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ミーティングルームに、必要な資料やモニターなどを準備する。
その手が時々止まって、それに気付いてまた慌てて手を動かす。
これを、多分もう30回以上は繰り返していた。
「…………………。」
考えてしまうのは、昨日のあの光景。
思わぬかたちで、エースの様子がおかしい理由が判明してしまった。
…………………まさか、
浮気、してたなんて…
再び、ピタリと手が止まる。
…………………いや、
あれは、『浮気』じゃない。
なぜなら、
私は、あの女性を知っている。
いつだったか、エースに借りた本の間から、ヒラリと何かが落ちた。
拾い上げたそれは、少し古びた写真。
そこには、しあわせそうに笑うエースと、
とても綺麗な、女の人。
その写真を見たときと同じように、私はまたあの日のことを思い出した。
3年前―…‥
「あれ?」
仕事からの帰り道、歩道に横たわるように座っている男性の姿に目を奪われた。
あれって…
エース、くん…?
同僚であるエースくんは、ふわふわとしたくせのある黒い髪と、整ったカオに散りばめられたそばかすが印象的だ。
配属された部署が違うため、あまり話をしたことはないが、仕事ができて女性にモテるエースくんの噂は、いろんなところで耳にする。
ど、どうしよう…
あんなところでどうしたんだろう。
私はしばらく迷ったが、ただならぬその様子のエースくんを放っておくわけにもいかず、おそるおそる近付いていった。
「エ、エースくん…?」
「……………んあー?」
私の呼び掛けに、エースくんがゆっくりとカオを上げる。
遠目で見ていたときには分からなかったが、強いお酒の匂いが鼻をついた。
「だ、大丈夫?」
「……………あれ…?おまえ、」
エースくんが、真っ赤なカオでへらりと笑った。
「***!***だよな?」
「あ、は、はい…あの、」
「なんでおまえこんなとこにいんだ?」
「あ、え、と…仕事さっき終わって、」
「おォ、そうか!」
おつかれさん!と元気に笑って、私の頭をぽんぽんとやさしく叩く。
「偉いなァ、***は…」
視点が定まらない様子で、エースくんは呟くようにそう口にした。
相当よっぱらってる…
「エースくん…立てる?おうちに帰らなきゃ、」
「帰りたくねェ。」
「……………え?」
突然のハッキリとした意思表示に、私は目をまるくした。
「……………帰りたく……………ねェんだ。」
「エースく、」
「……………アイツ、」
エースくんは、弱々しく、ぽつりぽつりと話し始めた。
「アイツ……………帰ってこねェんだ…」
「ア、アイツ…?」
「おれのこと、大好きだって……………言ったくせに…」
「…………………。」
「待っても待っても……………帰ってこねェ。」
「…………………。」
「海みたいな……………女でさ。」
「…………………。」
「気紛れで……………いっつもふらふらしてて…」
「…………………。」
「他に……………男いんのも知ってたけど…」
「…………………。」
「それでも……………よかったんだ……………一緒にいられれば…」
そこまで言うと、エースくんは大きな手でカオを覆った。
「……………愛してたんだ。」
「…………………。」
いつも明るくて、元気なエースくん。
みんな憧れてて、いつも輪の中心にいて。
悩みなんてあるのかな、なんて。
エースくんを見かけるたびに、そう思っていた。
…………………けど、
「……………エースくん、いまお水買ってくるからここに、……………っ!!」
そう言って立ち上がろうとしたところで、おもむろにグイっと強く手首を引かれる。
収まったのは、エースくんの胸の中だった。
「エっ、エースくんっ…!どどどっ、どうし、」
「***はやさしいなァ。」
そう柔らかな声で囁かれて、思わず身体がビクリと揺れてしまった。
「……………なァ、」
「…!!」
エースくんの潤んだ瞳が、至近距離で私を捕らえる。
「慰めてよ……………***。」
目を閉じて、苦しげに眉を寄せながら、エースくんが額を私のそれに寄せる。
「一人でいたくねェ。」
「……………エースく、」
「頼む、***…」
ゆっくりと目を開いて、すがるように言った。
「抱かせてくれ。」
…………………エースくんが、
あの、エースくんが、
私を求めてくれている。
そう思うと、胸がどうしようもなくきゅっと疼いた。
…………………ほんとは、
ずっと、エースくんを見ていた。
太陽みたいに笑うところが、
とても、素敵だなって。
……………好きだなって。
ずっと、そう思ってた。
私は、答える代わりにエースくんにキスをした。
すると、エースくんは一瞬驚いたようなカオをしたけど、その後でゆっくりと目を閉じた。
……………付き合ってもいない人と、こんなことするなんて。
頭ではそう思っていても、
身体はとても正直で。
ずっと憧れていたその人に、求められたのがうれしくて。
なにより、
また、笑ってほしくて。
私は求められるがまま、甘くてせつない夜に溺れていった。
そして、それから何日かたったある日…
「…………………あ。」
「……………あ…」
給湯室でお湯を沸かしていたら、偶然エースくんが姿を現した。
「あー…えっと、」
「おつかれさま、エースくん。」
気まずそうに頬を掻いたエースくんを見て見ぬふりして、私はいつもどおりに挨拶した。
「ごめんね、もう少しで終わるから。」
「あ、あァ…」
シュンシュンとお湯の沸く音と、自分の鼓動の音だけが耳に届く。
……………落ち着け、落ち着け。
いつもどおり、いつもどおり。
もし、少しでも動揺を見せたら、
エースくんの重荷になる。
マグカップに素早くお湯を注ぐと、私はスルリとエースくんの横をすり抜けた。
「じゃあお先に…」
「…………………あ…」
そのまま立ち去ろうとしたその時、
「……………***!」
突然エースくんに呼び止められて、私は慌てて振り返った。
「はっ、はい!」
「あ、あのさ……………その、」
エースくんは少しだけ俯くと、思いきった様子でカオを上げる。
「今日メシ行かねェか?」
「…………………へ?」
エースくんのその言葉に、私は思わず情けない声を上げる。
「すぐ近くにうまいメシ屋があってよ!」
「…………………。」
「仕事終わったら、一緒に行かねェか?」
「…………………。」
……………ど、どうしよう。
すごくうれしいけど…
このまま、好きな人と身体だけの関係になっていくのは、正直辛い。
「あ……………え、と…」
「あっ!!ちょっ、ちょっとまった!!」
どう断ろうかと言葉を選んでいたら、突然エースくんが慌てたようにそう叫んだ。
「セックスなし!」
「……………へ?」
「あー……………だから、」
照れたように視線を泳がせた後、エースくんは大きく息を吸った。
「今日は、メシ食うだけ。」
「…………………。」
「ほんとそれだけだ。だから、」
「な、なんで…」
そう呟くように口にすると、エースくんは少しだけカオを赤くしてまっすぐに私を見つめた。
そのあまりにも真剣な表情に、胸がきゅうっと悲鳴を上げた。
「***のこと、もっと知りてェ。」
「え…?」
「あのまま終わるの、嫌なんだ。」
……………う、うそ。
ほんとに…?
……………どうしよう。
うれしくて、泣きそう。
「あ、も、もし今日他に予定があったら、また明日か明後日にでも、」
「たっ、楽しみ!」
「へ?」
私のその言葉に、エースくんは目をまるくした。
「あ、だから、その、……………今日楽しみにしてるね、エースくん!」
「…!!……………おう!」
そう言うと、エースくんはまた太陽みたいに笑ってくれた。
それから、何回かデートを重ねて。
1ヶ月後くらいにキスをして。
その2ヶ月後には旅行に連れていってくれた。
その日の夜は、最初のときとは全然違くて。
とても愛しそうに、私に触れてくれた。
ハッキリとした言葉はなかったけど…
それでもエースは、私を大切にしてくれた。
愛されてるって、実感してた。
…………………なのに、
そんなことを考えていたら、ミーティングルームのドアが開いた。
その人物を見て、私の胸はドクリと音を立てる。
「エース…」
「***…」
……………そ、そっか…
このミーティング資料、エースたちの…
「あ……………おつかれさま!」
「あ、あァ…おつかれ。」
エースはぎこちなく笑うと、私のとなりに座った。
「昨日悪かったな。メールと電話、全然気付かなくて…」
「ううん、大丈夫だよ。」
「資料、助かった。せっかく来てくれたのに会えなくてごめんな。」
「…………………。」
結局あの後、しばらくしてからエースの家のポストに封筒を入れて帰った。
『忙しいかな?ポストに入れておきます。』というメールと一緒に。
……………臆病な自分に、ほとほと嫌気がさしてしまう。
「***?どうした?」
「えっ、あっ、うん!ちょっとぼぉっとしちゃった。」
いつものように笑ってそう返すと、エースはほっとしたように頬を弛める。
「じゃあ、頑張ってね!」
「おう、ありがとな。」
私は席を立つと、ドアまでの距離を足早に歩いた。
ドアを開けようとして、その動きが止まる。
そっと後ろを振り返ると、
見慣れているはずの、エースの大きな背中。
それがなぜか、知らない人のものに見えて。
私はどうしようもなく胸が苦しくなって、逃げるようにしてその場をあとにした。[ 4/11 ][*prev] [next#]
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