5

「おう、聞いたかよエース!いよいよ決まったらしいぜ、例の件!」

「サッチ…」


食堂で昼食をとっていると、サッチがそう言いながらとなりに座った。


「例の件って…あのアメリカ異動の人選か?」

「あァ!オヤジにさっきばったり会ってよ!そう言ってたんだ。」

「そうなのか…」


オヤジというのは、この会社の社長のことだ。


一風変わった見た目もそうだが、なにより社員を『息子』『娘』と呼ぶ、なんとも面白い男。


社内でいま持ちきりの『例の件』とは、そのオヤジの右腕として、一緒にアメリカへ連れていく人選のことだった。


「やっぱりマルコだろ、ここは。」

「まァな、妥当な線でいくとやっぱアイツだよなァ。くっそ、いいなァアメリカ!おれも行きてェ!」


サッチがオーバーなリアクションで悔しさを表現する。


それを見て、エースは苦笑いを浮かべた。


「どうせおまえは女目当てだろ?」

「あったりめェだろうが!キンパツのねーちゃんと一回でいいからヤってみてェ…」

「おまえは職場でなにを口走ってんだ。」

「おまえにはわかんねェよ、独り身のこの侘しさは…***ちゃんがいるもんなァ、エースには。」


その名に、エースの胸がぎくりとなる。


「そういや***ちゃん元気か?」

「ん?あ、……………あァ…」

「そうか、最近会えてねェなァ。」


そう呟くように言いながら、サッチは再びラーメンを食べ始める。


「…………………。」


……………元気か。


正直、分からない。


というのも、***に最近、会っていないからだ。


***は、必ず毎日連絡を取りたいというタイプの女ではない。


エースが忙しかったり、友だちとどこかへ出掛けているときは、連絡を控える。


それが、少し寂しく感じていたものだが…


いまは正直、助かっている。


こんな状況で、***とどう接していいかが、分からない。


「そろそろなんとかしねェとな…」

「あ?なにが?」

「いや、なんでもねェ。」


エースは、ごまかすようにチャーハンにかぶり付いた。


―…‥


「ふぅ…」


伸びをしながら時計を見ると、針はもう9時をさしていた。


「帰るか。」


エースはデスクの上を片付けると、席を立った。


遅くなっちまったな…


アイツ、ちゃんと飯食ってるかな。


…適当になんか買ってくか。


薄暗くなった社内を歩きながら、ぼんやりとそんなことを考える。


最近、


家に帰ることを、楽しみに思ってる。


アイツが、待ってるから。


昔のことを考えると、不安はあった。


もう、いないかもしれないと、そう思うと始めの頃は玄関のドアを開けるのが怖かった。


だけど、あれから毎晩、愛し合うたびに「もうエースから離れない」と、約束をくれる。


そのため、不安は少しずつなくなりつつあった。


……………やっぱりおれは、


アイツのことが、好きなのかもしれない。


……………***のことよりも。


いつまでも、このままではいられない。


愛がないかもしれないのに、


***のことを、縛り付けることはできない。


おれと別れれば、***だって、次の男にいけるんだ。


分かってる。


……………分かってるのに。


***の、あの日だまりみたいに笑うカオとか、


ベッドでじゃれあってるときの、少し照れた表情とか、


料理が苦手なくせに、いっぱい食うおれのために、密かに練習してくれるとことか…


そんな、***のことを思い出すたびに、


やっぱり、離したくねェとか思っちまって…


「最低だな、おれ…」


***のことだけを想ってた時のおれが、今のおれを見たら、絶対にぶん殴ってる。


大きく溜め息をついて、ふと視線を上げたときだった。


「!……………***…」


エレベーターの前に、***が立っている。


「おつかれさま、エース!」


ふわりと笑ってそう言った***に、エースの胸がじくりと痛んだ。


「お、おう、……………今帰りか?」

「ううん、エースのこと、待ってた。」

「ま、待ってた?おれを?」

「うん、……………あ、乗るでしょ?」


そう言って、***はエレベーターのボタンを押して、エースに先に乗るよう促す。


「あ、あァ、悪ィ…」


先に乗り込んだエースに続いて、***もその箱に足を進めた。


扉が閉まると、久しぶりの二人きりの空間。


恋人とのそんな重たい空気に、エースは今まで感じたことのない居心地の悪さを感じてしまった。


「…………………エース、」


すると突然、***がエースをまっすぐに見つめて、思いもよらぬことを口にする。


「……………………キスして。」

「……………へ?」


思わず、まぬけな声がエースの口をついて出た。


「こ、ここでか?」

「ふふっ…エースはいっつもしたくなったらどこでもするくせに。」

「い、いや、まァ、それは…」


会社で***に迫ることなど、エースにとってはめずらしいことではない。


ただ、***からそんなことを言い出したのは、これが初めてだった。


「……………だめ?」

「……………………。」

「……………エース?」

「いや、……………んなわけねェだろ?」


ぎこちなく笑うと、エースはそっと***の頬に手を添えた。


ゆっくりカオを下げていくと、


久しぶりに見る、***の女の表情。


なぜか、息が苦しくなった。


少しだけ唇を重ねて離れると、***は潤んだ瞳でエースを見つめる。


「エース、……………今日、うちに来ない?」

「え?」

「久しぶりに、泊まりにおいでよ。」

「…………………。」

「あ、き、昨日ね、食材買いすぎちゃって!ご飯たくさん作るから、エースにも食べるの手伝ってほしいなって!」

「…………………。」


恋人の家に泊まって、ご飯を食べて寝て終わり、とはいかない。


やっぱり、キスの続きの行為があるわけで…


……………キスだけでもこんなに罪悪感を感じるのに、


セックスなんて絶対できない。


「あー…、」

「…………………。」

「わ、悪ィ!きょ、今日は、そ、その、……………マルコが泊まりにくることになっててよ!」

「…………………。」

「だ、だから、……………その、」


しどろもどろにそう答えるエースから、***は目をそらさなかった。


「…………………そっか!わかった!」


そう言って、***は眉をハの字に寄せて笑う。


その表情が、今にも泣きだしそうに見えて、エースの胸がどくりと嫌な音を立てた。


「なら、しかたないね!」

「…………………***、」

「あ、着いたよ!」


チン、と小気味いい音を鳴らして、エレベーターが到着を告げる。


「じゃあね、エース!おつかれさま!」


そういつものように笑って、足早に去っていく***の後ろ姿。


「…………………***!」


エースはたまらず***に声を掛けた。


「え?」

「あ、……………あァ、いや、」


振り返った***から、エースは罰が悪そうに目をそらす。


「ま、……………また明日な!」

「……………………うん!」


そう答えた***が小さく手を振ったので、エースもそれに応えるように手を振った。


…………………なにしてんだ、おれは…


でも、なぜか、不安でたまらなかった。


………………………あのまま、***が、


夜の闇に溶けて、いなくなってしまいそうで。


「また明日、か…」


おれって、ほんと最低。


結局、自分のことしか考えてねェんだな…


エースは今までにない自己嫌悪に苛まれて、力なくその場にしゃがみ込んでしまった。


気付かなかった、


君の、小さな小さな、サイン。


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