侵蝕 -完結御礼作品-

「トラファルガー・ローだろ?おまえ。」


友好的でない声で呼ばれて、ローは半身振り向いた。


男が数人立っている。向けられている眼差しを見るとやはり「仲良くしよう」とか、そういうことではないらしい。


「人のオンナ寝取りやがって。」


中央に立っていた男が言った。ローは眉を寄せた。はて、どれのことだ。


「おかげで自分のオンナ殴るなんて、クズみてェなことしちまったじゃねェか。どうしてくれんだ?あァ?」

「ちょっとカオが良いからってチョーシ乗ってんじゃねェよ。」

「おまえ、死んだオヤジが医者だってな。」

「怪我したら墓の前で泣きつけよ。”パパー!殴られたよう!治してよう!”ってな!」

「ぎゃははははっ!」


あとの方は友人の不幸に便乗した、ただのひがみだった。バカ笑いしている男たちを横目に、ローは思い出していた。小さく「あァ」と言った。


「そういや、いたな。」

「…あ?」


下品な笑い声が止んだ。ローはうすら笑った。


「自分の男の”モノ”が粗末すぎて、全然濡れねェってボヤいてたオンナ。」


ずもっと、男のこめかみに太い血管が浮いた。その血走った目が可笑しくて、笑い出しそうなのをこらえるのが辛かった。


「感謝しろよ。おまえの代わりにイかせてやった。」


言い切るのと、男が殴りかかってくるのはほぼ同時だった。ローは右手の拳を握った。


ー…‥


「だれをやったんですか?」

「あ?」


血の滲んだローの口の端を見て、ペンギンが尋ねてきた。「だれにやられた」ではなくこう聞いてきたのは、相手が自分だからだろうとローは思った。


「知らねェよ。ただのやっかみだった。」

「まァ、何か気に入らないことをしたんでしょうね。あなたが。」

「…殺されてェか。」

「あなたになら本望です。」


そんなことを嘯いて、ペンギンはローのとなりに座った。


吐いたタバコの煙が、真っ青な空を蝕んでいく。それを見て、なぜかひどく嫌気がさした。


「…***、」

「はい?」

「…アイツ、今日何してた。」

「何って、まァ。いつもどおりですよ。授業受けて、休み時間はニコ・ロビンとおしゃべりしてました。」

「…そうか。」


見上げた空のなかで、積乱雲が漂っている。「綿あめみたい」と、***ならそう言いそうだなと考えた。


「…***には言うなよ。」

「…喧嘩のことですか?怪我してることですか?」

「両方。」


***に知られると面倒だ。怪我を見ればカオを歪めるし、喧嘩を売られたと言えばいちいち不安げになる。


***が知らなくていいことは、この世界には山ほどある。


そう思うほどに、自分の知る世界はひどく汚れていた。


ローは指からタバコを滑らせた。足元に転がって、息の仕方がわからなくなったそれが燻りながら死んでいく。それを見つめながら、ローは思った。


いや。もしかしたら。


世界は、自分が歩いて行くほどに、


汚れていっているのかもしれない。


ー…‥


「おっ、よォ!トラファルガー!」


聞き覚えのある声に、ローは医学書に向けていた目だけを上げた。教室の入り口から右手を上げて馴れ馴れしく近付いてくるのは、やはり見覚えのあるカオだった。


「今日はちゃんと学校来たんだな。」

「…うるせェな。勝手だろ。」

「なんだよ。褒めてんじゃねェか。」


そうチョーシの良いことを言って、男は口元を歪めて笑った。ローの前の席の椅子を乱暴に引くと男は座った。


同じクラスになると、この男はローに対してやけに友好的に接してきた。典型的な能天気な男だった。


この男と自分がからむことに、ペンギンもシャチもあまりいいカオをしなかった。ロー自身もうっとうしく感じることはあったが、わざわざ突き放すのも面倒だった。


「友だちが増えて良かったね」と、嬉しそうに言っていたのは***だけだった。


「昨日さァ、ナンパしたオンナとホテル行ったんだけどよォ。ダメだな、やっぱ。すれたオンナは。初々しさがねェよ。」

「…」

「アソコもよォ。舐めるとなんか男の味がするような気がしてさ。それですっげェ萎えちまって!」

「…」

「やっぱり抱くなら処女がイイよなァ!どっかのバカな純情オンナ騙して抱けねェかな?」


聞いてもいないことをつらつらと話しながら、男はローのペンをおもむろに掴んで持っていたプリント用紙を広げた。


数式がひたすら並んでいるそれに、男はテキトーな数字を綴っていく。提出の必要があるものだとローは知っていたが、もちろんローはやっていなかった。ローの成績を知っている教師たちは、それを見て見ぬフリをしていた。


「ぜんっぜん分かんねェなァ。数学は。おれキライ。」

「…おまえは数学以外も分かんねェだろ。」

「まァな。いいよなァ、トラファルガーは。頭よくてよ。父ちゃん譲りか?」

「…知らねェよ。」

「イイ女も寄ってくるしよォ。天は二物を与えずとか言うけど、アレうそだな!」

「…」

「なァ、今度オンナ回してくれよ。お下がりでいいからさ。…これ、サンキュ。」


男はペンを元の位置へ戻した。ケッペキ症の気などないのだが、ローはそれを汚れモノを見るような目で見下ろした。


「…いらねェよ。」

「は?」

「それ。やる。」

「ペンか?くれるのか?…あ、あァ。じゃあ。もらっとく。」


ローの申し出に男は小さく首を傾げた。だけどすぐに口元だけで笑って、ペンを持った右手を上げた。


席を立って去って行こうとした足を、男はなぜか止めた。そして、何かを思い出したように「あっ、」と大きく声を出した。


男はローへ振り向いた。


「そういやトラファルガー。おまえこの学校に幼なじみいるんだってな?」


ページを捲るローの指が固まった。


「今日クラスの女子に聞いてよォ!水くせェな、なんで教えてくれなかったんだよ?」

「…」

「さっきたまたま購買で見かけたんだよ。***、だっけ?」

「…」

「あんまかわいくないけど、あれぜったい処女だろ!…なァ、」


ローの肩に手を掛けて、男は言った。


「アレ、喰わしてよ。」

「…」

「おまえの言うことなら何でも聞くだろ?どっかテキトーなそのへんのラブホとかに呼び出してさ!」

「…」

「処女だからイヤがるかなァ。まっ、多少暴れても、ちょっと横っ面叩けばイッパツだよな!あっ、終わったらおまえもヤる?」

「…」

「あれ?それともおまえ。もしかしてもうあの幼なじみ喰っ、」


それが男の口から出た、さいごの言葉らしい言葉だった。


まるでダンプカーにでも轢かれたかのように、男は教室の端から端へオモチャのようにふっとんだ。


凄まじいその音に、教室中が水を打ったようにしずまった。ペンギンは「ついにやったか」とでも言わんばかりに頭をかかえて、シャチは両目を手の平でおおった。


唸りながら死にかけの虫のように足をバタつかせている男の元へ、ローはのったりと歩いた。


「それ以上やったら死にますよ」と、ペンギンはいちおう声をかけてみた。案の定それはなんの効力もなく、ローの足は止まらなかった。


男のすぐそばまで来ると、ローはそれを見下ろした。男の手からこぼれたペンを拾い上げると、茶パツの頭を引っ掴んだ。男の目は怯えていた。


苦しそうに息をする口の奥で、赤い舌が震えている。ローはペンを振り上げると、舌にペンを突き刺した。


男の悲鳴と、それを目撃した女生徒たちの悲鳴が重なる。ローは立ち上がると、薄く笑って言った。


「よかったな。そのまま味覚が麻痺したら、すれたオンナのアソコでも美味く感じるんじゃねェか?」


うすら笑いを止めて、ローは吐き捨てるように言った。


「その薄汚ねェ舌で、二度とアイツの名前を口にするな。」


トドメを刺そうと、舌に突き立てられたままのペンに足を置いた。女たちは悲鳴をあげるばかりで、男であっても教師であってもローを止められるはずもなかった。


ペンギンもシャチも、こうなったローは自分たちですら手におえないことは身にしみて分かっている。だから、何もできなかった。


ローが、足に力をいれようとした時だった。


「ロー!」


教室の入り口で、女の叫び声がした。その声の主に、ペンギンもシャチも密かに胸をなでおろした。


それは、騒ぎを聞いて駆けつけた***の声だった。


ローの動きも思考も、すべて止まった。


人だかりを掻き分けて、***がローの元へ駆け寄る。***はすぐに状況を把握したようで、ローに笑いかけながら近付いて行った。


「こ、これ以上はダメだよ、ロー。」

「…」

「ほら、あ、足どけて?」

「…」

「あ、ははっ、つ、強いね!さすがロー!」

「…」

「か、勝ったから、もういいよね?」

「…」

「ね。もうやめよう?…ね。」


***が一声、一声かけるたびに、ローの力が抜けていくのが目に見えて分かった。それは、ペンギンとシャチだけに伝わったものではなかった。


泣き出していた女生徒たちの涙は止まったし、教師たちの強張っていた肩はすっかりおちていた。


ローは、ペンに置いていた足を地に戻した。


「…ロー、今日はもう一緒に帰ろう?」

「…あァ。」

「バッグは?」

「ねェ。」

「うん。じゃあ行こっか!」


***はいつもと同じようにローに笑いかけると、刺青の入った手を取って引いた。


二人の歩く先には自ずと道が出来て行って、それをはばもうとする者はだれもいなかった。


教室を出る直前で、***はペンギンの方を見た。「あとのことはお願いします」と、その目が語りかけてきた。ペンギンは軽く右手を上げた。


ローと***が教室を出てからも、しばらくは全員があぜんとした。ペンギンが「だれか119番を」と言ったので、ようやく教師たちも慌てて教室を出た。


ー…‥


「…」

「…」

「…今日、ちょっとあったかいね。」

「…あァ。」

「…」

「…」

「…なんか、イヤなことされた?」

「…」

「ロ、ロー?」

「…ペン。」

「へ?」

「ペンを、勝手に使われた。」

「…」

「…」

「そ、そっか。それはよくないね。」

「…」

「貸してね、って言ってからじゃないとね。」

「…」


未だに繋がれたままの手と手を、ローはずっと見ていた。小さな白い手が、自分と繋がっていることで少しずつ汚れていっているような気がした。


真っ青と、そこへ立ち昇るグレー。いつだったか見たそのコントラストが、目の奥によみがえる。


振り払わなければと思うのに、なぜかそうする気にはなれなかった。


「あ、お、おなか空かないっ?なんか食べに行くっ?」


思いついたように***が振り向いた。ローはあきれたカオを見せた。


「…おまえ、さっき早弁してただろ。」

「えっ、なっ、なぜそれを…!」

「朝メシもちゃんと食ってるくせに、なんでそんなハラ減るんだよ。」


可笑しそうに、ローは笑った。それを見た***は、嬉しそうに笑った。


「…あそこ行くか。」

「え?」

「おまえが行きたがってた甘ったるいパンの店。」

「えっ、あの駅前のパンケーキのお店っ?でっ、でもロー、パンのうえに甘い食べものなんて死んでも食べないって、」

「…イヤってんなら、」

「行く!行きます!わーい!やったー!」


子供みたいにあからさまに喜んで、***は「早く早く」とローの手を引いた。


こういう***を目にするたびに、ローの頬はだらしなくゆるむ。


何がそんなに嬉しいんだか。おまえもおれも。


「あそこのね、生クリームのトッピングがすごいんだよ!」

「…」

「それはもうお山みたいな生クリームがねっ、」

「おまえ、」

「ん?」


振り向いたカオが、さっきの自分と同じようにゆるみきっていて、それ以上は口にする気がうせて、ローは「なんでもねェ」とだけ言った。


「いつまでおれと一緒にいるんだ」なんて、そんなことを聞いたところで、***が答えられるはずもないとも思った。


「…ローさ、」

「あ?」

「た、…退学になっちゃうかな。」

「あァ。まァ。…可能性は高いだろうな。」

「そ、そっか。」

「…」

「…ローが学校来なくなったら、」

「…」

「つまらないね。」


***の声のトーンが沈む。ローはフシギそうに首を左側へひねった。


「なんでだ?」

「えっ、だっ、だってさ、」

「…」

「ロ、…ローのいない学校なんてさ、」

「…」

「つまらないし、さ、寂しいじゃん。」

「おまえも辞めりゃいいだろ。」

「…へ、」


キョト、としたカオで、***はローをみた。ローは再び言った。


「おまえも、辞める。」

「な、なんの話?わ、私も辞めるって、一体何を、」

「だから。おれが退学になったら、おまえも学校辞めるんだよ。」

「え、ええっ?なっ、なんで私まで…!」

「?おまえはおれの幼なじみだろ。」

「そ、その冒頭のハテナが怖いんだけど…!ジ、ジョーダンだよねっ?まっ、まさかほんとに私までっ、」

「…」

「…」


まっすぐなローの目に、***はぐっと押し黙った。そしてやがて、あきらめたかのように小さくため息をついた。


「仕事、探さなきゃな…」

「大学行きゃいいだろ。」

「ロ、ローの頭と一緒にしないで。」

「まァ、おれはそのうち医者になるから。それまで待ってろ。」

「?そ、それまで待ってろ?なにを?」


事もなげに、ローは言った。


「医者になったら、おれがおまえを養ってやるよ。」

「…は、」

「医大に行かなきゃならねェってのがうぜェな。」

「…」

「まァ、おれのことだから最短でなれんだろ。」

「…」

「むしろ良かったかもな。退学で。」

「あ、あの、」

「あ?」

「い、今サラッととんでもないこと言ったよね。」

「何が。」

「だ、だって、そ、それじゃあ、まるで、」

「あァ。」

「ロ、ローと、その、わた、私が、」

「…」

「…」

「?なんだよ。」

「…な、なんでもない。」

「はァ?」


***のカオは、なぜか首まで真っ赤だった。理由は皆目見当もつかないが、これが自分の言動によるものだろうとローには分かる。


蒼くなったり、赤くなったり。汚れたり、キレイになったり。


***の真っ白な心が、自分のせいで忙しなく蝕まれていく。


いっそ、真っ黒に塗り潰してしまえば。


自分と同じように、***も汚れてしまえば。


そうすれば、


一緒にいない方がいい、なんて。考えなくて済むのに。


「あ、なんか曇ってきちゃったね。」

「…あ?」


***が空をみていた。ローも同じ方をみた。真っ青だった空のはしっこから、暗雲が立ちこめている。いつのまにか空は曇天だった。


「…汚ねェグレー。」

「あ、あれ?ロー、晴れより曇りの方が好きじゃなかった?」

「あァ。」

「?」

「まァ、別にどっちでも。」

「あっ、でもあれだね、」

「あ?」


大きくなり始めた暗雲を指さして、***は言った。


「あの雲、ベポに似てないっ?」

「…は?」

「ほら、泥あそびしてちょっと薄汚れてる時のさ!」

「…」

「ベポ、元気かなァ。」

「…」

「…なんか、ベポ思い浮かべたら、」

「…」

「シャケ食べたくなってきた。」


可笑しくなって、ついにローは声をあげて笑った。***もつられるようにして笑った。


「おまえといると、なんだか自分がバカみてェだなと思う時がある。」

「へ?ロ、ローが?なんで?」

「ほんと、脳天気なヤツ。」

「ほ、褒められてるのかけなされてるのか分からないんだけど。」

「褒めてんだよ。」

「そ、そっか。ありがとう。」

「食ったら、ベポんとこ行くか。」

「あ、私もそれ言おうとしてた。」

「ウソつけ。」

「ほ、ほんとだよ。」


伸びたふたつの黒い影が、地上で混じり合ってひとつになっている。


それが妙に美しくみえて、ローは小さく笑った。





蝕まれているのは、果たしてどちらの方か。


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