51

「…………………。」

「…………………。」


ケトルが懸命にお水を沸かしている音と、バラエティ番組の笑い声が流れている。


でも、そんなのよりも私には、私たちが生み出している沈黙の方が、遥かに大きな音に聞こえていた。


食器棚からマグカップをふたつ取り出した。ロビンが泊まりに来たときようにと買ったものだから、いささかデザインがかわいらしい。


突然の来訪者に似合うはずもないそのマグカップを軽く水ですすぐと、タオルを取って水気を拭いた。


何をしていても、全神経はテレビの前に鎮座しているその存在に向かってしまう。


掛時計を見る振りをして、その方へ目をやった。


幻じゃない。ソックリさんでもない。


いる。


たしかにいる。


うちのリビングのテーブルの前に。


…『トラファルガー・ロー』が。


ローはといえば、その長身な体躯には小さすぎるテーブルの上で窮屈そうに頬杖をついていた。つまらなそうにテレビのチャンネルをあちこち回している。


今日見たあのニュースの時より、髪が伸びてる気がする。ヒゲは、あの時のまま、かな。刺青も変わらない。目の下のクマも相変わらず。あっ!うそっ!帽子の形が変わってる!なにあれかわいい、


まったくもってどうでも良いところに思いを巡らせていたら、突然、ローがくるりとこちらを向いた。


思いもよらないできごとに、思いきりよくカオをそむけた。しまった。今のはかなり感じが悪い。


刺すようなローの空気をひしひしと感じながら、なんとか動揺をゴマかそうと空のナベの蓋をあたふたと持ち上げた。なぜ。


やがてローが再びテレビの方へカオを向けたのを気配で悟ると、ナベの蓋を戻しながら気付かれないように深く息を吐いた。


吐きそう。緊張で吐きそう。せっかくのおいしかったご飯がすべて出てきそう。


シュンシュンシュンシュンッ…


ケトルがきっかけを作るかのように、そう声をかけてきた。今だ。行くんだ***。いつまでもそのままでいたって仕方がないじゃないか。ほら、さァ。


そんな声援を受けて、意を決したように大きく息を吸った。


「あっ、…あのっ、」


緊張で水分を失った掠れた声でそう話しかければ、ローは目だけをツンッとこちらへ向けた。


「ばっ、番茶とほうじ茶と緑茶、どれになさいますかっ?」

「…玄米茶。」

「はいっ、ただいま!」


戸棚の奥から玄米茶のティーパックをふたつ取り出した。ティーパックに伸ばした手が、小刻みに情けなく震えていた。


きっ、緊張した…!ものすっごい緊張した…!たったあれだけのことなのに…!


2年前の私すごいな。あの人とフツーに会話してたなんて。信じられない。ほんと尊敬に値する。


昔の自分に敬意を払うという訳のわからないことを考えながら、こめかみから流れてきた汗を拭った。


声。


ひさしぶりに聞いた。なんか、低くなった気がする。いや、こんなものだったかな。…忘れちゃったな。


聞かなきゃ。


何しに、ここへ来たのか。


ちゃんと、聞かなきゃ。


そうは思っても、私の心はそれを全力で拒否している。ローが何をしに、何を伝えにここへ来たのか。大体の予測はついていた。


できれば、聞きたくないと思った。ロー本人の口からは。


「…………………。」

「…………………。」

「あ、あの、」

「…………………。」

「てっ、手紙っ、なんだけど、」

「…………………。」

「よ、読んで、…くれたかな。」

「…………………。」

「あ、あのっ、ローがその、フランスに行く日に、私CAさんにっ、」

「読んだ。」

「えっ、あっ、そ、…そっか!な、ならよかった!あのまま空港のゴミ箱行きになってたらどうしようかと思ったんだよね!私、名前言うの忘れちゃってさ!帰りのバスの中で気が付いたんだよね!ふ、不審物扱いされてたらどうしようかと思っちゃった!あはははははっ…」

「…………………。」

「ははっ…」


渇いた笑いを漏らしながら首を掻いた。その時初めて、自分の身体にじっとりと汗が滲んでいることを知った。


「そ、…その時の手紙にも、書いたんだけど、」

「…………………。」

「ローには、やっぱり、その、」

「…………………。」

「わ、…私から会いに行きたいんだ。」

「…………………。」

「い、今はまだ、その、…どんな報告を聞いても、心の底から祝福できないというか、」

「…………………。」

「いやっ、祝いたい気持ちはあるんだよっ?あるんだけどねっ?その、100%かって言われると、ね、」

「…………………。」

「し、正直、…そうじゃないんだよね。」

「…………………。」

「じゅ、十年以上の片想いだったわけだし!そのへんは少し私の心中も察して頂けるとありがたいというかなんというか、」

「…………………。」

「だから、その、」

「…………………。」

「今日は、…もう、」


ケトルがうるさいくらいに騒いでいるのに、私の耳にはまったく届かない。自分の鼓動の音だけが、耳元でどくどくどくと忙しなく鳴っていた。


ローの方が、怖くて見られない。ただただ、マグカップに放られた安っぽいティーパックを見つめていた。


あの時みたいだ。あの時と同じだ。


ローに振られた、あの雨の日と。


自分がまるで成長していなくて、イヤになる。どうして私は、肝心な時にいつもローのこと、まっすぐに見られないんだろう。


いったい、いつになったら、私は、


その時、右半身に黒い影が重なった。


すべての思考は止まって、右斜め上を見上げる。


見上げた時にはもうすでに、ローのカオは目の前まで迫っていて。


その1秒あとには、ローの長いまつ毛が伏せられた。


ローもこういうときはマンガに出てくる男の子みたいに目を瞑るんだな、と、どうでもいいことが先に頭をよぎる。


そんな、他人ごとみたいに思えてしまうほど、信じられないできごとだった。


ローは、私にキスをしていた。


数秒経ってから、ローのカオが離れていった。まるでさっきの動きの逆再生のように、ローがゆっくりと瞼を上げる。


私を見下ろす藍の深い瞳の奥を、ただただ見つめた。口は重力に引っ張られるがまま、ただただほうけた。


形のいいローの唇が動いた。


「…まだかよ。」

「…………………は、」

「茶。」

「ちゃ、…あ、茶。お茶。あ、うん。あの、もうすぐ、今、沸いたから。」

「ったく、相変わらず鈍くせェな。」


そう吐き捨てるように言って、ローは小さくあくびをしながらリビングへ戻っていった。再び窮屈そうに頬杖をつくと、チャンネルをあちこち回す。


そんなローを目で追ってから、お茶を淹れた。マグカップの中で薄っぺらいティーパックがふよふよと浮かぶ。玄米の香ばしい香りがしだいに漂ってきた。


お盆の上にふたつのマグカップを並べて乗せると、ローの待つリビングへと向かう。


ローの向かい側に座ると、薄紫のマグカップをローの前に置いた。ローは何も言わずにそれを持ち上げると、ぞぞっ、と音を立ててすすった。写し鏡のように、私もまったく同じ動きをした。


「あァ、眠ィな。さすがに。」

「あ、い、いつ帰ってきたの?」

「あ?さっき。」

「…すぐここに来たの?」

「あァ。」

「あの、…よくここが分かったね。」

「ペンギンに聞いた。」

「あ、あァ。なるほど。」

「街灯の少ねェとこはやめろと、あれほど言っただろ。そのうち越すからな。いらねェモンは捨てとけよ。」

「は、はい。」

「ほんと学習能力のねェヤツだな。また刺されたりしたら、面倒見るのはおれなんだぞ。」

「…あ、あのさ、」

「なんだよ。」

「さ、さっき、あの、ローさ、」

「あァ。」

「わ、私にキ、…キス、したよね?」

「あァ。」


数秒も置かず、戸惑うこともなく、ローはなんてことないようにそう肯定した。むしろそんなことを聞いた私の方がおかしいとでも言わんばかりの平然さだった。


「あ、や、やっぱり?よかったァ!私てっきり妄想で記憶捏造したのかと思っちゃった!」

「そんなヤツいたら頭おかしいだろ。」

「だ、だよね!頭おかしくなっちゃったのかと思ってちょっと放心しちゃった!よかったよかった…」

「安っぽいな。」

「は、はいっ?」

「茶。」

「あ、ご、ごめん。だってほんとに安いから。」

「駅前にあったろ。日本茶がうまい。」

「あ、あァ、抹茶パフェ一緒に食べに行ったところ?」

「あァ。そこで日本茶全種類買っとけ。あとでカードやる。」

「カ、カード?」

「クレジットカード。」

「あ、あのさ、…なんで?」

「あァ?女に金出させるなんて、みっともねェ真似できるか。」

「い、いや、そうじゃなくて。」


変な感じだ。鼓動は暴れ狂ってるのに、頭の中は塗り潰したように真っ白だ。


「な、…なんで、キ、キス、なんて、」

「…………………。」


ローはもう一口お茶をすすると、言った。


「べつに。なんとなく。」

「…………………。」


べつに。なんとなく。


べつに。なんとなく。


「ご、ごめん。なんか、ちょっと、よ、よくわかんない。」

「そうか。じゃあ考えるな。」


そうか。考えなきゃいいのか。


…………………。


いやいや、そういうわけにはいかない。


あれ、なんだ。私がおかしいのか。


思考があっちに行ったりこっちに来たり大騒ぎで、訳がわからない。目の前のトラファルガー・ローという男が、私にはもう異星人にしか見えない。


「ロ、ローは、な、なんとなくで、幼なじみにキ、キスするの?」


渇いた唇をなんとか動かしてそう尋ねれば、ローは私の方へカオを向けた。


「もう幼なじみじゃねェだろ。おまえはおれに惚れてるんだから。」


その一言に、見なくても分かるくらいにカオがいっきに紅潮した。ローは私をまっすぐに見すえて、念を押すように言った。


「好きだろ、おれが。」

「っ、」

「どうせまだ、忘れらんねェんだろ。」


何もかもを見透かすようなその目が、とても恐かった。


言い表せないような、いろんな感情があとからあとからこみ上げてきて、ノドの奥が焼けるように熱くなる。


本当は、心のどこかで、わかってた。


私はきっと、ローを忘れられない。


何年経っても、何十年経っても、だれと一緒にいても、どんなに離れても。


でも、忘れられると、そう思いたかった。


いろんな人に支えられて、私は前に進めていると、そう思いたかった。


この2年、ただひたすらに、この恋心を殺すことだけを考えていた。


そうでもしないと、私は私を壊してしまう。


そう思ったら、ひどく恐ろしくて。


私は、私を守ることに、そのことだけに必死だった。


必死だったのに。


そんな私をあざ笑うかのように、ローの目は真っ直ぐだった。


いつまで経ってもこの人にはかなわないんだと、そう思い知らされて。


悔しさと苛立ちと、


やっぱり、愛しさで。


涙が、溢れて止まらなかった。


立ち上がって、玄関の方を指さした。


「ごめん、っ、帰ってっ、」

「…………………。」

「っ、そうだよ、わたっ、私はっ、」

「…………………。」

「まだ、っ、好きだよっ、」

「…………………。」

「わっ、悪かったねっ、あきっ、あきらめ悪くてっ、」

「…………………。」

「バカみたいだって、っ、思ってるんでしょう?」

「…………………。」

「でも、っ、忘れたフリでもしないと、私っ、」

「…………………。」

「ローのこと、っ、ずっと好きでいちゃうっ、」

「…………………。」

「おっ、幼なじみに、っ、戻れないのっ、」

「…………………。」

「戻れなかったらっ、ずっと、っ、いつまで経ってもっ、ローに、っ、会えないからっ、」

「…………………。」

「だから、っ、だからっ、忘れようとしたのに、」

「…………………。」

「なんでっ、そんなことするのっ、」

「…………………。」

「もう、っ、お願いだから、」

「…………………。」

「私の心、かき乱さないで…!」


嗚咽を漏らしながら、ローを責め立て続けた。ローは、何も言わずにただ黙って私の弾糾を聞いていた。


どうして。どうして、こんなことに。


今までの2年は、いったいなんだったんだろう。幼なじみの椅子を取り戻そうと、必死にやってきたこの2年は。


きっと私たちはもう、幼なじみには戻れない。


ローに想いを告げたあの日から、私たちは変わってしまった。元になんて、戻れるはずもなかった。


膝をつきたい気分だった。立っていられなくて、身体の力をすべて抜いてしまおうと思った時だった。


ローがすくりと立ち上がった。そして、泣きじゃくる私の目の前に立つと、一言。


「言いてェことはそれだけか。」

「…へ、」

「だから、」


妙にドスの効いた声が頭上から聞こえてきて、おそるおそるカオを上げた。ローのこめかみに浮いた青筋を見て、思わず口の中で、ひっ、と小さく呻いた。


「言いてェことはそれだけかって聞いてんだよ。あァ?このクソバカ被害妄想女。」


ゴゴゴゴッという効果音が聞こえてきそうな怖ろしいカオをして、ローは青筋をさらに太くした。私は一歩退いた。


「あっ、あれ?なっ、なんでローが怒っ、」

「黙って聞いてりゃペラペラペラペラ。好き放題言いやがって。」

「すっ、好き放題ってなにっ、私がいつっ、」

「いつ?いつだと?いつもだろうが。いつもいつもいつもいつも、このおれを振り回しやがって。」

「ふっ、振り回してるのはそっちでしょっ?私がいつローをっ、」

「幼なじみだって、最初にそう言ったのはだれだ。」

「…え?」


質問の意図がよくわからなかった。見上げれば、ローは怒ってるような苦しそうな、そんなカオをしていた。


息が止まった。初めて見た。ローのこんな表情は。


「幼なじみならずっと一緒にいると、そう言ったのはだれだ。」

「…………………。」

「もう1人にはしないと、そう言ったのは。」

「…………………。」

「覚えているだろ、***。」


ローは、一歩私に詰め寄った。私は動けなかった。


「おまえが言ったんだ。」

「…………………。」

「おまえが、そう言ったんだぞ。***。」

「…………………。」

「バカみてェだと、自分でもそう思うけどな。」

「…………………。」

「おれには、おれにとっては、ただそれだけが、大切だった。」

「…………………。」

「おまえが、となりにいる。ただ、それだけが。」

「…………………。」

「そしたら、おまえが、」

「…………………。」

「幼なじみならずっと一緒だと、そう言うから。」

「ロ、ロー…」

「だから、おれは…」


ローの声は、しだいに小さくなっていった。小さくなるにつれて、私の胸のいたみはひどくなっていく。


なんてことだ。ほんとに、なんてことだ。


こんなに長いあいだ、想っていたのに。


私はいったい、ローの何を見てきたんだろう。


だって、まったく思いもよらなかった。


ローが、まさかこんなに、ピュアだったなんて。


これじゃあまるで、幼稚園児のレンアイだ。


自分が恋をしていることにも気が付かないくらいに、


ただただ、一緒にいることだけが望みだったなんて。


まさか、あのローが。


そんなことだけを、必死に守ってきたなんて。


ローが、なんだかとても小さく見えた。いつかの公園で見た、あの寂しそうな子どもの頃に。


気が付いたら、たまらず手を伸ばしていた。


「それをてめェは、」


そう唸ってローが私を睨みつける方が早かった。慌てて手を引っこめた。噛み付かれるかと思った。


「無責任にもおれを勝手に好きになって、ずっと騙してただァ?」

「ちょっ、ロっ、ロー、いっ、一旦おちっ、おちついてっ、」

「あげく気持ちに応えられねェと言えば、あっさり離れていきやがって、」

「だっ、だからそれはっ、」

「仕方ねェだろうが。おれはずっと幼なじみだと思ってやってきたんだ。幼なじみならずっと一緒にいると、だれかさんがそう言ったからな!」

「わかっ、わかったっ、謝るからっ、だからちょっと待っ、」

「それを、それをてめェは…!」


ローの刺青だらけの手が伸びてきて、とっさに目を瞑った。引っ叩かれるかと思った。そんなわけないのに。


身体がぐんっと引かれて、何かにぶつかった。薬品とタバコの匂いがいっきに近くなって、目眩がした。


「…会いたかった、***。」

「っ、」

「フランスに行ってからも、ずっと、ずっと。」

「っ、ロー…」

「おまえのいない生活は、もう…」


ローの肩越しに見えていた月が、ぼやけて歪む。どちらの身体が、こんなに震えているのか。もしかしたら、両方かもしれない。


「おれは、恋を知らねェ。だけどもし、この感情をそう呼ぶのなら、










おれは、もうずっと長いあいだ、おまえに恋をしている。」










ああ、私はやっぱり、死んでしまったのかもしれない。


叶わぬ恋に溺れていた私に、神様が哀んで甘い幻を見せてくれているのだ。


もしそうなら、もうこのまま死んでしまっていたい。


本気でそんなことを願った。


「…ローの、心の中は、」

「…あァ。」

「いつも、むずかしくて、」

「…あァ。」

「私には、よく、わからないけど、」

「…………………。」

「だけど、」










『おれは、おまえをそんなふうに見たことはねェ。』

『おれたちは、幼なじみだろ。』










「もし、そうだったら、っ、いいな…」


ひぐひぐと、子どものように泣きじゃくれば、ローが耳元で小さく笑った。


「あァ。おれもそうだったらいいと、思ってる。」


力をゆるめて、ローは私のカオを見た。よほどひどいカオでもしていたのだろう。ローは目をまるくしてから、子どもみたいに笑った。


「そういや、言うの忘れてた。」


袖口で私のカオを拭ってから、ローは言った。


「誕生日おめでとう。***。」


その目が、とろけるように甘ったるくて。


とてもじゃないけどこらえきれなくて、衝動のままローを押し倒すようにしてだきしめた。


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