32
「着いたぁ!」
かわいらしい門をくぐり抜けると、獣の雄叫びがあちらこちらから聞こえてくる。
日曜日だからか、家族連れやカップルが多く目立った。
「あっ!ロー見てみて!赤ちゃんだって!」
『赤ちゃんが誕生しました』という看板を見つけて走り出そうとしたとき、咎めるような声が後方からした。
「***、走るなって言っただろうが。」
その声に振り返ると、ローが呆れたような困ったようなカオで私を見ていた。
「おまえはほんの数分前に言われたことも覚えてらんねェのか。」
「は、はい。すみません。うっかりでした。」
『傷が開くと面倒だから走ったりすんなよ。』と、車中でローが5回くらい言っていたのをいま思い出しました。
「ご、ごめんね、浮かれちゃってつい…」
「ったく…いい歳して動物園で浮かれてんじゃねェよ。」
「…………………。」
……………ちがうよ、ロー。
動物園にじゃないよ。
「すげェ人だな。うぜェ。」
「う、うぜェとかそんな大きな声で言わないでいただけますか。」
「昔こんなに人いなかっただろ。」
「た、たしかに…最近CMとかもやってるしね…少し有名になってきたのかな。」
そんなことを言いながら、ローはスタスタと目的地へと足を進める。
どうやら赤ちゃんぐまには興味が湧かなかったらしい。
辿り着いた先は、やっぱりいつもの大きな白くまの元。
ベポは大きな身体を大の字にして、ひとり…いや、一匹ヒマをもてあましているようだった。
「ベポ。」
ローのその呼び掛けに、ベポの耳がピクリと揺れた。
いままでのだらけきった動きからは考えられないほど、俊敏な動きでこちらに振り返る。
ベポは『キャプテーン!!』と叫びながら、その大きな身体を揺らして突進してきた。
………………………。
いや、叫びながらはおかしい。
あ、あれ、でもいまたしかに聞こえたような。
幻聴?
「久しぶりだな、ベポ。少し太ってねェか。」
そう言いながら、檻に手を入れてベポの頭をなでる。
その表情が、どことなくいつもより穏やかだ。
それを見て、私の頬は思わずへらりと緩んでしまった。
いつものように裏口からベポの檻の中に入ると、ローはこれまたいつものようにベポの身体に寄り掛かる。
私も反対側で同じように座った。
空を見上げると、真っ青な青の中を、すずめが気持ち良さそうに泳いでいる。
「…晴れたね。」
「…あァ。」
私のその言葉に、ローも同じように空を見上げた。
「やっと来られたね、ベポのところ。」
「そうだな。どっかのだれかさんがあんな間抜けに刺されるなんてことがなきゃ、とっくに来られてたんだけどな。」
「う、ご、ごもっとも…」
嫌味を言われながらも、ゆったりとした時間がローと私のあいだに流れていく。
……………こんなの、久しぶり。
…………………でも、
そんなしあわせな時なのに、
私の心はやっぱりどこか曇ったまま。
『来月始めの土日、トラファルガー先生と旅行に行くの!』
退院当日、病室を訪れてくれたダリアさんが、うれしそうに私に言った言葉だ。
まさか知ってますとは言えない私は、なんとも白々しい演技で『そうなんですか!楽しんできてください!』と答えた。
ローが、女の人と旅行。
多分、初めてだと思う。
ペンギンさんやシャチくんたちが計画した旅行に、友だち皆で行ったりすることはたまにあるけど…
女の人となんて、まずない。
……………『ダリアさんとだから』、
行くんだと思う。
「…………………。」
「…………………。」
「……………あ、あのさ、ロー、」
「…………………。」
「つ……………次の休みって…」
「…………………。」
「…………………。」
「…………………。」
「…………………ロー?」
なかなか返ってこない返答に、不思議に思ってローの方を見た。
…………………あ、
見ると、ベポに寄り掛かったまま、ゆるく目を閉じて眠っているローの姿。
かっ、かっ、かっ、
かわいいっ…!!
はっ、鼻血出そうっ…!!
あっ、しゃっ、写真…!!
写真撮らなきゃっ…!!
ひとしきり身悶えると、先日のダリアさんの言葉が思い出された。
『***ちゃんが運ばれてきてから、ろくに眠ってないんでしょう?』
「…………………。」
……………疲れてるはずなのに、
休みたいはずなのに。
それでもローは、私との約束を守ってくれた。
……………うれしい。
すごく、しあわせ。
しあわせ…
なのに、
私は、ローと一緒に眠っているベポを起こさないように、そっと身体を動かした。
少しだけ近付いて、ローのカオをまじまじと見つめる。
……………綺麗だなぁ。
男の人なのに。
手足もスラっとして、ムダなお肉なんてついてないし。
唇も、鼻も、眉も、
造ったみたいに、綺麗。
ローを型どるひとつひとつのパーツに見とれていると…
…………………あ、
ローの長いまつげに、ベポの毛がついている。
「…………………。」
ゆっくり、ゆっくり、
息を潜めて、ローとの距離を縮める。
ローの目の前まで来ると、おそるおそる手を伸ばした。
……………取ってあげるだけ。
少しだけ触って、毛を払ってあげるだけ。
それだけだと分かっているのに。
狂ったように暴れだす、私の心臓。
…………………触りたい。
触られたい。
『その身体で確かめろ。』
……………あんなふうに、
いやらしく、触られてみたい。
ねぇ、ロー。
……………知ってた?
私、
…………………女の子なんだよ。
そんなことを思いながら、ゆっくりと手を伸ばしていく。
…………………あと、
数センチ。
…………………そのときだった。
「…………………、」
微かに揺れる、ローの長いまつげ。
ゆっくりとまぶたを開いたローは、真っ先にその瞳に私を映した。
「…………………。」
「…………………。」
「…………………なんだ、この手。」
「…………………………ま、まつげに、ベポの、あれ、あの、……………毛が、ついてるよ。」
動揺を悟られないようにしどろもどろにそう言うと、ローは自分のまつげに手を伸ばした。
はらりと地面に落ちる、アイボリーの綿毛。
私はなにも言わずに、そっと元の位置へと戻った。
…………………あっ、
危なっ…!!
びっくりしたっ…!!
いきなり起きるからっ…!!
ローにバレないように、噴き出した汗をそっと拭う。
「あー、寝た。」
「じゅ、10分くらいしかたってないよ。」
「充分だ。」
「…………………。」
10分で充分なんて。
私にはとても考えられない。
お医者さんという特殊な職ならではだ。
……………私には、引っくり返ってもわかってあげられない。
…………………でも、
ダリアさんなら。
きっと、ローのそういう大変さもわかってくれる。
……………ダリアさんなら。
「……………腹減ったな。」
「…………………………へ?」
考え事をしていたため、反応が遅れてしまった。
「つくってきたんだろ。34ページ。」
「あっ、うっ、うんっ!!」
薄く笑いながらそう言ったローに、私は揚々とお弁当箱を取り出した。
ドキドキしながらひとつずつ、ふたを開けていく。
「ど、どうぞ…」
「…………………。」
ローは、病室でリクエストしてくれたドライカレーに手を伸ばした。
34ページってなんのことかと思ってたけど…
まさか、ローがあの本見てたなんて。
それを知った時は死ぬほど恥ずかしかった。
「……………ど、どうですか…」
「…………………。」
黙々と咀嚼するローをそぉっと見上げて問い掛ける。
「……………まァまァだな。」
「ほ、ほんと?」
その言い方と表情からして、どうやらお気に召して頂けたらしい。
よっ、よかった…!!
パクパクと、ローにしてはめずらしく箸を進めてくれる。
その姿を見て、どうしようもなく胸がいっぱいになった。
「……………ロー。」
「…あァ?」
「……………旅行、楽しんできてね。」
「…………………楽しむもなにも、ただ風呂入りに行くだけだ。」
「…おみやげよろしくね。」
「……………図々しいな、おまえ。」
「へへっ…」
「…………………。」
「…………………。」
「…………………なにかあったら、」
「え?」
「……………なにかあったら、連絡よこせ。そんな遠くじゃねェから。」
「…………………うん。……………ありがとう。」
再び空を見上げると、
二匹のすずめが、別れるようにそれぞれの道へ翔んでいって、
いつしか、遠く、見えなくなっていった。[ 32/70 ][*prev] [next#]
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