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「おう、聞いたかよエース!いよいよ決まったらしいぜ、例の件!」
「サッチ…」
食堂で昼食をとっていると、サッチがそう言いながらとなりに座った。
「例の件って…あのアメリカ異動の人選か?」
「あァ!オヤジにさっきばったり会ってよ!そう言ってたんだ。」
「そうなのか…」
オヤジというのは、この会社の社長のことだ。
一風変わった見た目もそうだが、なにより社員を『息子』『娘』と呼ぶ、なんとも面白い男。
社内でいま持ちきりの『例の件』とは、そのオヤジの右腕として、一緒にアメリカへ連れていく人選のことだった。
「やっぱりマルコだろ、ここは。」
「まァな、妥当な線でいくとやっぱアイツだよなァ。くっそ、いいなァアメリカ!おれも行きてェ!」
サッチがオーバーなリアクションで悔しさを表現する。
それを見て、エースは苦笑いを浮かべた。
「どうせおまえは女目当てだろ?」
「あったりめェだろうが!キンパツのねーちゃんと一回でいいからヤってみてェ…」
「おまえは職場でなにを口走ってんだ。」
「おまえにはわかんねェよ、独り身のこの侘しさは…***ちゃんがいるもんなァ、エースには。」
その名に、エースの胸がぎくりとなる。
「そういや***ちゃん元気か?」
「ん?あ、……………あァ…」
「そうか、最近会えてねェなァ。」
そう呟くように言いながら、サッチは再びラーメンを食べ始める。
「…………………。」
……………元気か。
正直、分からない。
というのも、***に最近、会っていないからだ。
***は、必ず毎日連絡を取りたいというタイプの女ではない。
エースが忙しかったり、友だちとどこかへ出掛けているときは、連絡を控える。
それが、少し寂しく感じていたものだが…
いまは正直、助かっている。
こんな状況で、***とどう接していいかが、分からない。
「そろそろなんとかしねェとな…」
「あ?なにが?」
「いや、なんでもねェ。」
エースは、ごまかすようにチャーハンにかぶり付いた。
―…‥
「ふぅ…」
伸びをしながら時計を見ると、針はもう9時をさしていた。
「帰るか。」
エースはデスクの上を片付けると、席を立った。
遅くなっちまったな…
アイツ、ちゃんと飯食ってるかな。
…適当になんか買ってくか。
薄暗くなった社内を歩きながら、ぼんやりとそんなことを考える。
最近、
家に帰ることを、楽しみに思ってる。
アイツが、待ってるから。
昔のことを考えると、不安はあった。
もう、いないかもしれないと、そう思うと始めの頃は玄関のドアを開けるのが怖かった。
だけど、あれから毎晩、愛し合うたびに「もうエースから離れない」と、約束をくれる。
そのため、不安は少しずつなくなりつつあった。
……………やっぱりおれは、
アイツのことが、好きなのかもしれない。
……………***のことよりも。
いつまでも、このままではいられない。
愛がないかもしれないのに、
***のことを、縛り付けることはできない。
おれと別れれば、***だって、次の男にいけるんだ。
分かってる。
……………分かってるのに。
***の、あの日だまりみたいに笑うカオとか、
ベッドでじゃれあってるときの、少し照れた表情とか、
料理が苦手なくせに、いっぱい食うおれのために、密かに練習してくれるとことか…
そんな、***のことを思い出すたびに、
やっぱり、離したくねェとか思っちまって…
「最低だな、おれ…」
***のことだけを想ってた時のおれが、今のおれを見たら、絶対にぶん殴ってる。
大きく溜め息をついて、ふと視線を上げたときだった。
「!……………***…」
エレベーターの前に、***が立っている。
「おつかれさま、エース!」
ふわりと笑ってそう言った***に、エースの胸がじくりと痛んだ。
「お、おう、……………今帰りか?」
「ううん、エースのこと、待ってた。」
「ま、待ってた?おれを?」
「うん、……………あ、乗るでしょ?」
そう言って、***はエレベーターのボタンを押して、エースに先に乗るよう促す。
「あ、あァ、悪ィ…」
先に乗り込んだエースに続いて、***もその箱に足を進めた。
扉が閉まると、久しぶりの二人きりの空間。
恋人とのそんな重たい空気に、エースは今まで感じたことのない居心地の悪さを感じてしまった。
「…………………エース、」
すると突然、***がエースをまっすぐに見つめて、思いもよらぬことを口にする。
「……………………キスして。」
「……………へ?」
思わず、まぬけな声がエースの口をついて出た。
「こ、ここでか?」
「ふふっ…エースはいっつもしたくなったらどこでもするくせに。」
「い、いや、まァ、それは…」
会社で***に迫ることなど、エースにとってはめずらしいことではない。
ただ、***からそんなことを言い出したのは、これが初めてだった。
「……………だめ?」
「……………………。」
「……………エース?」
「いや、……………んなわけねェだろ?」
ぎこちなく笑うと、エースはそっと***の頬に手を添えた。
ゆっくりカオを下げていくと、
久しぶりに見る、***の女の表情。
なぜか、息が苦しくなった。
少しだけ唇を重ねて離れると、***は潤んだ瞳でエースを見つめる。
「エース、……………今日、うちに来ない?」
「え?」
「久しぶりに、泊まりにおいでよ。」
「…………………。」
「あ、き、昨日ね、食材買いすぎちゃって!ご飯たくさん作るから、エースにも食べるの手伝ってほしいなって!」
「…………………。」
恋人の家に泊まって、ご飯を食べて寝て終わり、とはいかない。
やっぱり、キスの続きの行為があるわけで…
……………キスだけでもこんなに罪悪感を感じるのに、
セックスなんて絶対できない。
「あー…、」
「…………………。」
「わ、悪ィ!きょ、今日は、そ、その、……………マルコが泊まりにくることになっててよ!」
「…………………。」
「だ、だから、……………その、」
しどろもどろにそう答えるエースから、***は目をそらさなかった。
「…………………そっか!わかった!」
そう言って、***は眉をハの字に寄せて笑う。
その表情が、今にも泣きだしそうに見えて、エースの胸がどくりと嫌な音を立てた。
「なら、しかたないね!」
「…………………***、」
「あ、着いたよ!」
チン、と小気味いい音を鳴らして、エレベーターが到着を告げる。
「じゃあね、エース!おつかれさま!」
そういつものように笑って、足早に去っていく***の後ろ姿。
「…………………***!」
エースはたまらず***に声を掛けた。
「え?」
「あ、……………あァ、いや、」
振り返った***から、エースは罰が悪そうに目をそらす。
「ま、……………また明日な!」
「……………………うん!」
そう答えた***が小さく手を振ったので、エースもそれに応えるように手を振った。
…………………なにしてんだ、おれは…
でも、なぜか、不安でたまらなかった。
………………………あのまま、***が、
夜の闇に溶けて、いなくなってしまいそうで。
「また明日、か…」
おれって、ほんと最低。
結局、自分のことしか考えてねェんだな…
エースは今までにない自己嫌悪に苛まれて、力なくその場にしゃがみ込んでしまった。
気付かなかった、
君の、小さな小さな、サイン。[ 5/11 ][*prev] [next#]
[mokuji]
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