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「はじめはよ、部屋は狭いし海の匂いはしねェし、ほんと、地獄だなって思ったんだ」


 瞑ったまぶたの裏に、異世界が広がっているのだろう。地獄と揶揄するわりに、エースの口元は緩んでいた。


「だけど、***と一緒に過ごすうちに、悪くねェなって思い始めたんだ。平和で、穏やかで、静かで……。確かに、退屈だなって思うときもあったけど、***を迎えに行くときなんか、今日の飯なにかな、とか、明日は休みだからどこに行こう、とか。そんな、些細なことが楽しみになっていった」


 ゆっくりと目を開ける。わずかに下がった眉尻が、どこか物悲しげに見えた。


「帰らなきゃ、帰りてェなって思いながら……心のどこかで、***とこのまま、家族になって過ごすのも悪くねェなって、そう思ったりもした」


 家族、の言葉に、ドキリとする。エースと***が、二人で同じ家に帰っていく姿を想像してしまった。


「***の世界にはよ、こっちにねェものがたっくさんあるんだよ。例えば、デンシャとかセンタクキとか、ケイタイデンワとか!」

「デンシャ? センタクキ? ……ケイタイデンワ?」


 耳慣れない単語に、途端に興味が湧いてくる。


 それらの形や使い方を、エースは得意げに説明した。そして、不覚にも私は、その説明に聞き入ってしまった。


「はァ……世界は広いんだなァ」


 心の底から感心して、そう呟く。


 エースは、ご機嫌そうに笑っていたかと思うと、突然、ふっと目元を翳らせて、


「多分……あんなに楽しめたのは、***と一緒だったからだろうな」


 と、小さく言った。


 異世界のことなんて、訊くんじゃなかった。エースが、***のことばかり考えてしまうじゃないか。


 エースがそのまま沈黙したので、そっと表情を窺う。


 エースは、見たことのない、愛おしげな眼差しをしていた。


 もし、エースが恋に落ちたとしたら――。相手は、間違いなく***だろう。


 そのことに、当の本人が気付いている様子はない。エースはどうやら、自分のそういう感情には疎いようだった。


 ――いやだ。***にエースをとられるなんて、絶対にいや。


 ずっと一緒にいたんだ。辛いときも、苦しいときも。エースと私は、支え合ってきた。エースにとって、私はきっと、特別だ。今は無理でも、いつかきっと、女の子として意識してくれる。女遊びに飽きたら、私と本当の恋をしてくれる。ずっと、そう信じてやってきた。


 それが、どうしてあんな、ぽっと出てきた女なんかに――。


 きゅっと、下唇を噛む。


 いやだ。エースは、絶対に渡さない。***のことは好きだ。いいヤツだと思ってる。だけど、それとこれとは話が別だ。異世界の人間は、異世界のヤツと恋すればいい。エースじゃなくても、いいじゃないか。


 私には、エースしかいない。エースしか――。


「――! エース! わたしっ」


 勢いよく体を起こして、エースを見る。


 エースは、立派な鼻ちょうちんを作って、ぐーすかといびきをかいて眠っていた。


「寝てるんかいっ」


 勢い余ってツッコミを入れる。いっきに気が抜けて、大きく息を吐いた。


 うつ伏せになって、肘をつく。のんきな寝顔を、食い入るように見つめた。


 このままじゃダメだ。私もちゃんと、スタートラインに立たなければ。


 初恋は、***にあげる。


 だけど、本当の、長く続く恋は、私としようよ。


 私なら、ずっとずっと、一緒にいられる。***みたいに、エースを一人になんてしない。


 きっと、***を忘れさせてみせる。


「……覚悟しててよね」


 そう宣戦布告をして、エースの頬に、初めてのキスをした。


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