43-2

 空が白み始めていたので、てっきり朝が来たのかと思ったけれど、どうやらまだ“夜中”の域だったらしい。訪れた食堂の掛け時計を見上げると、時刻はまだ午前三時を指していた。船員はひとりもいない。


 電気を点けようかどうか迷って、結局点けずに食堂内を進む。点けるほどの暗さでもないし、何より、寝不足の目に人工的な光を当てたくはなかった。


 ……そうか。私は、まだ眠れてないのか。


 思い返せば、エースの寝息をずっと聴いていたような気がする。てっきり、それに起こされたのかと思ったけれど、どうやら覚醒しただけらしかった。


 どうして、私は眠れないんだろう……。エースが、私を頼ってきてくれた。私の隣で、すやすやと子どものように眠ってくれた。エースの心を、ほんの少し救えたような気がして、嬉しかった。――なのに。


 頭が、ずんと重くなる。指の腹で、目頭を強めに揉んだときだった。


「――うお!」


 突然、驚いたような声が入口の方から聞こえた。指を離して目を開けると、そこには何かに慄いたような表情をした、マルコ隊長がいた。


「マ、マルコ隊長……」

「おまっ……電気も点けねェで、こんなところで何してんだよいっ」

「あ……ええっと、お水を飲みに……」


 本当だった。部屋に置いてある水差しの中身が空になってしまったので、水を汲みに来たのだ。私は、マルコ隊長に見えるよう、水差しを持ち上げてみせた。


「……電気くらい点けろよい」


 ゴツゴツとした大きな手が、心臓付近を押さえている。どうやら、相当驚かせてしまったらしい。そういえば、以前にもこんなことがあった。ひとり、早朝の甲板に佇むマルコ隊長の背中に声を掛けたら、マルコ隊長は飛び上がらんばかりに肩を跳ね上げていた。もしかしたら、本当に幽霊の類が苦手なのかもしれない。


「マルコ隊長こそ、どうされたんですか?」

「ああ、俺は――」


 歩きながら、冷蔵庫を開ける。中から、オレンジを一個取って見せた。


「医学書読んでたら、こんな時間になっちまった。読み終えちまいたいんだが、脳に糖分が足りなくてな」


 そう言って、野球ボールのように、オレンジを手の上でバウンドさせた。


「すごい……。勉強熱心ですね」

「仲間の命が懸かってんだ。そりゃ、熱心にもなるだろうよい」


 当たり前のことのように、さらりと言ってのける。武骨な指が、オレンジの皮を剥いていくのを見ながら、私はぼそりと呟いた。


「きっと……みんな、そうなんでしょうね」

「ん?」

「この船の人たちは、みんな……仲間のために、血の滲むような努力をしてる」

「……」

「これからも、そうやって……支え合って、生きていくんですね。この過酷な海を」


 その“これから”に、私はいない。眠れないと愚図るエースを抱きしめることも、軽口を叩くエースと笑い合うことも、何も――何も、できなくなる。


 いなくなってしまえば、エースにしてあげられることは、何もない。


 視界の端で、マルコ隊長がオレンジを口に放った。柑橘系の、爽やかで甘酸っぱい香りが、私の鼻腔まで届く。


 柑橘系の香りは、リラックス効果があると聞いたことがある。そのせいなのか、ゆるゆると身体が弛緩して、私は独り言のように呟いた。


「さっき、エースに、私が恩人以上の存在になっていくから怖い、って。そう言われました」

「……」

「私、エースの心を助けるどころか、怖い思いをさせてしまっているんです」

「……」

「私が、ずっとここにいてあげられたら……。きっと、エースにあんなこと、言わせないで済んだのに」


 すべてが中途半端で、嫌になる。恩人にも、仲間にも、何もなりきれずに。ただ、存在ばかりが大きくて。


 私がいなくなってしまったとき、エースの心の闇は、広がってしまわないだろうか――。


 すると、今まで黙っていたマルコ隊長が、おまえは、と、静かに切り出してきた。


「おまえは、エースのことばっかだねい」

「……え?」


 最初、何を言われたのか、まるでわからなかった。私は、戸惑いの眼差しを、ただただマルコ隊長の横顔へ注いだ。


 マルコ隊長が、ゆっくりと首をこちらへ回す。私の、おそらくは怯えたような目を、まっすぐに見据えてから、言った。


「おまえ――自分の心の闇には、ちゃんと気づいてるか?」


 その問いかけに、私は、はっと息を呑んだ。


 彼の、何もかもを見透かすような眠たげな双眸が、今はどうしようもなく怖かった。


「そんな……」私は、歪に口の端を上げた。「そんな、私には、心の闇なんて、ありません。仮に――仮にあったとしても、エースや――ディモの心の傷に比べたら、私のなんて、そんな――」

「心の傷に、大きいも小せェもねェだろい」


 無理やりに遮るような、大きな声じゃないのに、マルコ隊長の穏やかで諭すような声は、まるで切れ味のいいナイフのように、歯切れの悪い私の心情を、すっぱりと床に切り落とした。


「心の傷の大きさを測れる道具なんて、この世にはねェ。そうだろい?」

「そ、れは……」

「おまえは、十分苦しんでる。おそらくは、エースに出会ってから、ずっと、ずっと」

「……」

「好きな男に気持ちを伝えられないこと、ずっと支えてはやれないこと、ずっとそばにはいられないこと、それから――」ほんの少し、逡巡を見せてから、マルコ隊長は続けた。「そのすべてを、他の女に譲らなきゃならねェこと」


 脳裏に、小さく身を寄せ合う、エースとディモのシルエットが蘇る。


 私は、再び疼き出した胸の痛みを、服の上から押さえつけた。


「そんな……こんなのは、ただのヤキモチです。小さな――ほんとに、小さなことです。今まで、のほほんと平和に生きてきて、大した苦労も、努力もせずに、エース――エースが苦しんでるときに、私はきっと、なんの苦しみも受けずに、ただ普通に生きてきた。こんな、こんな私が、エースの本当の助けになんて、なれやしない。わかってあげられなくて――ディモのように寄り添ってあげられなくて苦しむのは、当然なんです。いつかいなくなるような、無責任な私には、当然の報いで――」

「おまえは、何も悪くない」

「……」

「どうして、そう自分のことばかり責める。平和に生きてきたことが、そんなに悪いことか? エースの苦しみをわかってあげられねェから? 違うだろい。おまえはわかってる。エースの苦しみを、真正面から受け止めて、同じように苦しんでるじゃねェか。その愛情の、一体何が足りねェ」


 じわり、瞳に薄い膜が張る。


 ――だめ。このままじゃあ、私――。


「どうしておまえは、自分のために泣いてやらねェ」


 涙が溢れ落ちそうになって、慌ててマルコ隊長に背を向ける。


 背中から、マルコ隊長のあきれたようなため息が聞こえた。


「……泣かないって、約束したんです」


 蚊の鳴くような声で、そう白状する。


 マルコ隊長は、誰と、と訊いてきた。


「船長さん、と、オヤジさん……」

「……へェ」

「勝手に、心の中で、ですけど」

「……なんじゃそら」


 ククッ、と、あきれたような笑い声がする。


 懸命に涙を引っ込めようとしていると、マルコ隊長が、***、と呼びかけてきた。


「なん――! いったー!」


 突然、目に染みるような痛みを感じる。その後で、オレンジの強い香りと、マルコ隊長の子どもみたいな笑い声。


「はははっ、痛ェかよい」

「痛いですよ! さてはオレンジの皮搾りましたねっ」


 感情に関係なく、涙が溢れ出てくる。服の袖口でそれを拭っていると、マルコ隊長が笑うのをやめて、静かに言った。


「痛いときは、泣けよい」

「……」

「心も、体も」

「……」

「痛むときは、素直に泣いちまうのが一番だ」


 そう言いながら、私のそばから遠ざかっていく。少し離れたところで、椅子を引く音だけが聞こえてきた。


「ほんと、っ、何するんですかっ……」


 ぶわり、涙が溢れた。溢れてから、ぼろり、ぼろりと、頬を伝って落ちていく。


 ――おまえが、どんどんそれ以上の存在になってくから……正直、怖ェ。


 ごめん。ごめんね、エース。


 でも、私も怖いの。エースのことを、どんどん好きになってしまって。離れる日がくるのが、怖くて怖くて、たまらない。


 エース。私――私、本当は――。


「マルコ隊長、っ、私、本当はずっと、エースと一緒にいたい。一緒にいて、私――私が、ずっとそばで、っ、支えてあげたい。エースと一緒に、生きていきたいんです。生きて、っ、生きて、みたかった……」


 泣きじゃくる私に、マルコ隊長は、静かに、穏やかに、そうかい、と言った。


 どうして――どうして、私だけ、世界が違うんだろう。


 どうして、私は、この世界には、生まれてこられなかったんだろう。


 どうして、私、私たちは、離れてしまわなければならないんだろう。


 ――エース、


 どうして、私たち、出逢ってしまったの。


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