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 ディモがモビーディックにふらりとやってきてから、三日がたった。


「こらっ、ちゃんと手当てを受けなさい! ……ディモ!」


 戒めるような叫び声がして、私は後方へ目をやった。それとほぼ同時に、医務室の扉が勢いよく開く。


 ピンク色の舌をべえっと出して、ディモが飛び出してきた。


「やだねー! これくらいの怪我、大丈夫だって!」

「傷が残ったらどうするのっ」

「そんなの別にいいもーん」

「だめよっ、女の子なんだから」

「女の子じゃないよ、海賊! ――あっ、エース!」


 ディモが逃げている先にエースがいる。ディモは、腰から下げた剣を引き抜いて、エースめがけて突進していった。


「エース! 覚悟ー!」

「……ほんっとしつこいな、おまえ」


 とかなんとか言いながら、右腕からは炎が上がっているし、ついでに口角もつり上がっている。


 剣と拳を交えながら、二人は甲板へと転がり出ていった。


「まったく! あの子ったら!」


 いつのまにか私のすぐ後ろまで来ていたナースが、艶やかな頬を膨らませながら憤慨している。よくよく見たら、モビーに来てすぐの頃、エースとキスをしていたあのナースだった。


 私も困り顔で笑った。


「大変そうですね」

「ほんっと、大変よ。エース隊長が二倍になったみたい」

「ははっ、それは大変」


 甲板の騒がしさに目をやりながら、思わず笑ってしまう。ナースも、なんだかんだと小言をこぼしながら呆れ笑いをしていた。


「あと十分もしたらマルコ隊長の拳骨が落ちるだろうから、医務室で本でも読みながら待ってるわ」


 蝶のようにひらひらと手を振りながら、医務室へと戻っていく。


 一人取り残された私は、もう一度甲板の方を見た。甲板にいるクルーたちが、二人の戦闘を楽しげに囃し立てている。


 ふっ、と、無意識に笑いが漏れる。私も船内へと踵を返した。



 

 マルコ隊長が趣味で集めているという書物のジャンルは、非常に多岐に渡っていた。マルコ隊長は船医らしいので、医学書はもちろん、政治、経済、歴史、考古学、小説――はたまた童話や写真集など、エースが読んだなら頭を痛めそうなものからそれなりに楽しめそうなものまで、幅広く揃っている。おそらく、本そのものが好きなのだろう。


 過去にグランドラインで起こった不思議な事例を集めたという書物を、マルコ隊長は貸してくれた。


『おまえやエースの事例、もしかしたら載ってるかもしれねェから、空き時間にでも読んでみろい』


 彼特有の語尾に気を取られながらも、私はマルコ隊長が手にしていた本を無意識のうちに受け取っていた。


 私やエースの事例――つまり、世界そのものを飛び越えて、旅してしまう事例。俗に言う、〈異世界トリップ〉だ。


 他にも関連する本があるかもしれないからと、マルコ隊長が案内してくれた書庫――貴重な書物ばかりなので、普段は立入禁止――で遅めの昼休憩を取りながら、私は借りた本に目を通していた。正直、英語がそこまで得意な方ではないし、この世界にはインターネットがない。分かる単語を目で拾っていきながらの読書なので、内容を理解するまでにいつもの数倍は時間を要した。


「ふう……ちょっと休憩……」


 力を込めていた目頭を揉みながら、誰にともなくそう呟く。ふう、と息をつくと、書庫に備え付けられている天窓を見上げた。


 ウミネコとニュースクーが戯れている声がする。目を瞑ると、私は聴覚に意識を集中させた。


 穏やかな音だ。心が凪のように落ち着く。いつだったかエースが言っていた、海の偉大さはどの世界でも共通だ、という言葉を思い出していた。


 私の世界は、どんな音で溢れていたっけ――波の音を聴きながら、そんなことを思い返そうとする。


 車が走る音、スマホの着信音、芸能人のスキャンダル、パソコンのキーボードを叩く音、誰かの噂話――こうして思い返してみると、随分と騒がしい世界だったように感じる。あれが当たり前だったから、異世界トリップなんて経験をしていなければ、そんなふうに感じることもきっとなかった。


 天窓から射し込む光の線に触れる。じんわりとした暖かさが、手のひらの上で佇んだ。


 ここに来て、一体何日たっているのだろう。この世界の海は目まぐるしい。季節がないから、島によって日の長さが違う。朝夕構わず気分次第でお酒を酌み交わし、陽気に歌い、敵に襲われては戦い、またいつのまにか騒ぎだす。規則正しい生活なんてものとは無縁で、同じことの繰り返し、なんて日はない。明日ないかもしれない命を、燃やして生きる。それが、この世界で生きる海賊なのだろう。


『おまえは、帰るんだろい』――マルコ隊長の言葉を思い出す。


 もちろん、帰る。帰りますとも。私はこの世界の人間ではない。帰るべき場所は、他にある。


 けれど、私は一体、その帰るべき世界を何日空けてしまっているのだろう。家族や友人は? 私がいなくなって、悲しんでしまっているに違いない。仕事は? 仕事はどうなってしまうのだろう。籍はまだあるのだろうか。もう辞めたい、なんて思うこともあったけれど、こうして離れてみるとそれなりに好きな仕事だったのだと思い知らされる。元の世界に戻った途端無職だったらきつい。いや、待てよ。さすがに捜索願いも出されているだろうし、少しは融通してくれないだろうか。だけど、そもそも行方不明の期間が長引けば、死んだものとして処理されてしまうかもしれない。そしたら籍もなにもない。お葬式とか出されてたらどうしよう。アパートの荷物なんかも処分されたりして。捜索願いから何日くらいで死亡認定されるんだろうか。ええっと、スマホスマホ――あ、ネットないんだった。


 私は、埃っぽい床に身を投げた。


 もし、帰るべき世界まで私を待っていてくれなかったら――私は一体、どこへ帰ればいいのだろう。慌しい毎日に身を置きながらも、時間がたつにつれていよいよ焦る気持ちが出てくる。そしてそれは、今考えたところでどうにもならないことばかりで、それが却って私の焦燥感を煽った。エースも、こんな気持ちだったのだろうか。


『***の友だちの父親が……大犯罪者だったらどうする?』

『あの二人は境遇が似てるんだ。生きてきた境遇がさ』


 どうして私……私だけ、エースと同じ世界に生まれてこられなかったんだろう。


 それこそ、今考えたところでどうにもならない。おにぎりをお茶で流し込むと、私は再び本を開いた。



 

「***? 何してたんだ、そんなとこで」


 書庫から出てきたところを、ラクヨウさんに見つかった。やましいことは一切ないけれど、出てきた時の暗い表情を見られてしまったんではないかと、一瞬ギクリとした。


「あ……マルコ隊長に本を借りてまして」

「本? マルコに? なんの」


 表紙をラクヨウさんの方へ向けた。


「グランドラインで起きた不思議な出来事をまとめた本、みたいです」


 表紙を見たからなのか私の答えを聞いたからなのか、ラクヨウさんは合点したように「あァ」と頷いた。


「……***」

「はい」

「ちょっと付き合え」

「……はい?」


 キョトンとした私を置いてけぼりにして、ラクヨウさんはスタスタと歩き出している。


 首を傾げながらも、私はそのあとに続いた。




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