幼なじみと39.8℃と私。-Doflamingo-

『今から来い』

「ま、待ってドフィ」


 慌てて声を出したからかひどい咳が出る。ぜえぜえ言いながら唾を飲み込むと、風邪特有の激痛が喉を襲った。


「ご、ごめん。今日はほんとに行けない」

『……』

「か、風邪引いちゃって、熱があって」

『……』

「体が全然動かないし、う、移しちゃっても悪いから――」


 プツ。ツー、ツー、ツー。


 通話はすでに切れていた。熱でぼんやりとしたまましばらくその音を聞く。のろのろとスマホを枕元に放る。


「冷たい……ううっ、冷たいよう……」


 心身ともに弱っているからか子どもみたいに泣きじゃくる。嗚咽が出て余計に喉が痛い。悪寒がひどくて掛布団を引っ張り上げる。重い。重いし汗臭い。着替えたい。でもしんどい。今着ているパジャマを脱いで新しいパジャマをクローゼットから出してまた着るなんてできる気がしない。布団から出るのもつらい。


 なんだか体調が悪い。そう思ったのが夜の七時で、すでに近所の病院は閉まった後だった。その時は、まあ薬飲んで寝ちゃえば治るかな、なんて楽観視していたけれどあれよあれよというまに熱が上がってきた。現在三十八度五分。


 枕元に置いた、ぬるくなった緑茶を飲む。熱がある時の緑茶なんて全然美味しくなくて、ちょっと飲んですぐに蓋をした。冷えたスポーツ飲料が飲みたい。でもそんなもの常備していない。


 こういう時のための準備って大事。本当に大事。欲しいと思った時にはもう買いに行けないんだから。治ったら絶対スポーツ飲料の買い置きをしよう。絶対しよう。


 そう決意しながら、きっと治ったらすぐ忘れるんだろうなと頭の片隅で思う。そうだ、起きたついでに熱を測ってみよう。薬も飲んだし少し眠ったから下がっているかもしれない。体温計に手を伸ばすと節々が痛すぎてまた泣けてきた。こういう時の一人暮らしは死ぬほど心細い。


 ピピ、と鳴ったので体温計を腋からのろのろと引っ張り上げる。表示された体温に、私は我が目を疑った。


 三十九度八分。


 見間違いかと思い霞んだ目を擦ってもう一度見る。三十九度八分。何度見ても三十九度八分。三十九度八分。嘘でしょ。


 途端に心臓がドキドキしてくる。これ、病院行かなくて大丈夫だろうか。ほっといたらあっというまに四十度を越えそうだ。四十度までいったらさすがにやばくないか。人間って何度まで上がっても大丈夫なんだろう。


 検索して確認しなきゃと思うけれど文字を見る気にまったくなれない。それどころか何もする気力がない。


 死ぬ。私、死ぬ。このまま死ぬ。死ぬんだ。一人で。ひとりぼっちで。この部屋で。誰にも看取られず。死体は誰が見つけてくれるだろう。せめてなるべく早く見つけてほしい。


 朦朧とする意識の中極端なことを考える。体温を意識した途端もっと具合が悪くなってきて、横たわっているだけでもひどくしんどい。横になるってこんなに体力使うのか。


 どうしよう。救急車呼んだほうがいいかな。でも、風邪ごときで……。いやでも、このまま放っておいたら本当に死んでしまいそう……。


 ぼだぼだと涙がこぼれる。泣くのもつらい。疲れる。すべてに体力を奪われる。怖い。どうしよう。怖い、怖い。


「ドフィー……」


 薄れゆく意識の中、呼んだのはやっぱりその名前だった。



 医者を呼べ。

 はい、承知しました。屋敷のほうへでよろしいですか?

 あァ。すぐに診られるように準備させておけ。

 かしこまりました。――あァ、もしもし。私だ。医者の手配を頼む。


 遠くで声がする。ふわっと体が宙に浮く。温かい。嗅覚の衰えた鼻が、懐かしい匂いを微かにキャッチする。


 うっすらと目を開ける。視界がぐらぐらと揺れていて、お姫様だっこをされている。見慣れたカオがにじんで見える。


「お姫様だっことか……できるんだ……」


 霞む視界の中で、彼が不服そうに唇をへの字に曲げた。



「――い。……おい」


 ぺちぺちと音がする。同時にほっぺたが痛い。肩にがっしりとした腕の硬さを感じる。誰かの胸の中で、私は上体を起こした格好で支えられていた。


「おい。薬だ。飲め」


 声がクリアになって聞こえる。ドフィの声。低くてお腹に響く、落ち着く声。


 なんとか目を開けると、ドフィが紙のようなものを私の口に運んでいた。条件反射で口を開ける。その中身が口に入った途端、喉に違和感を覚えて思いきり噎せた。


「ご、ごめ」


 声がまったく出なくなっている。熱もきっとさっきより上がってる。頭が燃えるように熱い。それなのに体はがたがたと震えていた。


「困りましたね。点滴はしてますが、薬は飲んだほうが……」

「粉は無理だな。錠剤を用意しろ」


 はっ、と短く元気な声がして、視界の端で誰かが忙しなく動く。白衣を着ているのでおそらくお医者さんだろう。


 薬、吐き出しちゃった。もったいないことしちゃったな。こぼしたの拾えないかな。貧乏性な私はぼんやりとした頭の芯でそんなことを考える。


 膜を一枚張ったような視界の向こうで、ドフィが何かを口に含んだ。その後でコップの中の水をぐいっと煽る。


 ドフィは私の肩を引き寄せると、口をこじ開けるように指を突っ込んだ。


 抵抗なく開いた口の中に何かが押し込まれる。生温い水の温度。反射的にそれを飲み込むと、喉に激痛が走って私はカオを思いきり顰めた。


「うう、ドフィ……喉痛い……」

「他にも薬あるか」


 ドフィは私の声を無視してお医者さんにそう訊ねた。「即効性のある痛み止めもありますが。喉に効くかと」とお医者さん。「それも」とドフィ。


 先ほどと同じ一連の流れで、ドフィは再び私の口に薬を押し流した。柔らかい唇の感触。水がこぼれないようにと深く口づけてくるもんだから、息が苦しい。気持ちいい。もっと。


 冷たい点滴が体の中を駆け巡って、気持ちいい。私はうとうとと意識を手放した。



 次に目が覚めた時、私はドフィの腕の中にいた。匂いですぐにわかった。


 二人ぴったりと隙間なく密着して横たわっている。私の右足はドフィの上に乗っていて、ドフィの左足もまた私の体に絡みついていた。


 な、なにこの状況。何が起きてるの。


 着ているパジャマがじっとりと濡れていて気持ちが悪い。随分と汗を掻いたようだ。昨日の高熱が嘘のように体が軽い。


 私がわずかに身を捩ると、ドフィは目覚めたようだった。子どもの頃から眠りが浅く、ほんのわずかな音でもドフィは聞き逃さない。


「ド、ドフィ。あの――」


 彼の胸に埋めていたカオを離すと、すごい力で引き戻された。ぶ、と変な声が出る。


 一瞬抱きしめられたのかと思ったが、どうやらそうではなく、彼はがさごそと枕元を漁っている。おそらく、寝る前に外したサングラスを手探りで探しているのだろう。


 かちゃ、とサングラスを掛けた音がして、ドフィの腕の力が弱まる。私はおそるおそるカオを上げた。


「お、おはよう……」

「……」

「あ、あのー」


 言い終える前にドフィが再び枕元を手探りする。目的の物を掴み取ったのか、それを私に手渡した。


「測れ」


 手渡されたのは体温計だった。私は素直にそれを腋に挟む。数秒でピピ、と鳴った。取り出すと三十七度三分とある。


「下がった……」

「……」


 ドフィは深く息を吐き出すと、そのまま枕に頭を戻した。なんとなく、私も肩の力を抜く。


「あ、あの……ありがとう」

「……」

「か、看病してくれて」

「……したのは医者と看護師だ」

「で、でも、運んでくれたのはドフィでしょ?」

「……」

「ありがとう」

「……」

「それで、あのー」

「……」

「き、訊きたいことが」

「……なんだ」

「ど、どうやってうちに入ったの?」


 熱が下がって意識がはっきりしてくると、昨日起こったことのすべてがぼんやり思い出される。その時の意識はないのに不思議。


 たぶん昨日、ドフィは私の家にやってきた。そしてそのまま自分の家に連れ帰ったらしい。ということは、私の部屋にドフィが入ったというわけで。でもドフィは私の家の鍵は持っていないわけで。


「ドア壊した」

「……」


 やっぱりね。私は納得した。自分の部屋のドアも蹴り壊す男だ。それくらいは躊躇なくするだろう。


 どうか泥棒が入っていませんようにと切に願いながら、なんだかとても重要なことを思い出せていない気がしてならない。


 なんだかこう……胸がキュンと切なくなるような。物足りないと思うことがあったような……。


「……」

「……」

「……あ」

「……あ?」

「ああっ」


 私が声をあげると、ドフィは心底迷惑そうに眉を顰めた。うるせェな、と不機嫌そうな声が続く。


「ド、ドドド、ドフィっ」

「なんだ」

「き、昨日私に、キ……キスしなかった!?」


 ぽか、と口を呆けてから、ああ、となんてことないかのように言う。


「あ、ああって、な、何をそんな落ち着き払ってっ」

「うるせェな。あんなもんで」

「あ、あんなもんって」

「人工呼吸みてェなもんだろ」

「だ、だって、あんな、く、口のお、奥まで」

「てめェが薬吐き出すからだろうが」

「そ、それは、そのっ、すごく申し訳なかったけどっ」


 ドフィは至極面倒くさそうにため息をついた。な、なんなのその反応。


「そんなに嫌だったなら消毒でもしてもらえ」


 ギシッ、と大きくベッドを軋ませてドフィは起き上がった。そのままベッドを出てベッドサイドに置いた電話の受話器を上げる。二言三言何かを告げて、すぐに電話を切る。


「医者を呼んだ。診察受けたらさっさと帰れ」


 そう言うと、ドフィはバスルームに入ってしまった。



 診察を受け終わった私は、ドフィがお風呂から上がってくるのを待った。ちなみに着ていたパジャマは私の物ではなかったので、おそらく誰かが着替えさせてくれたのだろう。その誰かがドフィでないことを祈る。


 診察が終わった私にお医者さんが手渡してくれたのは女性ものの洋服だった。聞けば「若様がご用意したものですので遠慮なさらず」とのことだった。


 高熱を出した幼なじみの家にわざわざ出向いて自宅に運んで医者に診せてくれた上、一晩泊めてくれて洋服まで用意してくれていたなんて。キスの一つや二つでぎゃあぎゃあ喚いてしまった自分がとても情けない。いや、それだってただ薬を飲ませようとしただけだし。


 せめてお礼を言ってから帰りたい。そう思って待っていたら、診察終了から十分程度でドフィはバスルームから出てきた。


「あ、し、診察終わりました」

「……」

「あとはゆっくり休んでれば大丈夫だって」

「……」

「あ、あの、ほんとにありがとう。あっ、このお洋服も」

「……」

「あ、あの、ほんと……何から何まで……」

「……」


 ドフィは聞いているのかいないのか(たぶん後者)濡れた髪を肌触りの良さそうなタオルでがしがしと拭いている。上半身が裸なのでどこを見ていいかわからず、視線を泳がせたまま私は立ち上がった。


「あの、えーっと」

「……」

「じゃあ、あの……お邪魔しました」

「……」

「ほんとにありがとう。助かりました」

「……」

「……」


 どう結んでいいかわからず、結局一礼で締めくくる。ドアに向かって歩き出すと、なぜかドフィまでついてきた。


 え? お見送りしてくれるの? いや、まさかね。外に用でもあるのか? っていうか服着なよ。


 心の中で突っ込みながらドアの取っ手を掴む。そのタイミングで大きな影が覆い被さって来た。


 驚いて(そして慄いて)振り返ると、首からタオルをぶら下げた半裸の幼なじみがカオを近付けてきているところだった。ふわ、と湿ったシャンプーの香りが匂い立つ。


 本人の荒々しさ粗暴さとは裏腹に、ドフィは少女漫画で見るようなキスをしてきた。濡れた唇がわずかに押し付けられ、その拍子にサングラスがかちゃと音を立てる。


 サングラス越しに目が合って、心臓がどくりと音を立てる。


 胸を押し戻そうと上げた右手が、ドフィの大きな左手に捕まった。


 慌てて背けたカオが、ドフィの手によって正面に戻される。何かを食べようとするように開かれた唇が再び近付いてきた。


「ちょ、ドフィ――」


 非難の言葉ごと飲み込むようにキスされる。何が起きているのかわからない。息もできない。ただドフィの匂いと息遣いだけが妙にリアルでくらくらした。


 押さえつけられていた右手の指にドフィの指が絡む。カオを押さえていた手が首に降りていって、指が頸動脈の上をするりと滑った。


「っ、……ん」


 息を吸おうと口を開けたタイミングで舌が入ってくる。ドアに押し付けられているから逃げ場がない。触れた舌と舌からくち、と音がして、胸がつきりと痛くなる。どうしよう。気持ちいい。


 もっと、と思ったタイミングで唇が離れた。


「……」

「……」

「な、な、なに、なにすん――」

「これがキスだ」

「……は?」


 荒々しい呼吸のまま、ぽかんと彼を見上げる。


 ドフィはといえば憎たらしいくらいにいつも通り。鼻でフッと笑って言った。


「ガキ」

「なっ……!」

「続き、してほしいならしてやろうか」


 そう言ってベッドへ目配せしたもんだから、私は羞恥やら悔しいやらで涙目になりながら叫んだ。


「さっ、最低! バカ! セクハラ! 変態!」

「文句のバリエーションもガキだな」

「う、うるさい! ドフィなんて、ドフィなんてっ、もう知らない!」


 もう知らないって。子どもか。


 自分でも突っ込みを入れながらドアを開けて、逃げるようにして屋敷をあとにする。門番たちが不思議そうに私を見ていた。


 早足で歩きながらドフィのキスを反芻する。あ、あんな。舌とか。口の中で。ああ、もうっ。


「うう……熱上がる……」


 脳内でのたうち回りながらよろよろと家路を急いだ。


幼なじみと39.8℃と私。


 気持ちいい、もっとって言ったのあっちだろうが。

 若様、さっきから何いじけてるんですか?

 ……うるせェ。


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