甘やかされる、午前1時 -Doflamingo-

 忙しい。なんだかとてつもなく忙しい。


 年度末だから仕方がないのかもしれないけれど。やたらと気忙しいし、やたらと疲れる。


 重い身体を引きずって、駅へ向かう。帰り道である。


「どうしよう。あの案件、明日で全部終わるかな。今日もう少しやってくれば良かったかな。納品してからミスとかあったらどうしよう。ああ、もういっそのこと、泊まりがけで徹底的に確認したい……」


 心の中に収めきれない不安が、口からほろほろ溢れ出す。すれ違ったビジネスマンが、訝しげに私を見ていった。


 どう見積もっても、今週を乗り越えるためのHPが残っていない。考える気力も体力も、見事にすっからかんだ。


 ああ、癒されたい。何か暖かいものにくるまれたい。よく頑張ってるねとか言われたい。ついでに化粧落として身体洗って着替えさせてベッドに寝かせてほしい。


 電車に乗って、吊り革に掴まる。流れる景色と、窓に映る自分の顔を交互に見る。ひどい顔だ。くすみが濃い。


 最寄り駅に着いて、タクシーに乗る。行き先を告げて、またぼんやりと窓を見た。日中は暖かくても、朝晩はまだ冷える。恋人たちが、寒い外を寄り添うように歩いていた。


 タクシーを降りて、歩く。


 歩いて、歩いて、歩いて。


 ここまで来てようやく、私は我に返った。


「あれ? ……あれっ?」


 右へ左へ、辺りを見回した。どこだ。どこだここ!


 いや、正確には見覚えがある。私は何度かここに来ている。


 高い塀の奥に、大きな邸。節約とは無縁なあの噴水は、相変わらず水を吐き出し続けている。プールサイドには、さすがに誰もいなかった。


 何してんの? えっ、何してんの私。


 どうしてよりにもよって、ドフィのところに!


 急に頭が冴えてきて、私はとっさに身を隠した。門の前には、相変わらず門番が数人配置されている。その大きな体躯は、寒さからか少し縮こまっていた。


 どうした。どうしたの、私。どうかしてる。呼び出されてもいないのに、ドフィのところに来るなんて。そう。よりにもよって、ドフィのところに。癒しどころか、人間としての暖かさすら皆無な、ドフィのところに。


 塀の陰に隠れながら、私は自問自答した。


 帰ろう。帰って、自分のお布団でゆっくり眠ろう。疲れてる。疲れてるんだわ、私。


 軽く頭を横に振って、歩き出した。夜の闇に、ヒールの音が反響する。


 門の前に立つと、門番たちがおしゃべりをやめた。


「……あ、あの」

「……」

「ドフィ、いますか」

「……」

「い、いなかったら……べつにいいんですけど」

「……」

「用も、その……特に、ないんで。忙しかったら、あの、べつに」

「……」


 突然現れた私の姿を見て、彼らは顔を見合わせた。それから、そのうちの一人が、奥の方に引っ込んでいく。トランシーバーみたいなものを懐から取り出すと、それに向かって何かを話し始めた。


 心臓が早鐘を打ち始める。途端に緊張してきて、もはや帰りたくなった。


 ヒールの爪先に目を落としていると、一分程度で門番が戻ってきた。


 ギギギッという音で顔を上げれば、門は人一人分通れるくらいのスペースで左右に開いていた。


「あ……ありがとうございます」


 小さく会釈をしても、門番たちがそれに応えることはない。さすが、雇い主が無愛想なだけある。


 そそくさと門をくぐって、玄関口まで小走りした。形だけのノックをして、玄関を開く。中へ入ると、静寂がひんやりと廊下を包み込んでいた。


 長い廊下を、のたくたと歩く。この重い足取りは疲れているからではなく、理由を考えているからだった。


 そう。今日、ここに来た理由を。


 しかし、疲れた脳で最適な言い訳が見つかるわけもなく、答えが出ないまま私はあのドアの前に立ち尽くした。


 自ら訪ねて来ておいて、待たせるわけにもいかない。ましてや引き返すわけにもいかないので、とりあえず小さくノックをしてみた。


 数秒待つと、向こう側から低い声が「入れ」と言った。


「お、お邪魔します……」


 ドアを開けると、隙間から月明かりが漏れた。電気はやはり、点いていない。


 そろおっと、中の様子を伺いながら中へ入る。


 幻獣みたいなシルエットが窓に浮かんでいて、思わず、ひっと声を上げそうになった。


 あ、ああ、ドフィの羽織か。なんだ。


 ほっと胸をなでおろすと、極力音を立てないよう、ドアを閉めた。


「……」

「……」

「……あ、あの」

「……」

「こ……こんばんは」

「……」

「ごめんね。あの、ほんと」

「……」

「こんな時間に。突然」

「……」

「……」


 ドフィは、こちらへ一瞥もくれることなく、テーブルの上のワイングラスへワインを注いでいる。


「あ、げ……元気だった?」

「……」

「結構久しぶりだよね。ほらっ、去年一緒に桜見て以来だから」

「……」

「い、忙しかった? なんか……クリスマスとか、去年は呼び出しなかったからさ」

「……」

「ま、まァ、そんな、待ってたわけじゃないんだけどさ。あはははっ」

「……」

「……ははっ」

「……」

「……」


 歓迎なんて、もちろん期待してない。してない、けど。


 この一方通行が、今日は異様に腹だたしい。自分だっていつも、好き勝手呼び出すくせに。寝る直前でもクリスマスでも合コン中でも。


 そのくせ、突然ぱったり、連絡寄越さなくなったりして。


 ああ、もう。なんなの。ほんと。自分勝手。


 なんてことを心の中で思っても、口にできるはずもない。


 それにこれは、明らかな八つ当たりだ。多忙でささくれ立った心の鬱憤を、ドフィへの八つ当たりで吐き出そうとしてる。最低極まりない。


「……」

「……」

「……なんだ」

「……」

「……」

「はっ、はいっ?」

「……なんの用だ」

「……」

「……」

「用は、特にない、って」

「……」

「さっき、門番の人にもそう、言ったんだけど」

「……」

「……」


 ああ、ダメだ。言い方がキツイ。かわいくない。


 せっかく、こんな。久しぶりに会えたのに。


 このまま一緒にいたら、心にもないことを言ってしまいそうだ。やっぱり帰ろう。出直してこよう。


「あの……元気かなって、気になっただけだから」

「……」

「それだけだから」

「……」

「ごめんね、突然。帰るね」

「……」


 くるりと身を翻して、ドアへ向き直った。


 いつもと違って、ドアノブがスムーズに回って、ドアがなんなく開く。


 少し。いや、かなり。がっかりした。


 部屋を出ようと一歩踏み出そうとしたところで、突然、ドアが押し戻された。


 強制的にドアが閉められて、訳が分からず慌てて振り返る。


 いつのまにか私の背後に立っていたドフィが、ドアの上部を右手で押さえ込んでいた。すごいな。よく届くね。そんなとこ。


 怒った虫の目みたいなサングラスが、私を見下ろしている。私も、何も言わずに、ただただドフィを見上げた。


 ピンクの羽織が顔の周りでふわふわして、その度にドフィの匂いが鼻腔をくすぐる。


 それが催涙ガスみたいに効いて、私の目からはぶわりと涙が溢れた。


 への字に曲げられたドフィの唇が、かすかに呆けた。それはそうだ。突然訪れてきた幼なじみが、突然泣き出したのだから。


 我慢していたものが一度溢れ出すと、自分でも止めるのが難しい。ついに嗚咽まで出始めて、頭の中が空っぽになった。


 疲れた。本当に。ここ何ヶ月か、ゆっくり何かを考える暇もなかった。社会人なんて、みんなそんなもんなんだろうけど。


 それでも、「週末は彼氏と温泉」とか「仕事終わりに好きな人とデート」とか。


 同僚や後輩からそんな報告を受けるたびに、ドフィの顔ばかり浮かんで。


 それなのに、そんな時に限ってこの男。うんともすんとも音沙汰なくて。


 寝る前とか夜中とか休みの日でも、電話来てないかとか何度も確認しちゃって。


 でもやっぱり、連絡なんて来てないし。なんかもう、それにも疲れちゃって。


 だからもう。つまり。何が言いたいかって言うと。


「っ、ドフィ……」

「……」

「ドフィの、っ、バカー……」

「……」


 子供みたいに泣きじゃくっている私を、ドフィは何も言わずに見下ろしている。理不尽なことを言われて、怒っているのかもしれない。


 すると、おもむろにドフィが屈んだ。その動きに一瞬怯んだが、何かを考える前に私の身体はふわりと浮いた。


 親が子供を抱っこするみたいに、ドフィは私を抱きかかえた。そしてそのまま、回れ右をしたドフィに運搬される。さすがに涙が引っ込んだ。


 長い脚で数歩歩くと、ドフィは再び身体を屈めて私をどこかに降ろした。


 お尻がふわふわする。見ると、あの大きなベッドの上だった。


「寝ろ。面倒くせェ」


 そう言って、ドフィはベッドから離れた。再び窓際のテーブルへ向かうと、飲みかけていたワインをぐいっと煽った。


 その一連の流れを見てから、私は掛け布団を捲って、中に潜り込んだ。恥ずかしい。何してんだろ、私。突然来て、八つ当たりして、泣きわめいて、泊めてもらうとか。


 今さらながら、羞恥心が沸き起こる。ほんと、面倒くさい。私。


 もう眠ってしまおう。眠って忘れよう。と、固く目を瞑ったところで、気が付いた。化粧をしたままだということに。


 いいや、もう。とも思いかけたが、肌にも悪いし、何よりこの高級そうな布団を汚してしまいそうで怖い。


 私はもぞもぞと布団から這い出ると、ベッドの脇に置いておいたバッグを引き寄せた。そして中から、先ほどドラッグストアで買ったメイク落としシートを取り出した。


「……おい」

「はっ、はい」

「……何してる。さっさと寝ろ」

「あ、う、うん。ちょっと……お化粧落としてから」

「……」


 疲労と眠気が手伝って、動作がもたくたする。しかし、良かった。今日買っておいて。


 ようやく封を切ると、シートを一枚、中から引き出した。


 顔に当てようとしたところで、シートを持った手が、がしっと浅黒い手に掴まれた。思わず、ぎゃあっ、と声が出た。


「ちょっ、ちょっ……! なっ、なにっ?」

「……」


 訝しげにシートをまじまじと見てから、ドフィは私の手からそれを取り上げた。そして、自分もベッドへ上がると、あのふかふか枕に寄りかかった。


「来い」

「……」

「……」

「……はい?」

「……」

「……」


 よじよじと、赤ちゃんのように四つん這いになってドフィの言う通りにする。


 ドフィの真ん前まで来ると、ドフィは私のお腹を抱えて乱暴に引き寄せた。


 真っ白な頭で我に返ると、私はドフィの膝の間に座らされていた。


「……顔拭きゃあいいのか」

「……」

「……」

「は……はい」


 骨張った大きな指が、前髪を左右にかきわける。シートの、ひやっとした感覚が、おでこから頬までするりと滑った。


「……」

「……」


 ……な、


 何してんの、ドフィ。


 何されてんの、私。


 この状況が、とても現実のものとは思えなくて。


 私はただただされるがまま放心した。


「……」

「……」

「……毎日やんのか、こんなこと」

「あ、い……いつもは、オイルで、お風呂の前に」

「……」

「……」

「女ってのは、面倒だな」

「そ、そうだね……」


 左腕に支えられている肩と、右手に撫でられている顔が、くすぐったくて気持ちいい。


 ずっと見ていたいのに、このまま眠ってしまいたくなるような。泣きたくなるほどの幸福感で、胸がいっぱいになった。


 ああ、


 癒される。


「……ドフィ」

「……」

「……」

「……なんだ」

「……さっき、ごめんね」

「……」

「……」

「何がだ」

「……うん」

「……」

「……」

「会話になってねェ」


 そんなの、いつものことじゃん。


 おかしくなって、私はへらっと笑った。ドフィは、難しく眉を寄せて、首をほんの少し傾げている。


 かわいいな、もう。


 ああ、そうか。分かった。


 私、疲れてたんじゃない。


 ただ、ドフィが足りなかったんだ。


 なんだか妙に納得した。納得したら、なんだかこの状況に安心して、いっきに眠くなった。うとうとと、まぶたが鉛のように重くなる。


「ドフィ……」

「……」

「……」

「……なんだ」


 私、


 ドフィの、匂いとか。空気とか。声も。ちょっとじれったい沈黙も。


 ドフィの生み出すもの。


 全部、全部


「……すき」

「……」

「……」

「……」
「……」

「……あ?」


やかされる、午前1時


ぐー。

……。


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