44-3

「どうしたの?」

「え?」

「それ、引いてるみたいだよ?」

「え……? ――! うわっ」


 今にも海に引きずり込まれそうな竿を、慌てて持ち直して力任せに引く。そうだ。釣りしてたんだった。


 海面から出てきた糸の先には、魚はおろか、海藻すらも引っかかっていなかった。


「あー。残念だったね」


 隣で固唾を飲んで見守っていた***が、困り顔で笑う。


 ***の笑顔から思わず視線を逸らすと、曖昧に笑い返した。


「ははっ、あんなに勢いよく引いたら、そりゃ命の危険感じて逃げるよね」


 言いながら、釣具の後片付けをはじめる。今日はどうも、気分が乗らない。それに、***は今から、ここで洗濯物を干すようだ。


 なんとなく今は、***と一緒にいたくなかった。


「あれっ、やめちゃうの?」


 洗濯物干しを開始しながら、***が言う。


「あっ、うん……。今日、全然かからないから……」


 本当はさっき始めたばかりだけれど、とっさにそう嘘をついた。後ろめたさから、***のカオは見られなかった。


「そっかァ。そんな日もあるよね」

「……」


 呑気な声色で呑気なことを言う***に、イラッとする。


 “そんな日もある”――そう言えてしまうのは、***がなに不自由なく〈明日〉を約束された世界で生きてこられたからだ。『そんな日もあるけど、明日もチャンスがあるから、気にしなくていい』。そう思えてしまえるから、そんなことが平気で言える。


 私たちのような海賊に、明日なんて約束されていない。ついさっき一緒に食事をしていた仲間が、ほんの数十分後に物言わぬ肉塊になってしまうことだってある。海賊になる前だってそうだ。私はいつ、両親に売られたり殺されたりするか、気が気じゃなかった。両親が寝返りを打つだけで目が覚めてしまうくらい、あの頃の私は眠りが浅くて、満足な睡眠を取ることすらできなかった。眠っている間に、親が私を置いていったらどうしよう――いつも、そんな不安を抱きながら、生きていたから。


 ご機嫌そうに洗濯物を干していく、***を盗み見る。


 ***に初めて会ったとき、鈍臭そうな女だと思った。なにも考えていなさそうだし、いかにも平和ボケしてますっていう感じの女。もちろん、悪いヤツじゃないのはすぐわかった。仲良く……したいなって思ったのも、本当だ。


 だけど、海賊っぽくはない。きっと、怖い目にあったら、すぐに逃げ出してしまう。そう思っていた。


 けれど――。


『走って、助けを呼んできて』


 山賊に襲われたあの日。ヤツらと向き合ったときの、***のあの横顔。


 あのときの***は、エースに似ていた。


 一度向き合ったら、俺は逃げない――そう言い放って、自分よりも強い敵に立ち向かっていく、エースの目に――。


 あの目を見たとき、私は心底悔しかった。なぜなら、あの目は、あの強さは――どんなに頑張っても、手に入れることができなかったから。


『一度向き合ったら、逃げない』


 それは、簡単なようでいて、ひどく難しい。白ひげ海賊団の傘下になってから、私は心のどこかで、“きっと誰かが助けに来てくれる”という甘えを、どうしても捨てきれなかった。今まで〈守られる〉ということに慣れていなかったから、〈守られていたい〉と思うようになってしまった。


 私は、悔しかった。


 ***のあの目を見たとき――まるで、エースに守られているような安心感を、覚えてしまったから。


「よっし。おーわり、っと」


 パンッ、と、洗濯物を叩く音で、はっと肩を揺らす。見ると、洗濯かごの中はすでに空っぽで、***は一仕事終えたみたいにぐるぐると肩を回してコリを和らげているようだった。


「寒くなってきたね。ディモも、中に入ったほうがいいよ」


 船内へ続く扉を指差しながら、***がそう言う。


「あっ……。そうだね。そうする……」


 私の返答を最後まで聞いてから、***は満足げに笑って去っていった。





「エース。エースはさ、***の世界にいるとき、どんなことして過ごしたんだ?」


 そう訊ねると、エースはカオに被せていたテンガロンハットを、人差し指でくいとあげた。そして、眉根を寄せて私を見ると、


「なんだ? おまえ、異世界に行きてェのか?」


 と、質問に質問で返されてしまった。


「異世界に行きたい、っていうか、まァ……そりゃあ、興味はあるよ」


 まさか、『エースと***が、二人きりでどんな生活をしていたのかが知りたい』なんて、素直に言えるわけがない。嘘がバレないよう、表情があまり見えないように、私はエースの隣に寝転んだ。


 見張り台の、狭い、狭いスペース。エースの汗ばんだ固い二の腕が、私の肩にぶつかる。こんな近距離であっても、エースと色っぽい雰囲気になれないのは、おそらく私くらいだろう。私だけ、という響きに、ほんの少し優越感も感じるが、内容が内容なので、やはり複雑な気持ちの方が大きい。


「***との生活かァ……」


 エースの目は、遠くを見つめた。もくもくとした真っ白な雲も、水色の空も、全部全部通り越して、もっと、遠くを見ている。もしかしたら、世界すら、通り越してしまったのかもしれない。


「すごく、楽しかったなァ」


 私にじゃない。


 ここにはいない、***に向けて。エースはきっと、そう言った。


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