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「あ、ふってきましたね。」
「え?」
タクシーの運転手さんにそう声をかけられて、私は窓越しに空を見上げた。
少し汚れた窓ガラスを、ひとつ、ふたつと雨粒が濡らしていく。その数はあっというまに増えていった。
「今日は朝から雨予報でしたからねェ。」
「そうだったんですか。よかったです、タクシーに乗れて。」
「ははっ、そうだね。これじゃあ帰りスブ濡れだ。イケメンの恋人に感謝だね。」
「へ?あ、…あははっ、はい。そうですね。」
曖昧に笑ってそう答えた。初対面の人、しかももう出会えるかわからない人にわざわざ否定しなくてもいいと思ったからだ。
信号が赤になって、タクシーがゆっくりと停車した。再び窓の外に目をやれば、アスファルトに雨が叩きつけられて小石が寒そうに濡れていた。
あの時も、私はずっと転がった小石を見つめていた。あの日も、こんな雨だった。
『おれは、おまえのことをそんなふうに見たことはねェ。』
今でも、あの時のローの言葉は一言一句漏らさずに思い出すことができる。
けれど、その声はもう思い出せない。こんな感じだったかな。そんな、曖昧な音になっている。
声だけじゃない。
ローのカオも、手も、大好きだった藍の深い目も、今となってはおぼろげになってしまって、はっきりと思い出すことができない。
十数年間、宝物のようにこつこつ積み重ねた私の中のローの記憶は、たった二年の月日にあっさりと奪い去られてしまった。
「ここはまっすぐですか?」
「えっ、あっ、は、はい!まっすぐ、です。あ、あの横断歩道のあたりで停めて頂ければ大丈夫です。」
考えごとをしていたため、しどろもどろになってしまった。いつのまにか信号は青になっていた。
運転手さんは私の指示どおり、横断歩道の少し手前で車を停めた。「気をつけてね。」と白髪混じりの眉を下げて笑う。こんな日だから、小さな優しさが余計に心に沁みた。
アパートまでは少し距離がある。住宅街に近づくにつれて道幅が狭くなるため、車はいつもあそこでおりていた。
私は歩きながら空を見上げた。雨が矢のようにいくつも向かってくる。
アパートは、ローがいなくなってしばらくしてから引っ越した。
来てくれるんじゃないかと、期待してしまうから。
携帯の番号も変えた。
かかってくるんじゃないかと、期待してしまうから。
この恋心にケリをつけるための、私なりの一歩だった。
ローがいなくなってしばらく経っても、私はずっと泣いていた。
ダリアさんとの婚約を知ってからも、ずっと、ずっと泣いていた。
身体中から水分がなくなってしまうんじゃないかと、本気で心配したくらいだった。
でも、
涙が出なくなったのは、いつからだろう。
泣かなくなったなって、そうふと思い出したのは、いつだったっけ。
ローがいなくても、いつのまにか私は笑っていた。
ローがいなくなったら死んでしまうと、本気で思っていたのに。
当然のことのように、私は今も生きている。
きっと、こうやって忘れていくのだろう。
そして、いつかは「いい思い出」へ風化する。
時の流れは、おそろしい。
あんなに、あんなに想っていたのに。
今では、ローの存在そのものが、まるで幻みたいだ。
「わわっ、結構強くなってきたな。」
突然、ばらばらばらっ、と、木の葉っぱたちが騒ぎだした。それにせかされるように、私は歩くスピードを上げた。
雨に濡れるなんて、何年振りだろう。
ああ、これも「あの時」以来かもしれない。
今日は、ずいぶんとローのことを思い出す。
誕生日だからだろうか。
アパートに近付くにつれて、雨脚は強くなっていく。私はフードをかぶって俯き加減で小走りした。このグレーのマンションを曲がれば、自分のアパートが見えてくる。
曲がったところで、私はフードを取った。今日はお風呂を溜めよう。ガス代と水道代がかかるが、致し方ない。そんなことを考えながら、俯かせていたカオを上げた。
息が、ひくっと止まった。
アパートの玄関の前に、黒い人影が見えた。時刻は23時。荷物が届くような時間でもない。
脈打つ胸を押さえながら、私はよくよく目をこらした。雲が月をかくして意地悪するもんだから、暗くてはっきりと見えない。
やがて、月がゆっくりと現れた。足元、太もも、肩の順で、じらすようにその人物が照らされていく。
本当は、よく見えなくたって、私にはわかっていたのかもしれない。
雨が肩を濡らすのも構わずに、私はただただ立ち尽くした。するべき行動も、言うべき言葉も、今の私には見つけられなかった。
「どうして、」
自然と口を突いて出た言葉は、そのシーンにもっともふさわしい言葉だった。
震える私の唇が言った。
「どうして、こんなところにいるの…?
ロー。」[ 53/70 ][*prev] [next#]
[mokuji]
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