10
ベッドが大きく軋んで、二人は同時に果てた。
乱れた息を整えながら、シャンクスはラナを見る。
荒い呼吸で揺れる胸の上に汗が浮いて、全身の毛細血管は沸騰したように赤い。涙が滲んだ目は、視点が定まっていなかった。
「大丈夫か?」
ピンク色の頬に手を添えて訊くと、ラナはようやくシャンクスを見た。
ラナがにっこりと笑って頷くと、シャンクスは安堵したように笑い返した。
「すまん。腹に出しちまった」
タオルを取ろうと、シャンクスはベッドから出ようとした。
ラナが、シャンクスの右腕を掴んでその動きを止めた。
「シャンクス……もう一回」
その言葉に、シャンクスはさすがに驚いた。もうすでに、今晩三度目の交わりだったからだ。
「何言ってんだ。身体がおかしくなるぞ」
「……大丈夫だもん」
「……」
シャンクスは、四時を指している時計と、窓から白み始めている空を見た。
「今日はもうおしまいだ。寝ろ」
困ったように笑って、自分の右腕を掴んでいる細い手を取る。そして、その指にそっとキスをした。
不満そうなラナをそのままに、シャンクスはようやくベッドを出た。タオルを手にすると、ベッドの縁に座り、ラナの身体を丁寧に拭いてやった。
「ふふっ、くすぐったい」
「ほら、動くな。こぼれる」
「いっぱい出た?」
「あァ、お陰様で」
そう言うと、ラナは楽しそうに声を上げて笑った。素直に笑うと、ラナは年相応に見える。愛しくなって、シャンクスはおでこにキスをした。
クリーム色の髪をひと撫でして、シャンクスはベッドから立ち上がった。窓際に置いてある戸棚から、焼酎の瓶とグラスを取り出した。
「しかし、元気だな。おまえは」
年齢のせいだろうかと、シャンクスは焼酎をグラスに注ぎながら思った。歳の割には、自分も精力的な方だとは思うが。
「性欲が強いの。今」
ベッドの上で髪を梳かしながら、ラナは言った。
「女って多分、生理前に性欲が増すのよね」
「へェ。そうなのか?」
「不思議でしょ」
「あァ。神秘的だな」
本当に、心からそう思った。月経、出産、胸の膨らみ。男にはないすべてが、男である自分からすれば神秘に思える。
「だからって、他の男と寝るなよ」
念のため、そう釘を刺した。
まだ、"前回"の傷が治っていない。跡が残るとかわいそうだと、そう思って言った。
櫛を動かしていた手をぴたりと止めて、ラナはシャンクスを見た。
「……それって、ヤキモチ?」
「ん? ……あァ」
「……ウソつき」
「……」
気まずくなって、シャンクスは焼酎を一気に飲み干した。
中身を空にして、再び焼酎の瓶を掴んだ時だった。
「***さんにだって、あるよ」
突然のその名前に、グラスに瓶を傾けた形のまま、シャンクスの動きは止まった。
「生理も、性欲も」
「……」
「***さんにだって、あるよ」
「……」
「***さんがここに来て、7年……だっけ?」
「……」
「そんなに長い期間、男に抱かれてないなんて」
「……」
「まさかそんなこと」
「……」
「絶対にあるわけ」
その続きを遮ったのは、銃弾のような大きな音だった。シャンクスは、酒瓶を叩きつけるようにテーブルに置いた。置いてしまった。
ほぼ無意識だった。ラナよりも、当の本人がその音の大きさに驚いたくらいだ。
「……悪い」
「……」
「……」
「……なにそれ」
「……」
「まさか……本気で怒ってるの?」
「……」
「そんなことで……」
「……」
「子どもみたい」
「……」
シャンクスは、大きく息をつくと、服を拾い上げてそれを着た。
「寝てろよ」
俯いたラナの頭に手を置いて、シャンクスは部屋を出た。
*
軽くシャワーを浴びてから、シャンクスは甲板へ向かった。潮の匂いを嗅ぎたくなったのだ。
すでに起きている船員がちらほらといて、自分を見て目を丸くする。こんなに早い時間に船内を歩くのは、確かにめずらしいかもしれない。早朝の海も久しぶりだ。
甲板へ続く扉を引くと、甲板に一つ、人影があった。
その横顔を見て、シャンクスの息が止まる。
***だった。
***は、ぼんやりと海の方を見ていた。寝癖の残る細い髪が、潮風に吹かれて旗のようになびいている。
いつもの、きちんとした動きやすい服装ではないようだ。厚めのニットの下は、どうやら部屋着のようだった。
ニットの袖口から出ている手には、マグカップが握られている。漂ってくる香りと湯気で、その中身がホットコーヒーだと知る。暖をとるように、両手でそれを包み込んでいた。
見惚れていることに気がつくと、シャンクスは扉を閉めて去ろうとした。心の準備が皆無だったので、暴れ始めた鼓動が落ち着かない。
それに、ラナとのあれこれが、さっきの今だ。***とは、二人きりで会わない方がいいような気もした。
しかし……。
シャンクスは、閉めた扉を、もう一度開けた。自分でも何をしているんだと、本当にあきれ返る。扉の前でコソコソしているデカい図体を、通りかかった船員が訝しげに見て行った。
***が、自分の気配に気付いている様子はない。ひたすら海を見ながら、マグカップを口に運んでいた。
「……」
しばらく思い悩んでから、大きく深呼吸をして、シャンクスは甲板へ足を踏み入れた。
小さな咳払いの後、「おはよう」と声をかける。
思いきり肩を跳ね上げて、***はシャンクスを見た。
「びっ……!」
「……」
「くり、しました……」
「そ、そうか」
「すみません……」
「いや……こちらこそ」
「おはよう、ございます……」
「……おはよう」
「……」
「……」
***は、未だにまじまじとシャンクスを見ていた。信じられないものを見ている、という顔だ。
しかし、はっと我に返ると、慌てて顔を逸らした。そしてなぜかもう一度「おはようございます」と言った。
「早いんだな」
「は、はい。今日は、たまたま……」
「……眠れなかったのか?」
「あ、いえ。早く寝すぎて、目が覚めてしまって」
「なんだ、そうか。ならいいんだ」
ゆっくり休めているなら良い。
そう思って、シャンクスは細めた目を***へ向けた。
シャンクスと目が合うと、***は慌てて目を逸らした。心なしか、カオが赤らんでいるように見える。
水平線を見ると、大きな朝焼けが顔を出し始めていて、海が赤く染まっている。
なるほど。そのせいか。熱でもあるのだろうかと心配になった気持ちが消えた。
「あ、お」
「ん?」
「お、お頭も、今日は早いんですね」
「ああ、まァ……たまには、朝の海でも拝もうと思ってな」
「なるほど……」
「あァ」
「朝の海も、いいですよね」
「そうだな。いいもんだ」
「……」
「……」
沈黙に気まずくなったのか、***はマグカップに口をつけた。この冷たい潮風で冷めてしまったのか、湯気はもう立っていない。
シャンクスは、***に気付かれないよう、気配を押し殺して、目だけで***を見下ろした。
自分の背が高いから、この位置から見えるのは、***の頭頂部と伏せられたまつ毛、それから胸元くらいだ。カオ全体は、なかなか見られない。
***の着ているカットソーの襟ぐりが広くて、視線が思わず胸元に行く。いや、襟ぐりが広くなかろうが、女の胸元に目が行くのは男のサガだ。
しかしそれが、本気で惚れている女が相手だと、罪悪感も沸く。
シャンクスは、名残惜しくも、そっとその膨らみから目を逸らした。
『***さんにだって、あるよ』
先ほどのラナの言葉が、耳の奥に蘇る。
『生理も、性欲も。***さんにだって、あるよ』
『そんな長い期間、男に抱かれてないなんて。まさかそんなこと、絶対にあるわけ――』
その続きはなかったが、シャンクスはその声をかき消すように頭を振った。
***がこの船に来て、7年。
***がこの船の誰かと恋仲になったと噂で聞いたり、実際に男と触れ合っているところを見たりしたことは、今まで一度もなかった。
けれどそれは、自分が知らないだけかもしれない。実際、***の姿を見かけない日があることもザラにある。
自分の目が行き届かない時、***がどこで何をしているか。知る由もないし、権利もない。
その間、男に抱かれていたとしても、なんら不思議ではないのだ。
シャンクスは、再び***を見た。まばたくまつ毛と、マグカップに口付ける唇を見つめた。
この目に見つめられて、この唇に触れて。
この胸にカオを埋めることを許されている男が、いる。
そして自分は、それを許される存在として、最も遠い男に違いないのだ。
全身の神経と血が、真っ黒になって駆け巡るのが分かる。
この醜い獣のような感情をなんと呼ぶか、シャンクスは知っていた。
『嫉妬』
シャンクスはもう何年も、見も知らぬ男の影に、この感情を抱いている。
『男に抱かれてないなんて、まさかそんなこと、絶対にあるわけ――ない』
それを一番分かっているのは、他ならぬ自分自身だ。
自分がもし、それを許されている男だったら。
おれは、この女をほうっておかない。
「わっ、ぷ」
突然、***が変な声を出した。
潮風が急に方向転換して、***の髪が予期せぬ動きで舞う。
髪がカオに覆い被さって、***はしかめっ面を作った。髪が目にかかっているからか、なかなか思うように髪をはらえない。
ほぼ無意識に、シャンクスは***の髪に手を伸ばした。
カオに被さっている髪を、ひと束ひと束、丁寧に取り除く。最後のひと房を掴むと、指で梳かすように絡めて、後ろへ流してやった。
***の全身の動きは、石のように固まっていた。
「……」
「……」
「取れたぞ」
「あっ、はっ、はいっ」
「……」
「あっ、ありっ、ありがとう、ございます」
「……あァ」
「……」
「……」
なんだ? この動揺の仕方は。いつも冷静なのに。めずらしい。
もしかして、触れられるのが嫌だったのか?
人知れずショックを受けていると、***が突然、ぱっとカオを上げて「白髪っ」と言った。
「……は?」
「いやっ、あのっ……白髪、ありますかっ?」
「白髪? おまえにか?」
「あ、いえっ、私はあるんです」
「そうなのか?」
下心無しに興味が湧いて、***の頭をまじまじと見れば、***は「あっ、ダメですっ」とかかわいいことを言って、かわいく身をよじった。
「この前、初めて白髪を見つけて、ちょっとショックで……」
「だっはっは! そんなもん、歳取りゃ誰でも出るだろ」
「……お頭も、やっぱりあるんですか?」
「……へ?」
そう問われて、改めて考える。おれ、白髪なんてあんのか?
「そういや、わっかんねェな。鏡あんまり見ねェし」
「み、見ないんですか……」
「自分じゃ見えねェしなァ」
言いながら、頭を前にもたげてみた。けれど、前髪が少し視界に入るくらいで、白髪の有無までは確認ができない。
ましてや今は、朝焼けの赤と同化して、地毛の確認すら難しい。
ふと、カオの真横に気配を感じた。
髪の隙間から横目で見れば、***が食い入るように自分の髪を見ていた。
思わず、息が止まった。
「ほんとだ……ない」
「……」
「ないです。白髪」
「……」
「すごい。私より年上なのに。不思議ですね」
「……」
「さすが、赤髪海賊団の」
そこでようやく、二人の目が合った。
その距離のあまりの近さに、思考も心の中も無になって、時が止まる。
***も、魂を抜かれたみたいに、無色になった。
「……***」
無意識に、愛しい名前が、口をついて出る。
その瞬間、***が素早く身を引いた。
「すっ、すみません……!」
背伸びをしていたらしい。頭一個分、***は遠ざかって、ついでに一歩後退りをした。
「つい、気になってしまって……」
「……」
「じろじろ見たりして、すみません……」
「……いや、かまわん」
「……」
「……」
「私ったら、ほんと……」
ただでさえ小さな身体をさらに縮こませて、***は何度も詫びた。
好きな女に謝られるのは、なんとも居心地が悪い。
シャンクスは、無理やり口元に笑みを浮かべた。
「おれに白髪が出来たら、団名を変えにゃならんな」
「……白髪海賊団」
「……」
「……」
二人で同時に吹き出した。
なんだそりゃ。年寄りばっかりいそうだ。
朝焼けが、完全にカオを出した。
***が、「あっ」と声を上げた。
「そろそろ、朝食の準備しなきゃ……」
「……もうそんな時間か」
「はい。――あの」
黒目を左右に揺らしてから、***はシャンクスを上目遣いに見て「楽しかったです」と言った。
「……あァ、おれも」
そう応えると、***はうれしそうにはにかんで、一礼して去って行った。
その背中を見送って、シャンクスは大きく息を吐いた。
「……あぶねェ」
右手で覆った口から、心の声がもれる。
『***。――愛してる』
そう言ってしまいそうだった。
***の動きがあと一秒遅かったら、きっと口走ってしまっていた。
「やはり、二人きりはまずい。二人きりは……」
うわ言のように繰り返しながら、シャンクスはふらふらと甲板をあとにした。[ 11/20 ][*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]