おまけ・同居人と看病と私。-Ace-
ぼんやりと天井を見ていたら遠慮がちなノックが聞こえた。「はい」と返事をして痛む喉にカオを顰める。エースくんが扉の隙間からひょいとカオを出した。
「おかゆできた」
「わー、ありがとう」
「入っていいか?」
声を出すのがつらくて頷きで返事をする。黒くて立派な眉を心配そうに寄せながらエースくんはベッドの縁に腰かけた。
「大丈夫か? 熱は?」
「病院でもらった薬飲んだからちょっと下がったよ」
額にエースくんの手の甲があてられる。ひやっとして気持ちいい。ついでにドキドキする。
「ごめんな。おれ料理したことねェから。レトルトあっためただけだけど」
ほんとに申し訳なさそうに眉を寄せる。叱られた大型犬みたいでかわいい。
「ううん。十分だよ。今レトルトあっためる体力もないから助かる。ありがとう」
そう告げてもエースくんはしょげたままだ。正直、一緒にいてもらえるだけでいいのに。これで一人暮らしだったらどれほど心細かったことか。
「他になんかしてほしいことあるか?」
「ううん。あとは大丈夫。移っちゃうと悪いから」
「おれ風邪引いたことねェから大丈夫だと思うけど」
「え、風邪引いたことないの?」
「ない」
「す、すごいね」
「そうか? おれの周りみんなそうなんだけど」
「……」
エースくんの友だちみんな強靭すぎないか。やっぱり筋肉か。筋肉なのか。熱に浮かされた頭で論点のずれたことを考える。
「あ、食える? おれ食わせようか」
「えっ。そんな、だ、大丈夫」
「でも熱いし」
「だ、大丈夫大丈夫っ、ほんと」
あーんなんてエースくんにしてもらったらますます熱上がっちゃう。私は丁重にお断り申し上げた。
季節の変わり目でシンプルな風邪を引いた。まだ体が動く頃合いで病院に行けたのは良かったけれど、病院から帰って来た矢先いっきに熱が上がった。現在三十八度二分。
エースくんがあっためてきてくれたおかゆを口にする。美味しい。エースくんがあっためてくれたってだけで三百倍くらい美味しく感じる。私、ほんとエースくんのこと好きだなァ。悲しいことに全然意識されてないけど。
「……」
「……」
「……あ、あのー」
「ん?」
「み、見られてると食べにくいんだけど……」
「あ、あァ。そうか。悪ィ。いや、その……風邪引いてる人なんて初めて見るから」
そう言われて思わず笑ってしまう。エースくんにとって今の私は希少価値が高いらしい。ちょっと嬉しい。
エースくんは立ち上がると、なんだか名残惜しそうにこちらを振り返りながら扉へ向かった。そんなに物珍しいのだろうか。
「あの、じゃあ……なんかあったら呼んで」
「うん。ありがとう」
笑って答えれば、エースくんは安心したような落ち着かないような表情のまま、部屋をあとにした。
*
目が覚めると部屋が真っ暗だった。カーテンを閉めそびれている窓を見れば、外も真っ暗だった。結構な時間眠っていたのかもしれない。スマホを照らせば時刻は二十三時となっている。病院に行って帰っておかゆを食べたのが夕方くらいだったから、五、六時間はたっているようだ。
パジャマが湿っていて気持ち悪い。のろのろと起き上がってクローゼットを開ける。別のパジャマに着替えている最中、ひどい悪寒がした。体温計を手に取って腋に挟む。節々が痛い。もしかしてこの感じ――。
ピピ、と鳴った体温計の表示を見て悪い予感が当たったことを知る。三十八度九分。熱が上がっている。薬を飲んだのがもう六時間以上前だし、夜中は熱が再び上がりやすい。まだ油断はできない。
薬を飲んでまた眠ってしまおうと枕元のペットボトルに目を向ければ、中身は空っぽだった。いつのまに飲み干してしまったんだろう。仕方ない。キッチンまで取りに行こう。ついでにアイス枕も交換しようと、ぬるくなったアイス枕と薬、置きっぱなしにしていたおかゆのお皿を手に部屋を出る。
エースくん、寝てますように。祈りながらリビングを歩く。今の自分が汗臭すぎて恥ずかしい。こういうとき、好きな人と一緒に住んでるのってネックだよなァ。
リビングに行って一旦流し台にお皿を置く。アイス枕は共同で使っているから(と言ってもエースくんは暑くて寝苦しいときにしか使ってない)軽く洗ってタオルで水気を取る。そのまま冷凍庫に仕舞うと、スポーツ飲料を冷蔵庫から出して薬を飲んだ。
体が気持ち悪い。表面だけでも少し拭きたい。そう思い、洗面所に行って鍵をかける。濡らしたタオルで全身を拭くと、ますます悪寒がしてきた。やめたほうがよかったか?
肩をさすりながら洗面所を出る。流しに置きっぱなしにしていたお皿を洗おうとキッチンに戻れば、エースくんがそのお皿を洗っていた。
「あ、ご、ごめん。エースくん」
声をかけると、エースくんが振り向いた。心配そうな、それでいてどこか気まずそうなカオで私を見返す。今日のエースくんはどうも様子がおかしい。申し訳なさそうな気持ちが後ろに見え隠れしているような――。
「体調どうだ?」
「あ……ええ、と。熱少し上がっちゃって」
「えっ」
「あ、でも。私いつもなの。夜中にばーって上がって、次の日にすっかり下がる、みたいな」
なるべく心配をかけないようにと明るく言う。だけど、エースくんの表情は和らがなかった。
「なんかできることねェか?」
「あ、ありがとう。でも、お皿も洗ってもらったし、もう大丈夫だよ」
「そ、そうか」
がっかりしたようにしゅんとする。ああ、かわいい。いや、なんか申し訳なさもすごいけど。でも、万が一風邪移しちゃっても嫌だし、あと私臭いし、今。
「あ、じゃあ、おやすみ」
「……おやすみ。なんかあったら起こせよ」
「……ありがとう」
エースくんの彼女になれる子は幸せだろうな。
そんなふうに思って、胸が痛くなった。
*
ここからが地獄だった。まったく眠れない上に、やっぱり熱が上がってきた。現在三十九度三分。おそらくここがマックスだとは思うけれど、だからこそ今が一番きつい。
もう何度目かわからない寝返りを打つ。頭は燃えるように熱いのに、体が寒くて寒くてたまらない。布団の中で丸まって自分の体温で自分を温める。もう上に掛けられるものもないし、第一これ以上掛けたら重くて眠れない。
なんだかいつもの風邪以上に怠い。怠いし、とにかく寒い。歯がかちかち鳴っている。もしかしてもっと熱上がるかも。いっきに不安と寂しさが押し寄せる。
ぼうっとした頭でエースくんのことを考える。無性に会いたくなる。カオを見たい。声が聞きたい。手を握ってほしい。
枕元のスマホに手を伸ばす。深夜二時。いや、ない。この時間に起こすとか。しかも、何してほしいわけでもないし。ないない。耐えねば。
スマホを枕元に戻そうとしたら、手が滑って床に落ちてしまった。ごとんっ、と結構な音がしてひやっとする。だ、大丈夫かな。エースくん起きたりしてないかな。
エースくんは一度眠ると滅多に目を覚まさないと言っていた。そのことを思い出して、ほっとするのと同時にがっかりする。いや、起きてくれたらいいなとか思うの、最低。
甘えた考えに決別し、長い夜を覚悟する。二時かー。三時くらいだったらもうちょっとで朝感あるけど。二時かー。長いよー。
自然と涙があふれてくる。なんの涙かわからない。悲しい気持ちがいっきに押し寄せてくる。悲しい。いろんなことが。具合が悪いこともこれから一人で頑張らなきゃいけないこともずっと叶わない恋をしていることもエースくんがちっとも私に振り向いてくれないことも、全部全部。
ぐずぐずと洟を鳴らす。どうせ眠れないんだから泣いて過ごしてやる。惨めに体を丸めて涙を垂れ流していたら、ノックのような音が聞こえた気がした。
ぴた、とすべての音を止める。耳をすませてみたけれど、やっぱり何も聞こえないので空耳かと思った時だった。
『起きてる?』
扉の向こうから、とても小さな声でそう訊ねられた。瞬時に「はいっ」と返事をする。
扉がそっと開かれる。エースくんが、おずおずとカオを出した。
「大丈夫か?」
「え?」
「なんかすげェ音したから」
「音? あっ、ごめん。さっきスマホ床に落としちゃって」
「あァ。なんだ、そうか。よかった」
「え、起こしちゃった? ごめんね」
起きてくれたらいいな、なんて考えた自分が情けなくなる。心底申し訳なくなって謝ると、エースくんは首を横に振った。
「寝てなかったから」
「え? あ、あァ。そうだったの? もう寝ないと。二時だよ」
「……」
エースくんが押し黙る。カーテンから漏れる月明かりに照らされる、月下美人のエースくん。どこか少し、寂しげに見える。
「エ、エースくん?」
「なんかできること、ねェ?」
「え?」
「ほんとに、ない?」
密度の濃いまつ毛の影が、そばかすに落ちる。控えめにわがままを言っている子どものように見えて、ちょっとキュンとしてしまった。
「……あの」
「うん」
「嫌、というか、困る、とかだったらほんとにいいんだけど」
「……あァ」
エースくんの瞳に、わずかに期待がこもる。
私はダメ元でお願いしてみた。
「い……一緒に寝てくれないかな」
「……」
「……」
「……え」
「じ、じつは、熱上がってきちゃって。今、ものすごく寒いんだ」
「……」
エースくんはぴくりとも動かなくなった。呆然唖然って感じで私を見つめている。
「あ、あの」
「……」
「な、なんちゃって」
「……」
「冗談冗談」
「……」
「ええ、っと、それじゃあ――」
「わかった」
「……へ」
「いいよ」
「え、えっ」
「入っていい?」
「え、あ……うん」
私の返事を聞いてから、エースくんは部屋に入った。扉が閉まって、途端に緊張する。とんでもないお願いをしてしまったかもしれない。
「布団、入っていい?」
「は、はい」
「おれどっち行く?」
「ええっと、じゃあ、こ、こっちに……」
エースくんが床に落ちてしまわないよう、壁際にお願いする。エースくんは素直にそれに従った。
「……」
「……」
「あー、じゃあ……背中向ける?」
「あ、うん。そう、ですね」
「はい」
なぜか二人して敬語になる。エースくんが私のベッドに横になっているのを見て、急に冷静になった。え、私なにお願いしてんの?
ドキドキして悪寒がどっか行ったような気がしたけれど、布団を剥いだら急激に寒くなったのでやっぱり勘違いだった。慌てて布団を被ると、エースくんの背中が目前に迫って、いろんな感情が押し寄せて息ができなくなった。
「……」
「……」
「寒くねェ?」
「あ、う、うん……あの」
「あァ」
「せ、背中に少し、その……ピトッてしてもいい?」
「……あァ」
お言葉に甘えてピトッとくっつく。ほんとはお腹に手を回してぎゅっと抱きつきたいけれど、そこまでしたらさすがに迷惑という自覚は熱に浮かされていてもあった。いや、ここまでもアウトかもしれないけど。
「あー、あったかい」
「……おれ、よく子ども体温って言われる」
「ふふ、子ども体温。誰に言われ――」
言ってしまってから、はっとする。そんなの、エースくんに抱きつく資格がある人に言われたに決まってる。
そうだ。まずい。エースくんに彼女がいるのか知らない。だけど、聞きたくもない。あァ、まずった。どうしよう――。
「言っとくけど」
「はっ、はい」
「彼女とかじゃねェから」
「あ……そ、そうなの?」
「おれ、彼女ってちゃんといたことない」
「え?」
「好きとかそういうの、よくわかんなかったから」
「……」
「だから、本気じゃない同士で、遊んでばっかり」
「そう、なんだ」
意外。モテるだろうなとは思ってたけど、まさか初恋がまだとは。エースくんが好きになる子、か。どういう子なんだろう。
「それに、付き合ってなくても、好きな女いたら他の女とこんなことしねェ」
「そ、それもそうだね」
「……おまえは?」
「え?」
「こういうの、誰とでもすんの?」
えっ、と思わず声が上ずる。エースくんの背中が、怒っているようにもいじけているようにも見えた。
「ま、まさか。誰とでもじゃないよ」
「じゃあ、どういうやつにならすんの」
「え? そ、それは、その……」
「……」
「し……信頼できる人、とか」
「……それはおれの他にあと何人いんの」
「えっ、あ、いや。男の子は、エ、エースくん一人だよ」
「……」
「エ、エースくん?」
「信頼、ね」
すると、エースくんが突然くるりと向きを変えた。私と向かい合うような体勢になると、じっと私の目を見つめる。
「エ、エースく――」
「信頼してもらってるとこ悪いんだけど」
「は、はい」
「なんか、今日、ずっと」
「う、うん」
「ほっぺた赤くて、目が潤んでて、気だるげで、汗の匂いして」
「……」
「ちょっと……エロい」
「えっ」
エースくんにそんなことを言われて、ますます熱が上がってくる。どんなカオをしていいかわからず視線を逸らせる。私の目をじっと射貫いていたエースくんが、ぐっと何かを我慢するように歯を食いしばる。
「だからっ。そういうかわいいカオすんなっ。この状況で」
「かっ、かわ? いやっ、し、してないしてないっ」
「……無意識かよ。タチわりー」
はあっ、とため息をついて仰向けになる。怒らせたんだろうか。
「……」
「……」
「あ、あの。エースく――」
「付き合う?」
その言葉に、空気がぴたと止まる。
え、今なんて言った? 付き合う? いや。さすがに聞き間違いだろう。だって。まさか。エースくんがそんなこと言うわけ――。
「ずっと思ってたんだけど」
「……」
「おれ、おまえと付き合いたい」
「……」
「……」
「……」
「……だめ?」
窺うように私のカオを覗いたエースくんが、はっと息をのんだ。きっと、私が泣いていたからだろう。
「……それどっちの感情?」
「う、嬉しい方の」
「……」
「嬉しい方の、感情」
「……」
「嬉しい……エースくん……」
ずびずび洟をすすっていたら、エースくんがおずおずと抱きしめてきた。たまらず逞しい背中に腕を回すと「あ、待った」と制止された。
「今はいろいろまずい」
「え? ……あ」
「……ごめん。さすがにこうなる」
「そ、そっか。ご、ごめん」
「いや。こっちこそ。空気読めなくて悪ィ」
「いえいえ、そんな」
しばらく沈黙が続く。くっと、同時に吹き出した。
「……今日」
「え?」
「風邪引いてよかったかも」
「……よくねェよ。心配した」
「……へへ」
「あと生殺しきつい」
「あー……へへ」
「なに笑ってんだよ。熱にやられたか?」
そうかも。熱にやられてるのかも。だって、こんな幸せ、あるわけない。幸せなのに泣きたくなるこんな感情、今まで知らなかった。
もしこれが全部夢なら。私、このまま目を覚まさなくていい。
そんなふうに祈りながら、エースくんの腕の中で深い眠りに落ちていった。
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