悪い大人-1

本人が自覚していなくても、自然に他人の心を惹き付ける人がいる。


ちょっとした仕草や表情、匂い、声…


捕らわれてしまえば、抜け出すことは難しい。


人を狂わせてしまうくらいの魅力が、あの人にはあるという。


そんなあの人が、私は少し苦手だ。


―…‥


「失礼します。」


カララ、と軽い音を立てて、その教室のドアが開く。


難しそうな本に落としていたロー先生の視線が、私たちに向いた。


「ロー先生ー!怪我しちゃったー!」


私に支えられたお化粧の濃いクラスメイトは、甲高い声で甘えるように言う。


「……………怪我してんならしてるなりのテンションで来い。」


重い腰を上げて、ロー先生は処置をするときに使う椅子に座った。


「座れ。」

「はーい!」


ロー先生が顎で示したその椅子にクラスメイトを座らせると、その子は「***ちゃん、もういいよ!ありがとう!」と言った。


なるほど、二人きりになりたいらしい。


「じゃあ失礼します。」


ぺこりと頭を下げて立ち去ろうとしたとき、後ろから「***。」と呼び掛ける声がする。


「はっ、はいっ!」

「……………放課後来い。頼みてェことがある。」

「は、はい…」


クラスメイトの怪我した足に視線を落としながら、ロー先生は私を見ずに言った。


「先生、私が来てあげるよぉ。」

「うるせェ、おまえはいい。」

「ひどーい!」


そんな会話を聞きながら、私はゆっくりと扉を閉めた。


……………はー、緊張したぁ…


放課後、やだなぁ…


なんで保健委員なんてなっちゃったんだろう…


凄まじい倍率だった保健委員は、クラス全員参加のくじ引きで決められた。


当たりを引いたときの、女子全員の恨めしい目は一生忘れられない。


できればだれかにお譲りしたかったが、担任がそれを許さなかった。


そう、


私は、ロー先生が苦手だ。


カッコ良すぎて、なにを話していいか分からない。


ロー先生も、私じゃなくてもっと綺麗な人の方が良かっただろうに。


そんなことを思って、またひとつ大きな溜め息をついた。


―…‥


コンコン、カララ、失礼します。


その一連の流れは、一定のリズムで行われる。


ロー先生による入室許可を促す声は、いつも聞こえてこないからだ。


以前、それを待っていたら、扉を開けたロー先生に『なに突っ立ってんだ、さっさと入れ』と言われた。


だけど、今日はやっぱり待った方が良かったかもしれない。


「…!!」


私の目に映った光景は、


ベッドに座るロー先生と、向かい合うように立っている一人の女性。


二人の距離があまりにも近くて、見てはいけないものを見てしまった気持ちになった。


「……………あら、***さん、どうしたの?」

「あっ、えっと、ロ、ロー先生に呼ばれてて、」

「ああ、***さんはそういえば保健委員だったわね。」


そう言って、私のクラスの美人な委員長は朗らかに笑った。


「……………では失礼します、ロー先生。」

「……………あァ。」


何かを含んだような意味ありげなやり取りに、思わず目をそらす。


カタン、と古くさい音を立てて、委員長は扉を閉めて去っていった。


「…………………。」


ロー先生はベッドから腰を上げると、床に置かれたダンボールを指さした。


「備品が届いた。そこの戸棚にしまってくれ。」

「はっ、はい!」


動揺を悟られないようにと、少し大きめな声でそう返す。


……………早く終わらせて帰ろう。


居たたまれない空気を払拭するかのように、私は手を動かし始めた。


……………まさか、


あの真面目で清楚な委員長が、


…………………ロー先生と、


「っ、わっ…!」


先ほどの光景がふわりと脳裏に浮かんで、動揺した私は両手いっぱいに持ったガーゼを床にばらまいてしまった。


「すっ、すみません…!」


私のその言葉に、ロー先生は目線だけを私に向けると、すぐにそれを本へと戻した。


「…………………。」


……………そんな目で見なくても…


あの目が、苦手だ。


なんだか、バカにされてるみたいで。


恥ずかしいような空しいような、なんともいえない気持ちになりながら、すべての備品を棚へとしまい終わる。


「……………お、終わりました。」

「……………あァ。」

「では、失礼します。」


そう頭を下げて、そそくさと早足で出口へ向かう。


扉の取っ手に手を掛けて、開こうとした、


その時、


「…!」


突然、大きな影に覆われた。


手を掛けた扉の取っての真上には、男の人の綺麗な手。


その手によって、扉の開閉は止められてしまっている。


なぜか、ドクンとひとつ、鼓動が高鳴った。


「………………あ、あの、まだなにか、」

「見ただろ。」

「え、」


なんのことかと、呆けたカオで先生を見上げると、端正なカオが思いの外近くにあって、身体がビクリと揺れた。


「さっき、あいつとおれが何してたか……………見ただろ。」

「…!!」


あいつというのは、さっきまで先生と二人きりでいた委員長のことだということは、容易に想像がついた。


そして、ロー先生が言っている「何」がなんのことなのかということも。


そう、二人はあの時、確かに、


……………キスをしていた。


「……………み、……………見てません。」

「…………………。」

「…………………み、……………見ましたけど、」

「…………………。」

「……………見なかったことにします…」

「…………………。」


我ながらわけのわからない理屈だけど、言ったことにうそはない。


そんなことを言いふらそうなんていう野蛮な気持ちはまったくなかったのだから。


「なるほど…」

「…………………。」

「おまえは真面目な生徒だと聞いている。」

「…………………。」


だれに、なんてことは分かりきっていたから、あえてそこは流しておいた。


「くだらねェ噂流して喜ぶようなやつじゃねェとは思うが、」


そこで言葉を切ると、先生はおもむろに身体を屈めた。


その「行為」は、あまりにも自然な流れで行われる。


先生の藍が深い瞳に、ゼロの距離で見つめられて、初めてなにをされたか自覚した。


「…………………な、せ、……………先生、いま、な、なに、なにを、」


しどろもどろにやっとの思いでそう口にすると、ロー先生の唇は綺麗な弧を描く。


その表情に、くらりと目眩がした。


「口止めだ。これでおまえも、共犯。」

「き、共犯って…」

「生徒との、しかも委員長なんてやってやがるアイツとの変な噂なんて、流されちゃ困るんだよ。」

「……………い、言わないって、い、言ったじゃないですか、」

「念には念を、って言うだろ。」

「……………だからって、なんで、」


その続きを口にできずにいると、ロー先生は私の耳元に唇を寄せた。


「保健室のセンセーとキスなんてしていいと思ってんのか?」

「っ、」


思わず言葉を失っていると、ロー先生がくつくつと喉を鳴らして笑う。


「これがバレても退学にはならねェだろうが、他の奴らには白い目で見られるだろうな。」

「な、」

「どうやらおれは『人気者』らしいからな。……………無理矢理された、って言ってやろうか?」

「ひ、ひど、」


身体がかあっと熱くなって、瞳には薄く膜が張る。


「それが嫌なら黙ってろ。」

「っ、」

「くく…いい子だ。」


ロー先生はそう妖しく笑ったあと、するり、私の頬をなでながら言った。


「『仲良く』しようぜ、……………***。」


―…‥


それからというもの、私はことあるごとにロー先生に呼び出されるようになった。


用なんて全然大したことなくて、やれそこの本を取れだとか煙草を買ってこいだとかなんだとかかんだとか。


今じゃもう立派なパシリっぷりである。


放課後はロー先生のところへ行っていいようにこき使われる、ということが日課になっていた。


ロー先生にとっては、どうやら監視のつもりらしい。


「言わないって言ってるのにな…」

「あァ?」


ロー先生に頼まれた、なんてことないものの10分くらいで終わる備品整理をしながらそう独り言を呟くと、堂々と煙草をふかしているロー先生にそう聞き返された。


「あ、いや、な、なんでもありませ、」

「念には念をって言ってるだろ。」


「…………………。」


……………聞こえてたんですね。


私は罰が悪くなって、ロー先生に向けていた身体をそっと備品をしまっている戸棚へ戻した。


「…………………。」

「…………………。」

「…………………あ、あのー、」

「……………なんだ。」


分厚い本に目を落としたまま、ロー先生は短くそう答える。


「ど、どうしてそんなにばらされたら困るんですか?」

「…………………。」

「ま、万が一ばれても、しゃ、写真があるわけじゃないし、いくらでも言い訳できるだろうし、」

「…………………。」

「こんな、……………私なんかを監視してまで徹底することないと思うんですけど…」

「…………………。」

「…………………。」


まずい、怒らせたかも。


ここ何日かで疑問に思ったことを、つい口に出してしまった。


だって、私にキスするなんてことのほうが、リスクが高い気がする。


委員長にばれたら破局もんだ。


まぁ、そんなことを委員長に暴露する勇気もないけど。


すると、ロー先生はゆっくりとカオを上げて、私をまっすぐに見つめた。


その口の端が厭らしく上がっていて、私の身体はふるりと震える。


「おれはな、惚れた女は徹底的に縛る主義だ。」

「…………………はい?」

「変な虫がつきやしねェか、……………監視が必要だろ?」

「…………………。」

「だから今、この学校を辞めるわけにはいかねェんだよ。」


高校生の男なんて、獣みてェなもんだからな、と、ロー先生は付け加えてあっさりと本に視線を戻した。


ロー先生のほうが獣みたいです、なんて思ってみても口にはできないチキンな私。


「それに、」

「え?」


本から目を離さずに、ロー先生はぼそり、呟くように言った。


「アイツんちは厳しいからな。」

「…………………。」

「それが本当であろうと嘘であろうと、面倒なことになるのは目に見えてる。」

「…………………。」


おそらく、最後に言ったことが本当の理由だろう。


なるほど、一見冷たそうに見えるロー先生も、好きな女の子には甘いらしい。


そんなことを思ったら、じくり、胸が焼けるように痛んだ。


まさか、そんな、


うそだと思いたい。


…………………ロー先生に守られてるあの子を、


うらやましいと思ってしまうなんて。


「……………ロー先生、終わりました。」

「あァ。」

「では、しつれいします。」


そう一礼して足早に立ち去ろうとした、その時、


「***、」


低くて綺麗な声で名を呼ばれて、思わず身体がびくりと揺れる。


ゆっくりとロー先生の方を振り返ると、ロー先生はいつのまにか本を机の上に置いて、身体ごとまっすぐに私のほうへ向いていた。


「…………………来い。」

「…………………。」


有無をいわさぬ鋭い視線に促されて、私はおずおずとロー先生の方へと足を進める。


ロー先生の前まで来ると、私はぴたりと足を止めた。


「……………屈め。」

「…………………。」

「***、」

「…………………ロ、ロー先生、もう、その、こ、こういうことは…」

「…………………。」

「私、言いませんか、」


その続きの言葉ごと、私の唇は強引にロー先生に奪われる。


あの日以来、ロー先生は毎日私にキスをするようになった。


好きでもない私とキスをしてまで、


ロー先生は、大好きなあの子を守っている。


ロー先生にキスをされるたびに、


私の心には、針でひっかけたような傷が、ひとつひとつ、できていて、


それでも、もっと、もっとと、ほしがる自分が、


惨めで、みにくくて、いやらしくて、


私の目には、じわり、涙が浮かんだ。


い大人


に、捕まりました。


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