒いマントを羽織っていて、カオは見えない。


 男は、小さく息をつくと、剣をしまって膝をついた。


「立てるか?」


 差し出された大きな手を振り払う。


 男はきょとんとした後、ああ、とつぶやいて頭をかいた。


「いや、すまん。そうだよな。あんな目に遭って、男の肌になんて触れたくないよな。悪かっ――」

「そうじゃない」


 的外れな詫びを遮ると、立ち上がって服についた汚れを払う。


「もう少しでイケそうだったのに、どうしてくれんの」

「……は?」

「ああいう趣味の男、意外といないんだからねっ」


 男はぽかんとした。ひげを蓄えた口元が、だらしなく開いている。


「えーっと……つまりおれは、邪魔をしたってことか?」

「そう。邪魔。思いっきり、邪魔っ」

「いや、だって……おまえ、それ……」


 男は、血の滲んだスリップに目をやった。どうやら、私が犯されていると思ったらしい。無理もないけれど、達する寸前に横やりを入れられて、私はひどく気分を害した。これじゃあ、眠れない。ママも笑ってくれない。


 私は男の手を取った。そして、スリップの中へ誘導する。武骨な太い指を無理やりそこへ這わせると、くちゃりと小さく音が鳴った。


「ねェ。もう濡れてるから、いれて?」

「……」

「首絞めるくらいは抵抗ないでしょ?」


 今ならそれだけでもイケそう。ラナは、男にキスをした。


 けれど、舌を入れても胸を押し付けても、男はぴくりとも反応しない。文字どおり、あれもまったく反応しないのだ。


 ラナは唇を離すと、思いきり舌打ちをした。


「つまんない男……。二度と私の前に現れんなっ」


 叫びながら、男の大きな体を突き飛ばす。


 筋肉質な体はよろめきもしなかったが、代わりに脱げかけていたフードが男の頭から落ちた。


 隠れていた髪とカオが、月明かりに照らされる。


 ラナは、大きく息をのんだ。


「あっ、赤髪の、シャンクスっ……!」


 震える声で、男の通り名を呼ぶ。


 赤髪のシャンクス。この大海賊時代に、彼のことを知らぬ者などいない。海軍ですら一目置く、四皇のうちのひとりだ。


 さすがに体が震える。とんでもない相手に喧嘩を吹っかけてしまった。殺されるのか、はたまた売り飛ばされるのか。あの頃と同じ終わらぬ地獄が待っているのなら、いっそのこと、殺してほしかった。


 すると、赤髪のシャンクスはおもむろに草むらに手を伸ばした。そして、落ちていた小汚い袋を拾うと、中身を手のひらに出す。


「ひい、ふう、みい……おおっ、結構あるじゃねェか」


 それは、さっきの男が落としていった小金だった。それを指で弾くと、彼は言った。


「つまんない男かどうか、もうちょっとつき合えよ」


 初めて見るその笑顔は、子どものようにかわいらしかった。





「ほう。母親の影響で、ねェ……」


 そうつぶやく彼の目の周りは、赤くなり始めていた。四皇と称されるくらいだから酒にもめっぽう強いんだろうと勝手に思っていたが、彼は意外にもごくごくふつうに酒を嗜んだ。


「ママの影響ではあるんだろうけど、すべてがママのせいだとは思わない。すべてを親のせいにするほど、私も子どもじゃない。私にはもともと、そういう素質が備わってたんだと思う」


 くらくらと回る酔いに任せて、私はすべてを打ち明けた。


 いや、違う。きっと、お酒のせいなんかじゃない。この、赤髪のシャンクスという、海よりも広い器が、そうさせた。


 まァ、いい。どうせもう、二度と会えやしない。


 目の前で猪口を傾ける男をみつめる。


 さすがに、いい男だ。粗雑さの中に、品がある。こういう男を、上等な男というのだろう。一朝一夕で備わるようなオーラじゃない。


 こんな男、きっともう、二度と私の目の前に現れない。


「私を抱いてよ。赤髪のシャンクス」


 そう言っても、目の前の百戦錬磨の男は顔色一つ変えない。ひげを蓄えた口元で、弧を描くだけだ。


「もっと自分を大切にしろ」

「つまんないこと言わないで」

「惚れた男に抱かれてみろ」

「あなたに惚れたわ」

「おれは、おれのことを好きな女は抱かない」

「はァ? なぜ」


 すると、百戦錬磨であるはずの男は、少年のように青臭いカオをした。


「惚れている女がいる」

「……」

「だから、本気の女は相手にしない」

「……気持ちに応えられないから?」

「あァ」


 相手の女のことを考えているのだろう。彼は、ひどく穏やかなカオをした。


「……やっぱり、つまんない男」

「だっはっは! そうか!」

「だから、やっぱり抱いて」


 そう言うと、今度は少し、目をまるくする。


 その表情がうれしくて、私は嘘をついた。


「つまんない男になんか、惚れないわ」

「……」

「あなたの言う、自分を大切にした抱かれ方っていうのを教えてほしいだけ」


 きっと、恐ろしいことになる。抱かれたらきっと、戻れない。深い深い海の底に、沈んでいくだけ。


「私を抱いてよ。赤髪のシャンクス」





 シャンクスの腕の中は、思っていた以上に退屈だった。


 けれど、ひどく穏やかで、優しい。まるで、暖かい海の中に漂っているようだ。


「っ……あっ」

「またか?」

「う、んっ」

「いいよ」

「――! ああっ」


 海の中で、私は何度も果てた。今まで悦ばせることしかしてこなかったから、悦ばされることを知らなかった。


 赤い髪に手を伸ばす。私は懇願した。


「名前を呼んで……おねがい」


 ラナ。


 その響きは、この世で一番美しい音に聞こえた。彼の音で紡がれるだけで、世界はこんなにも美しい。私は、私を知らなかった。


 私、恋ができたんだ。ふつうの女の子みたいな、恋が。


「シャンクス……」


 彼の胸にしがみついて、私は言った。


「これからも、好きになったりしないから……私を船に置いて。行くところがないの。おねがい……」


 シャンクスは、私の額に了承のキスを落とした。





 ――次の島で、船を降りてくれ。


 冷たい声が鼓膜に響いて、ラナははっと目を覚ました。いつのまに眠ってしまっていたのだろう。船長室の小窓から見える空は、真っ暗だった。


 ベッドの上で膝を抱える。波の音に包まれると、まるで一人ぼっちで海に放り出された気分になった。


 気分、じゃない。本当に、放り出されるんだ。私は。


 どうしようもなく不安になって、この先の未来にシャンクスがいないことが信じられなくて、私は暴れた。声にならない声が、夜の闇に吸収されていく。


「あいつさえいなければ……」


 私の中の誰かが、口の中でそう呻く。


「あの女……あの女さえいなければ、シャンクスはきっと、私のことをみてくれる。そうだ。あの女がいるから、私は追い出されるんだ。あの女のせいだ。あのあのあのあの!」


 ラナちゃん。ママの喜ぶカオが好きよねェ?


「ママも、私の喜ぶカオが好きだよね……?」


 まぶたの裏のママが、にたあっと笑う。


 あの女を殺そう。


 私は、船長室を出た。


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