40
「ふつう熟睡しますかね。人の身体の上で」
バッキバキに固まった身体の節を伸ばしながら、私はエースに恨み節を言った。
船内廊下の窓から吹く爽やかな潮風が、エースのくせっ毛を揺らす。窓の向こうでは、すっかり朝日が昇りきっていた。
苦情を受けたエースはといえば、にへっ、と笑いながら、そばかすの上を掻いた。
「悪ィ悪ィ。あー、しかし。よっく寝たァ」
「でしょうね……」
くあっと、気持ちよさそうに欠伸をしたエースを、ジト目で睨みあげる。まったく、自分だけすっきりとしたカオしちゃってさ。
結局あの後、エースはぴくりとも動かず、私を押し潰したまま、夢の世界へ旅立った。
身長百八十センチ越え、体脂肪ほぼゼロパーセントの肉体は非常に重く、下敷きにされた私には、為す術などない。気を失うようにして、私はそのまま眠るしかなかった。
目が覚めた時には、一晩中走ってたんじゃないかと思うくらい、筋肉痛だった。ひどい仕打ちである。
「まァ、そう怒るなって。マルコにはおれから事情説明して、仕事軽くしてもらうように言うからよ」
「……いや、それは大丈夫」
「? なんで」
「……」
なんか、変な誤解を招きそう……。
そんなことを考えながら、食堂までの道程をエースと歩いていると、前方に見慣れた人影が見えてきた。
エースもそれに気付いたようだ。エースは、右手を軽く上げた。
「よー。ディモ。おはよ」
前方から歩いてきたディモちゃんは、エースの姿を見るや否や、フェネックのような目を吊り上げて、ずかずかと歩いてきた。
「エース! なんだよっ。昨日は途中でいなくなったりし――」
そこで糾弾が途切れたのは、ディモちゃんの視線が私に映ったからだ。
ディモちゃんが、慌てたように両手を上げた。
「あっ、ごめんっ。一人だと思ったんだ……」
「えっ? ああ、いえっ。全然っ。そんな……お構いなく……」
初対面同士のぎこちないやり取りを見送ってから、エースは言った。
「悪ィ悪ィ。昨日は途中で、***の様子が気になって――あ、おまえには紹介まだだったな」
「あ……あァ、うん。マルコやサッチに、少し聞いただけ……」
ちらちらと、遠慮がちに送られる視線がくすぐったい。例えるなら、かわいい小動物がおどおどとしているような――そんな、かわいらしい印象だった。
「おれが行方不明になった時、吹っ飛ばされた世界で世話になってたのが、コイツ――***っていうんだ」
「は、はじめまして。***です」
私が頭を下げると、ディモちゃんも続いて頭を下げた。
「あ、ディモ、ですっ。白ひげ海賊団の傘下やってますっ。あの、昨日は突然、その……飛びかかったりして、すみませんでしたっ」
ディモちゃんがなおさら深く頭を下げるので、私は慌てて「大丈夫大丈夫っ」と制した。
「ほんとだぜ。ったく……おまえのせいでマルコに説教されるしよォ」
エースがあきれ口調でそう言うと、ディモちゃんはじとりとエースを睨んで「エースには悪いと思ってない」と言った。
「***、腹減ったし、早く食堂行こうぜ。ディモ、おまえは?」
「あ、あァ。私はもう食べたから、今からイゾウの手伝い……」
「おお。鬼畜の手伝いか。大変だな。せいぜい頑張れよ」
そう言ってエースは、白い歯を見せながらディモちゃんの頭をぐしゃりと撫でた。
「いって……! なにすんだっ。また子ども扱いしてっ」
「子どもだろー。じゃあなー」
後ろ手に手を振りながら、エースはさっさと歩いていく。
私は、ディモちゃんに軽く会釈をしてから、エースの背中を追った。
「今日の朝飯なんだろうなー。なっ、***」
「な、なんだろうねー……」
うわの空で答えながら、私はちらりと後ろへ振り返った。
ディモちゃんが、エースに撫でられた頭に触れながら、頬を赤らめている。
見てはいけないものを見てしまったような、見たくないものを見たような――そんな気持ちになって、私は慌てて目を逸らした。
*
太陽が真上に昇った頃。私は、カゴに入った大量の洗濯済みシーツを抱えて、甲板へ出た。
マルコ隊長からの午後の指示は、「ナースの手伝い」だったため、医務室に仕事をもらいに行けば、血まみれになった大量のシーツを渡された。
それらをすべて洗濯板で洗って、全体重をかけて絞る。その作業を、×十枚分。今日ほど、洗濯機のありがたみが身に沁みたことはない。
洗濯干し用の紐を張るいつもの場所まで行くと、誰かが船の縁に腰かけながら、一人で釣りをしていた。ディモちゃんだ。
赤ちゃんの髪の毛のような柔らかなショートヘアが、潮風に揺れる。ショートパンツから覗く、白く、すらっとした太ももが、太陽の光を反射していた。
「あ、こんにちは……」
「……!」
私がそう声をかけると、ディモちゃんは驚いたように私を見た。
そして、小さな声で「こんにちは」と返してくれた。
「……」
「……」
「あっ、あの……ここで、洗濯物干しても大丈夫ですか?」
「あっ、ああっ。うんっ。大丈夫……」
「ありがとう……」
「……」
「……」
私は洗濯カゴを置くと、甲板の窪みに洗濯用の棒(といっても、ただの丈夫な棒っきれ)を左右に二本挿して、紐を張った。この船に乗ってから、何度か洗濯物干しは頼まれていたので、もはやお手の物である。
十枚も干せるかな……。二回に分けるか。五枚洗った時点で、干しておけばよかった……。
心の中でそんなことを独りごちながら、一枚目のシーツを持ち上げる。
かなりキツめに絞ったつもりだが、洗濯機で脱水したわけではないので、結構な重さがする。
よろよろとよろめきながら干していると、逆方向からすっと細い腕が伸びてきた。
見ると、ディモちゃんがシーツを支えてくれていた。
「あっ、あのっ……手伝うよ」
「えっ。あ……釣り、いいんですか?」
「いいんだ。全然かからないから……」
「あ、じゃあ……」
「……」
「ありがとう……」
「……」
「……」
二人で、黙々とシーツを干していく。ばさばさと、シーツが潮風になびく音だけが、鼓膜に響いていた。
三枚目のシーツを干し終えたあたりだった。ディモちゃんが、思いきったようにカオを上げた。
「あ、あのさっ」
「はっ、はいっ」
うす茶色の瞳を左右に忙しなく揺らしてから、ディモちゃんは小さな声で呟くように言った。
「エ……エースのこと……その……ありがとう」
「……え?」
「あのっ、たっ……助けてくれて!」
「……」
「わっ、私が言うことでもないんだけどさっ。ほらっ、エースとはあの通り、喧嘩してばっかだしっ。戻ってこなければそれはそれで、二番隊隊長の座は私のものだったしっ。別に、いなきゃいないでよかったんだけどっ」
「……」
「……けど」
作り笑いをやめて、ディモちゃんは甲板の床に視線を落とした。
「やっぱり……仲間だから」
「……」
「あんなんでも、いなくなったら、その――」
「寂しかった?」
「――!」
視線を上げたディモちゃんは、いっきに耳まで真っ赤にした。そしてすぐに、「そんなんじゃないっ」と、噛み付くように叫んだ。
そんなディモちゃんを見て、思わず、声に出して笑ってしまう。なんてかわいらしい。
意地悪を言ったお詫びに、フォローの意味も込めて言った。
「心配だよね。急に仲間がいなくなったらさ」
「……」
「エースがいなかったら、周りもみんな暗くなっちゃうし」
「……ま、まァ、騒がしさだけは、ピカイチだからね」
つんっ、と、そっぽを向いて、ディモちゃんはそんな憎まれ口を叩く。
私の頬は、自ずと緩んでいた。
……好きなんだな、きっと。エースのこと。
いいなァ。ちゃんと、"叶う恋"で――。
そんなことを考えて、胸の奥がちくりと痛んだ。
「これで終わりかな?」
最後の一枚を拾い上げて、ディモちゃんがそう言った。
「えっ? あ、ああ……ほんとだ」
「よしっ、ちゃっちゃと――」
ディモちゃんが、最後のシーツを干そうと背伸びをしたところで、甲板の出入り口から彼女を呼ぶ声が聞こえた。
見ると、イゾウさんが気怠そうに右手を上げて、こちらへ手招きをしている。
「ディモちゃん。行って大丈夫だよ」
「でも――」
「最後の一枚だし! 四枚手伝ってもらっただけでも、十分!」
そう言いながら、私はディモちゃんの手からシーツを受け取った。
「じゃあ、お願い」
「うん、ありがとう。助かった」
そう告げると、ディモちゃんは照れくさそうに頬を染めて、小さく頷いた。そして、イゾウさんの方へ向きを変える。
けれど、歩き出す前に、くるりとこちらを振り向いて、言った。
「……"ディモ"」
「……へ?」
「"ディモ"でいいよ。……"ちゃん"ってなんだか、照れくさいし」
そう言い逃げして走り去っていく背中に、私は、
「私も、"***"でいいよっ」
と、慌てて叫んだ。
甲板の出入り口に辿り着いたディモが、振り返って大きく手を振る。
子ウサギのような身体を翻して、ディモは船内へと消えた。[ 41/56 ][*prev] [next#]
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