36
わけがわからないまま、ローに連れられてペンギンさん宅をあとにした。
「ロー、あ、あの、」
「…………………。」
ローはなにも言わないまま、道路に停めてある車のドアを開けると、私を乱暴に助手席に押し込む。
「い、いたいよロー、」
「黙れ。乗れ。」
短くそうとだけ言うと、バタンとドアを閉める。
その音があまりにも大きくて、思わず身体がビクリと揺れた。
どうしよう、
どうしよう、
怖い、
ロー、
本気で怒ってる。
長年付き合っているから分かるとか、そんなレベルじゃない。
きっと、初めて会った人が今のローを見ても、100人に100人がそう思うだろう。
ただならぬローのその様子に、私の胸はドカドカと嫌な音を立てた。
ローが、運転席のドアを開けて車に乗る。
私をチラリとも見ることなく、エンジンを掛けて車を走らせた。
その動作ひとつひとつがあまりにも乱暴で、そのたびに私の身体はいちいち揺れてしまう。
「…………………。」
「…………………。」
怖くて、何も口にできない。
今のローに、あと少しでも怒りが足されたら、何をするかわからない。
そう思うと、身体を動かすのも怖くて、私は小さく身を縮めて息を潜めた。
―…‥
一言も言葉を交わさないまま、目的地に着く。
着いた先は、ローのマンションだった。
どうしよう。
行きたくない。
そうは思っても、ローの威圧的な行動がそれを許さない。
私は黙ったまま歩き出したローに、少し早足で着いていった。
―…‥
玄関のドアを開けると、ローは私のバッグを乱暴に床に放った。
いつもなら文句のひとつでも言うところだけど、そんな余裕はまったくない。
「あ、お、おじゃまし、っ、わっ…!!」
突然、手が強く引かれて私は大きくよろめいた。
「ロー、ま、まって、靴がまだ、」
そんな私に見向きもせずに、ローは迷いなくどこかへ足を進める。
ローは、ピタリと止まった先のドアを開けると、その中へ私を倒れるほどの勢いで押し込んだ。
「入れ。」
「…え?」
見ると、そこは浴室だった。
「…あ、あの、だ、大丈夫、お、お風呂ならペンギンさんのところで、」
「だから言ってんだよ。」
苛立ちを多く含んだその言葉と、私を睨み付けるその表情に、ドクンと大きく脈が動く。
「ペンギンと同じ匂いさせてんじゃねェ。」
「え、」
「口答えすんな。さっさと洗い流せ。胸くそ悪ィ。」
吐き捨てるようにそう言うと、大きな音を立ててドアが閉められた。
「…………………。」
放心したまま、のろのろと手を動かす。
その手が、小刻みに震えている。
緊張からか、口の中はカラカラに渇いていた。
「っ、」
どうしよう、
どうしよう、
なんで、なんで、
ぐるぐると目まぐるしく回る思考に、私はじわりと涙を浮かべながら、浴室のドアを開けた。
―…‥
さっきまでの、ペンギンさんとのほのぼのとした時間がうそのよう。
私は大きく息をつくと、リビングのドアを開けた。
真っ暗なままのそこを、月明かりだけが照らしている。
そこに浮かび上がるローのシルエットがあまりにも綺麗で、不覚にも胸がトクンと鳴ってしまった。
「あ、……………上がりました…」
絞り出すようにそう言った私に見向きもせず、ローはソファに座ったまま、手元にあったリモコンを天井に向ける。
パッと室内が明るくなって、やさしかった月の光が目立たなくなってしまった。
「……………座れ。」
「…………………。」
私は何も言わずに、その場に正座した。
「……………どういうつもりだ。」
「…え?」
ローのその問い掛けの意味が分からなくて、私はおそるおそる聞き返す。
「ど、どういうって、」
「てめェ、いい加減にしろよ。」
歯切れの悪い返答に苛立ちが増してしまったのか、ローはギロリと私を睨み付けた。
冷や汗が、こめかみを伝う。
「だ、だって、ご、ごめん、ど、どうしてそんなに怒ってるか分からな、」
「なぜペンギンに頼った。」
「……………え?」
私は、目をまるくしてローを見上げた。
…………………え?
ち、ちょっとまって、
……………それだけ?
それだけでこんなに怒ってるの?
私は、思わずあっけにとられてしまった。
たしかに、ローに内緒でペンギンさんのお世話になったなんて言ったら、不機嫌になるだろうなくらいには思っていたけど…
でも、まさか、
こんな、今にも暴れだしそうになるくらいの怒りを買うなんて…
「答えろ。」
「い、いや、だって、……………ローは旅行中だったし、」
「なにかあったら連絡よこせって言ったはずだ。」
「そ、それは、……………そうだけど、だけど、」
「だけど、なんだ。」
「…………………。」
『トラファルガー先生と旅行なんて、夢みたい!』
「なんだよ。」
「…………………。」
私は、小さく首を振った。
ここでダリアさんの名を出したら、ダリアさんにもとばっちりがいくかもしれない。
そう思ったら、とてもじゃないけど言えなかった。
「……………ロ、ローを頼らなかったとか、そういうんじゃなくて、ほ、ほんとはローに連絡しようと思ったんだけど、」
「しなかっただろうが。」
「だ、だから、それは、」
「結果がすべてだ。おまえはおれじゃなく、ペンギンに頼った。」
「…………………。」
なにも言い返せなくなって、私は深く俯いた。
「ご、ごめんなさ、」
「ペンギンとはもう会えねェと思え。」
「……………は?」
「連絡先も消す。携帯出せ。」
「ち、ちょっとまって、」
予想だにしなかったローのその言葉に、私は思わず立ち上がる。
「ど、どうしてそうなるの、おかしいよ、」
「うるせェ、口答えすんな。さっさと出せ。」
ローの苛立ちが、より増しているのが分かる。
今までに感じたことのない威圧感に、思わず倒れそうになってしまった。
「……………やだ。」
「……………あァ?」
棘のあるその声に怯みそうになる心を、なんとか奮い立たせる。
「そんなの、やだ。」
「…………………。」
「ペ、ペンギンさんは、と、友だちだもん。」
「…………………。」
「お、お世話になったのに、ちゃんとお礼も言えなかったし、……………私は、」
「分かった。」
ピシャリと放たれたその言葉に、身体がビクリと揺れた。
次にローが口にする言葉が怖い。
「おまえはもう、ここから一歩も出さねェ。」
「……………な、」
「仕事も辞めろ。」
「なにいってるの、そんなの、」
ローの目を見て、言葉を失った。
……………この目、
本気だ。
「おまえのアパートも、明日引き払う。」
「ち、ちょっとまってロー、話聞いて、」
「携帯も解約してくる。」
「おねがいロー、話を、」
「それが嫌なら、」
一呼吸置いて、ローは言った。
「ペンギンと縁切れ。」
「…………………。」
まっすぐに射抜かれて、息が止まる。
私が、ローの言ったことに逆らったことは、あまりない。
ローのことは、だれよりも信じてる。
いつも、そう思っていたから。
…………………だけど、
「……………ロー、勝手、」
「…………………。」
「ローは、すごいお医者さんだし、カッコイイし、モテるし、頭も良いし、スポーツもできるし、」
「…………………。」
「思いどおりにならないことなんて、ないかもしれないけど、」
「…………………。」
「みんな、……………どうにもならないことがあって、」
『もう戻れないってっ…!心がそう言ってるのっ…!』
「ほしくても、手に入らないものがあって、」
『想ってる。一人を。……………ずっと。』
「……………伝えたいことがあっても、」
『幼なじみって、ずっと一緒にいるもんなのか。』
「伝えられないことがあるの、」
「…………………。」
「みんながみんな、ローみたいに器用に生きてるわけじゃない、」
「…………………。」
声を、振り絞るようにして、ひとつひとつ口にした。
ローは、なにも言わず、黙ってそれを聞いている。
永遠にも感じる長い沈黙の後、ローが口を開いた。
「……………言いてェことは、それだけか。」
「…………………。」
「他がどうかだと?……………んなこと、どうでもいいんだよ。」
そう吐き捨てるように言うと、ローは私の方へ手を伸ばす。
私の顎に手を掛けると、俯いた私のカオをゆっくりと上に向かせた。
「おまえは、おれのもんだ。」
「…………………。」
「おまえには、おれだけいればいい。」
「…………………。」
「ここにいろ、***。」
「…っ、」
知らず知らず、涙が溢れていた。
我慢しようと思っても、あとからあとから溢れてくる。
……………伝わらない。
ローには、
私の気持ち、ひとつも伝わらない。
「……………きらい、」
「…………………。」
ぽつりと、自然に出た言葉と一緒に、ぼたぼたと涙が床に落ちる。
「っ、ローなんてっ、だいっきらいっ、」
「…………………。」
「っ、ばかあっ…」
「…………………。」
ぐずぐずと鼻水を垂らしながら、みっともなく子どもみたいに泣いた。
ローは、そんな私をなにも言わずに見下ろしている。
「……………おまえがおれをどう思おうが、どうだっていい。」
そう冷たく言い放つと、ローは私から離れてソファへと戻った。
「もう寝ろ。」
「…………………。」
「今日はもう、カオも見たくねェ。」
「…………………。」
「……………さっさと行け。」
「…………………。」
私は自分のバッグを持って、ローが目配せした部屋へと向かう。
どうして、
どうして、こうなるの、
…………………どうして、
「……………おれがいつ、思い通りになんてできた…」
ぽつり、呟くように言ったその言葉に、ピタリとその足を止める。
「え…?」
「…………………。」
「…………………。」
……………聞き間違いかな。
…きっと、そうだよね。
ローが、
あんな弱々しい声、出すわけない。
「……………おやすみなさい…」
遠慮がちにそう言って、寝室のドアを閉めた。
その時、目に入ったローの背中が、
なぜかとても、さみしそうに見えて。
私の胸は、今までにないくらい、ズキズキと悲鳴を上げた。[ 36/70 ][*prev] [next#]
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