05

 お、終わっ、たー……!


 あの深いため息からおよそ四時間後。ようやくその部屋の床が姿を現したのだ。


 お疲れ様、私。よくやった、私。


 途中ソファの上で寝そべりながら読み終わった本をポイっと投げ出したヤツを見て、ほんとに殴ってやろうと思った。


 とにかく、終わった……終わったんだ……!


「なに一人で盛り上がってやがる」

「どうせローは労ってくれないだろうから自分で自分を労ってるの。それからローとはもう縁切るから。うんざりだから、ほんと」

「そうか、それはありがてェな。……おら、行くぞ」

「え?」


 ローが部屋の電気を消していく。


 真っ暗の中、私は慌てて自分のバッグを手にした。


「ちょ、ちょっと……! 私けっこう頑張ったんだけど……! せめてお茶くらい出してくれてもいいんじゃないでしょうかっ」

「あァ? ぬるいことぬかしてんじゃねェよ。おれは腹減ってんだよ。誰かさんがモタモタしやがるから。……メシ食いに行くぞ」


 そう言って長い足でスタスタと行ってしまった。


 よかった。もう少し一緒にいられる。


 私は先ほどの怒りと疲労を忘れ、軽い足取りでその後ろ姿を追った。





 ローの家の近くにある、おしゃれなイタリアンのお店に連れて来られた。


 こんな私服で入るにはいささか抵抗があるくらいのお店なんだけど……。


 それに、なんか……あれだ。


 いつもの居酒屋の雰囲気と違うから……


 なんか……なんか……


「緊張してんのか」


 驚いてカオを上げると、ローが頬杖をつきながら意地の悪い笑みを浮かべていた。


「べっ、べつにそういうんじゃっ」

「どうせ誰も連れてきてくれねェんだろ? 寂しい女」

「そ、そんなことないよ。私にだってそういう人の一人や二人」

「そうか」


 そう言うとローは、私にメニューを手渡した。


「頼めよ、好きなもん」

「あ、ありがとう」


 メニューに視線を落として、固まる。


 ……なにこれ。全部イタリア語だ。全っ然読めない……。


「あ、あの」

「なんだよ、初めてじゃねェんだろ。さっさと頼めよ」


 ローの口角が、先程よりも上がっている。


 こっ、このドS男……!


「……読めないです。連れてきてもらったことないです。嘘ついてごめんなさい」


 ぺこりと頭を下げてメニューを戻すと、ローは満足そうに口の端を上げてそれを受け取った。


「おまえが好きそうなもん適当に頼むぞ」

「お願いします」


 ローは難なく注文を済ませていく。


 ……ああ、もう。……かっこいいなァ。


「つまんねェ意地は張らねェことだな」

「ハイ。以後気を付けます」

「それにしてもあれだな。こうしてると恋人同士に見えるんだろうな、おれら」

「……は?」


 ローが、からかうような視線を私に向けてくる。


 惑わされるな、***! ドキドキするな、***!


「そっ、そうかもね。一応男と女だしね」


 よ、よしよし。ちょっとどもちゃったけどうまく返してやっ


 ……ん?


 右手に違和感を感じて視線を移すと、ローの左手が私のそれに重なっている。


 な、な、なっ……!


「なにっ、何してるのっ……!」

「別に」


 そのまま私の手をとって、自分の口元に寄せようとする。


 ちょちょちょ……! ちょっと……!


 私のドキドキが最高潮に達した、その時だった。


「ロー!」


 その声に驚いて、勢いよく手を引っ込めた。


 声のした方を見ると、カオを赤くして私たちを睨む女性の姿。


 あ、あれ……? この人……。


「誰よこの女っ!」


 そう叫びながら、その女性は私を指差した。


 やっぱり……ローの恋人だ!


「喚き散らしてんじゃねェよ、うるせェな。馴れ馴れしく名前呼ぶんじゃねェ」


 ローは動揺する素振りもなく、冷たく言い放った。


「恋人に対して馴れ馴れしくってなに何よっ?」


 どどど、どうしよう……! 弁解したほうがいいよねっ? ただの幼なじみですって。


 で、でも、こういうときって口挟もうとすると大体『あなたには聞いてないわ! 黙ってて!』とか言われるよね。昼ドラでよく見るもん。


 っていうか、なんでローこんなに落ち着いてるのっ?


 私もうドキドキして堪らないんだけど! 一切関係ないのに!


「ローがちっとも部屋にいれてくれないからなんかおかしいと思ったら……こんな女は平気で家に入れるのね!」


 私が部屋に入るところ見てたんだ。それは傷付くよね。恋人が他の女の人を家に入れてたら……。


 な、なんか忍びない。私、ただの幼なじみなんです。ただ本の片付けをさせられてただけなんです……。


「おれがこの女と何してようがてめェには関係ねェ。たかだか二、三度ヤったくれェでいい気になってんじゃねェよ」


 そう言われると、その女性はカオを真っ赤にして涙を浮かべた。


「ロ、ロー。ちょっと言い過ぎなんじゃ……」

「うるせェ。おまえは黙ってろ」


 ……ハイ。


「なんでこの女が名前呼んでも怒らないのよっ?」

「あ、それはですね、私がただの幼な」

「あなたには聞いてないわ! 黙ってて!」


 や、やっぱり言われた。……もう黙ってよう。


「私をこんなにコケにしてっ……ただで済むと思ってんのっ? パパに言いつけて、あんたなんてあの病院で働けなくしてやるからっ!」


 なっ……!


「ちょっ、ちょっと待ってくださっ」

「勝手にしろよ」


 私を遮って、ローが刺すような瞳で彼女を捕らえた。


 ……背中が、ぞくりとする。彼女も、カオを蒼くして汗を垂らしていた。


「なんでもかんでもパパ、パパ……少しはてめェでなんとかできねェのか? 甘ったれのお嬢さんよ」

「なっ、なによおっ」

「泣けば済むと思ってやがる……てめェのそういうとこがイラつくんだよ。……二度とおれの前に現れんじゃねェ」


 ……これだ。私が、ローに気持ちを伝えられない理由。


 ローはこうやって、容赦なく人を切り捨てる。面倒な女になったら、もう会えなくなってしまう。


 だから、私はいつまでもこの幼なじみの椅子に必死ですがっている。


 ……私は、ズルイ。


「っ、覚えてなさいよっ!」


 そう叫んで、彼女は立ち去って行った。


「ったく……つまんねェ理由で尾行なんかしやがって」

「えっ、ロー気付いてたのっ?」

「あんなどんくせェ尾行、気付かねェワケねェだろ」

「そ、そうだったんだ……」

「カマかけて正解だったな。やっとあのバカ女から解放された」


 ……そうか。だからいきなり手なんて握ってきたのね。噛ませ犬にされたんですか、私は。


 もしかして……だから連れてきてくれたのかな、このお店。いつもの居酒屋じゃここから遠いし……。


 ……そっか。


 もやもやと考えてたら、おでこに激痛が走った。


「いだっ」

「勝手に勘違いしてんじゃねェよ。言っとくがここには最初から連れてくるつもりだったんだよ」

「へ? な、なんで?」


 でこピンされた部分を押さえながら聞いた。


「……おまえ、来週誕生日だろうが」

「……あ」

「ったく……自分の誕生日忘れてんじゃねェよ。来週はオペが重なって時間取れそうになかったからな」


 だから今日、と言ってローはワイングラスを私に向かって傾けた。


「誕生日おめでとう、***」


 胸が、きゅうっとなって、泣きそうになった。


「あ、ありがとう、ロー……」


 そう言うと、ローは目を細めて口の端を上げた。


 このままで、いい。ローに会えなくなるなんて、考えただけで頭がおかしくなる。


 私はこみ上げてくる熱いものを圧し殺して、ローのそれに笑って応えた。


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