08

 落ち着け。落ち着くんだ。精神を統一しろ。こんなことで心を乱してどうする。


 おまえは四皇だぞ。一船の船長だぞ。


 こんなことで。こん、な……


 シャンクスは、ちらりと右斜めに目をやった。


 浴室から漏れてくる、湿った白い雲。叩きつけられる、水の音。


 そして、時折その奥でゆらゆらと揺らめく、女の肉体の影。


 シャンクスは大きく頭を振って、再び地面に目を戻した。


 ダメだ。全っ然ダメだ。どう心を律しようとしてもダメだ。


 あァ、認めてやる。おれは動揺している。どうだ、これでいいだろう。


 視覚も聴覚も嗅覚も、すべてがその現状に狂わされて、シャンクスは正気を失いかけていた。


 ひょんなことから、***と一夜を共にすることとなった。なってしまった。


 いや、惚れた女とこんな状況に置かれれば、ここは喜び狂うところだろう。頭が空っぽだったガキの頃だったら、きっとこんなおいしい状況を多いに利用していたに違いない。


 しかし困ったことに、おれはガキじゃない。大人だ。いい大人だ。


 思うがまま行動を起こして、手に入るものばかりではないことを知っている。


 大切なものを失うという可能性も、大いにあるのだ。


 だから落ち着け。気をしっかり持て。


「……頼むから落ち着いてくれ!」


 誰にでもない。自分に向けてそう叫ぶと、シャンクスは座っていたダブルベッドに倒れ込んだ。


 かれこれ六回目となる葛藤が終わった。


 相変わらず、耳にはシャワーの水がぴちゃぴちゃと弾かれる音が届いている。


 エロい。なんかエロい。


「……こんな状況で落ち着けるかよ」


 ***がシャワー浴びてんだぞ。真っ裸なんだぞ。あのドア開けたら、***の裸があるんだぞ。


 今夜は、このベッドで***と二人きりで眠るんだぞ。


 ***と、二人きり……


シャンクスはむくりと身体を起こすと、ダブルベッドをまじまじと見つめた。


「おれはどっちがいいかな。やっぱり壁際か?***が壁際じゃ窮屈だろうしな。いやしかし待てよ。***がベッドからおっこちてもアレだしな。そもそも二人で眠れるか? このスペースで。いや、まァ***と密着すればいけるか……」


 ***と、密着…


 そこまで考えると、ふとシャンクスはベッドサイドに目をやった。


 ひっそりと存在感を放つティッシュ箱。


 シャンクスはそれに近付くと、その中身に手を突っ込んだ。


 よしよし。ちゃんとあるな。大丈夫、大丈


「……夫じゃねェ!」


 そう自らにツッコミをいれると、シャンクスは柱に思いきり頭を打ちつけた。


 何やってんだおれは。何をティッシュの量を確かめてんだ。バカなのかおまえは。そうか。バカなんだな。


 いい大人だなんて、とんだ思いこみだ。やってること、童貞のガキと変わらねェじゃねェか。


「はァ……」


 大きく息を吐き出したところで、キィと小さくドアが開けられる音がした。


「お頭、お待たせしましたっ」

「あ、あァ、上がったか」

「はい、お先にすみませんでした」


 そう言って小さく下げた頭から、水滴がぽたぽたと地面に落ちた。


 頬はピンクに上気して、唇はわずかに紅い。


 慌てて出たからか、拭き取りきれていない水の球が、***の首筋を何粒か伝っていた。


「お頭、さっき誰かと話してましたか? なんだか声が、……お、お頭?」

「あ、あァ。いや、その、なんだ。あァ、さっきのはアレだ。その、……窓の外に人がいてな!」

「ええっ? こんな時にですかっ?」

「こんな時? ……あ」


 窓に目を向けて、初めてシャンクスは思い出した。二人がどうして今日、船に帰れなくなったかを。


 氷の塊は、未だ地を叩きつけていた。


「いっ、いやっ、だからあれだ! 危ねェからさっさと家に戻れって、そう言ってな! だっはっは……」

「そうだったんですか。確かに危ないですもんね。地元の人じゃなかったんでしょうね」


 まったく疑う素振りもなく、***はにこりと笑ってそう受け答えた。



「お頭、お風呂入ってきてください。私、宿の方にお酒とおつまみを頂いてきますね」

「あ、あァ。悪いな。気をつけてな」

「はい。ごゆっくり」


 そうシャンクスに声をかけてから一礼すると、***はドアを開けて出て行った。


 しばらくぼんやりとそこに立ち尽くしていたが、はっと我に返ると、シャンクスはタオルを持って浴室へと向かった。


 中に入ると、さっき嗅いだ***のシャンプーの匂いが充満していて、シャンクスはくらくらと目を回した。





 風呂から上がると、***はすでに戻ってきていた。


 小さなサイドテーブルに酒と氷、そして何種類かのつまみを広げているところだった。


「あっ、お頭。ええと……」


 風呂から上がった船長を迎える言葉が見当たらなかったのだろう。


 ***は数秒おいてから小さく、「おかえりなさい」と言った。


 自分でもおかしいと思ったのか、***は恥ずかしそうにカオを逸らして、またいそいそとテーブルセッティングを始めた。


 心なしか、***も緊張しているようだ。


「ビールと、あと焼酎がありました。イーストブルーのお酒みたいです」

「おお、悪いな。いや、上等だ」


 テーブルの上に広がった品々を見て、シャンクスは喜びの声を上げた。


 シャンクスは、サイドテーブル近くのベットサイドに座った。***は、備え付けの小さなソファに座っている。


 シャンクスがグラスを手にすると、***はすかさずビール瓶を手にした。


 さすが船員の鑑だ。他のヤツらに見倣わせたい。


「……一緒に飲まないか?」

「え? いやっ、私は」

「少しで構わねェよ。一人じゃ寂しいからな。付き合ってくれるとうれしい」


 シャンクスがそう言うと、***は幾分か戸惑いの表情を浮かべてから、小さく「じゃあいただきます」と笑って、自分のグラスを手にした。


 シャンクスがビール瓶を持つと、***は慌てたように手を振った。


「あっ、私は自分で」

「おいおい、さっきの船長命令を忘れたのか? 今日、おれに気を遣うのはなしだ」


 「船長命令」という言葉を聞いて、***はぐっと押し黙った。


 やがてビールがグラス一杯に注がれると、二人はその端と端を軽く合わせた。


「いやァ、今日は歩いたな」

「そうですね。人も明るくて、楽しい街でしたね」

「あァ、そうだな」

「……」

「……」


 沈黙を破るようにグラスを勢いよく傾けて、その中身を半分以下にした。


 口元を拭いながら横目で***を見れば、***もまったく同じ動きをしていた。


「ふ、船は大丈夫でしょうか」

「ん? あァ、大丈夫だろ。今日はベンが片付けたいことがあるとかでめずらしく船番してるからな」

「あ、そうなんですか。なら安心ですね……」

「あァ」

「……」

「……」

「ラ」

「ん?」

「あ、ラ、……ラナちゃんも大丈夫でしょうか」

「ラナ? アイツは外には出てないだろうから大丈夫だろ」

「い、いや、そうではなくて」

「?」


 もごもごと言いにくそうに口を動かしてから、***は言った。


「お、お頭が船に戻られなかったら、変に思うんではないかと思いまして……」

「……あァ、まァ、そうか」

「し、しかも私と出かけてることも知っているわけですし……」

「? それが何か問題か?」

「い、いや、だから、その、……恋人が他の女と出かけたきり帰らないとなると、不安になるのではと」

「……あァ」


 なるほど。そういうことか。


 シャンクスは答えに困窮して、思わずヒゲをさすった。


 ***は、いや、クルーたちはみな、自分とラナの関係を、恋人同士だと思っている。していることはそれに等しいわけだから、まァ無理もない。


 その関係に、少々やっかいな事情があるということは、船ではベンしか知らない。いや、もしかしたらヤソップあたりは勘がいいから気付いているかもしれないが。


「い、いやっ、あのっ、お頭と私が、そのっ、何か、……変なことになるとかっていうのは微塵にも思ってないんですがっ」

「ん? あ、あァ……」

「相手が誰であっても、その、……女性はそういうの、イヤだと思うので……」


 慌てたように話し終えると、***はビール瓶を鷲掴みして自分のグラスになみなみと注いだ。


 いつのまにか中身を空にしていたようだ。***にしてはめずらしいペースの早さだ。


『ラナは、恋人ではない』


 ***にそう打ち明けてしまおうかと、シャンクスはしばらくの間、思案した。


 ラナの精神的な弱さや事情を話せば、***の協力も得られるかもしれない。


 しれない、が。


 シャンクスは、***を見た。


 ***はというと、シャンクスが生み出している沈黙が気まずいのか、ひっきりなしにグラスに口をつけている。


 ***に打ち明けたということをラナが知ったら、ラナの女としてのプライドが引き裂かれる。


 ラナは、シャンクスが***に惚れていることを知っているのだ。


 それに、『惚れている女に、他に恋人がいると思われたくない』


 ラナのためではない、自分本位な下心がまったくないわけではない。


 やはり***にだけは言うべきではないと、シャンクスはそう思い直した。


 これは、ラナとおれの問題だ。***を巻き込むべきではない。


「いやァ、まァ。確かにそれはあるなァ」


 シャンクスはようやく声を発した。


「いや、悪ィ。明日帰ったら、どうラナの機嫌を直してやろうと考えていてな」

「あ、あァ! そうだったんですか! あはは……」

「困ったなァ。なんか好きそうな菓子でも買って行ってやるか。悪いが、明日一緒に選んでくれ」

「はっ、はい! もちろんです! ……あっ、どうぞ!」

「ん? あァ、ありがとう」


 シャンクスのグラスの中身が空になる前に、***はビール瓶を構えた。


 注がれていく月色の液体を見つめながら、シャンクスは言った。


「いや、しつこいようだが、***には本当に感謝してるんだ」

「はい?」


 サイドテーブルに瓶を置く体勢を取りながら、***はまるくした目を向けてきた。


「ラナのことだよ。いつも***には気にかけてもらって、感謝してる」

「あ、いえ。そんな……」

「おれもこんな性格だからな。なかなかベンやおまえのように、細やかな気配りがどうも及ばなくてな」

「そんなことはない、と思いますが……」

「おまえはおれを買い被りすぎだ。そこまでできた人間じゃねェよ、おれは」


 シャンクスは眉をハの字にして笑うと、***はどう答えていいのかと、困惑した表情を見せた。


「だから、出来る限りでいいんだ。話を聞いてやってほしい」

「……」

「おれができないときは、そばにいてやってほしい」


 シャンクスは***の目をまっすぐに見つめて、言った。


「おれは、おまえを信頼している」

「……」

「もちろん、他のヤツらもしてるがな。まァ、あれだ。特別に、ってことだ」

「……」


 ***はなぜか、数秒俯いた。


 シャンクスはその異変に気付いて、声をかけようと口を開きかけた。


 ***がカオを上げるのが、それより一歩早かった。


「……ありがとうございます。とても光栄です」

「あ、あァ、いや、そうか」

「はい」

「……」

「……」


 会話が途切れた隙に、シャンクスはグラスに口をつけた。


「でも、それは少し、……」

「え?」


 ビールが喉元を通り過ぎる音と重なって、うまく聞き取れなかった。


 シャンクスがぽかんとした表情を向けると、***は力なく笑って「いえ、なんでもないです」と、そう言った。


「あ、氷溶けちゃいましたね。私宿の方にもらってきます」

「あァ、いや、いいよ。おれが行く」


 ***が立ち上がろうとしたのを右手で制して、シャンクスは席を立った。


「そんな、私が行きます」

「いいんだ。ちょうど外の様子も見たかったしな」


 戸惑う***を横目に、シャンクスは早足で客室のドアへと向かって外へ出た。


 宿の主人に氷をもらうと、宿の出入り口から空を見上げた。相変わらず、異質な空模様が広がっている。


 停泊させてある船の方へ目を向けると、特に異変はないようだった。


 シャンクスは小さく息をつくと、***の待つ客室の方へと足を向けた。


歩きながら、先程のことを考えた。


『でも、それは少し、残酷ですね』


 さっき、***は恐らくそう言ったのだ。


「残酷って、……どういう意味だ?」


 しばらくその真意を考えてみたが、とても見当がつかない。


 女心とは難しいものだな。


シャンクスはかぶりを振ると、客室のドアを開けた。


「いやァ、相変わらずひでェ天候だ。だが船には特に異常は」


 あることに気が付くと、シャンクスはむぐっと口を噤んだ。


 そおっとソファの前に回り込むと、案の定、その上で***が眠りこけている。


 シャンクスは音を立てないように氷をテーブルの上に置くと、しばらくそのまま呆然とした。


 やがて小さく息を吐き出すと、ベッドの上の布団を大きく捲る。


 わずかに躊躇ってから、***の身体の下に右腕を挿し込むと、細心の注意を払いながらゆっくり***の身体を持ち上げた。


 歩き回って疲れたのか、***が目を覚ます気配はなかった。


 そっとベッドに横たえると、***が小さく身を捩る。


 その拍子にバスローブの裾が捲れて、白く柔らかそうな内ももがお目見えした。


誘われるようにシャンクスはそこへ手を伸ばしたが、すぐにその手で自分の頬を叩いた。


「ったく。どっちが残酷だよ……」


 幸せそうな寝顔にそう呟くと、シャンクスは丁寧に布団を掛けてやった。


 ベッドサイドの照明を落とすと、自分の身長の半分ほどもないソファの上で小さく身体を折り曲げた。


 今日は眠れそうにねェな。


 そんなことを考えながら、シャンクスはゆるく目を瞑った。


近くて遠い、そんな夜


 その笑顔の、もっと奥が知りたいのに。


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