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「わっ……すごい……!」
船を降り立った私は、目の前の光景に感嘆の声を上げた。
眼前に見えていた島は、正確にいうと〈街〉だった。
赤、緑、黄色、紫……建物が様々なパステルカラーで彩られていて、そこにいる人々もその元気な色にふさわしく、活気が漲っている。
以前テレビで観た、ヨーロッパとか地中海とか、そんな風景にも似ているが、なんとなくそれとも異なる感じがするのは、やはり世界自体が違うせいかもしれない。
大きく息を吸い込めば、潮の匂いと地中海料理の香りが一気に脳まで押し寄せる。昼食は食べたばかりだと言うのに、浅ましくもぐうっとお腹が鳴った。
兎にも角にも、つまり、何が言いたいかというと。
「すごい……! ステキ……!」
「女の子はこういうの、好きだよねェ」
いつのまにやらサッチさんが、私の後方に来ていてそう言った。手には何やらメモ用紙が握られていて、断片的に見える文字から、書いてあるのが食材の名称だと窺えた。
「サッチさんは、食材の買い出しですか?」
「あァ。他のコックとな。食材が底ついて来てたから、ほんと助かったぜ」
そう言って、本当に安堵したように息をつく。おそらく、本当に「ほんと助かったぜ」だったのだろう。
……そうか。街に着いて浮かれてたけど。
私にも、何か役割があるのかもしれない。それこそ、買い出しとか。
だって、下っ端なんだし。
賑わう海賊たちの中から、マルコ隊長を目で探した。しかし、人数が多いのと、皆テンションが高くて声が大きいので、なかなか見つけ出せない。
「***ちゃん。そういや、エースは?」
「エース? あ、そういえば……」
船が島についてすぐは、隣にいたような気がしていたけど、いつのまにかその姿は消えていた。
もしかしたら、隊員たちに何か指示でも出しに行ったのかもしれない。
エースの居所も気がかりではあるが、私はやはり、まず始めにマルコ隊長を探した。
「サッチさん」
「ん?」
「マルコ隊長はどこに」
「***! 待たせた」
肩を叩かれて振り向くと、エースがいた。一瞬、その見た目に違和感を感じたのでよくよく見ると、エースは珍しく裸の上にシャツを羽織っていた。
「エース、こういう時は洋服着るんだね」
「いや。いつもは着ないんだけどよ」
「? じゃあ、なんで着たの?」
そう訊ねれば、エースは親指で自分の背中を指した。
「刺青。見えねェ方がいいだろ」
「? なんで?」
「これは、白ひげ海賊団のシンボルだからな。おまえといる時は、絡まれてトラブルになるのは避けてェ」
「……」
私のためだった。
にやけそうになるのを抑えるために、私は口を真一文字に結んだ。
「ひゅー! エースくん、やっさしー!」
「……うるせェぞ、サッチ。食いモン頼むな」
「おう。任せんしゃい」
そう言うと、サッチさんはひらひらメモを振って去って行った。
「よしっ、行くか***!」
「えっ、あ……!」
右手を強く引かれて、引きずられるようにして歩いて行く。
けれど私の脳裏には、マルコ隊長のしかめっ面がよぎった。
「エース! ちょっ、ちょっと待った……!」
足を懸命に踏ん張って、なんとかその場に留まろうとする。が、エースの力が元々強いので、私は声だけでエースを制止した。
「まずマルコ隊長を探さないとっ」
「……マルコを?」
エースは、ようやく立ち止まって振り向いた。その眉間には、あからさまな不機嫌がにじんだ。
「うん。私、何かやることあるかもしれないし。それ確認してからでないと……」
「……」
考え込んでいるエースの顔には、「確かに」と書かれている。
するとエースは、街に向けていた足を、船の方へ百八十度回転させた。
大体の目星はついているのだろう。数カ所に視線を投げてから、エースはあるところで目を止めた。
「おっ、いたいた……おおい! マルコ!」
エースは、甲板後方へ手を振った。
その方を見れば、確かにマルコ隊長がいて、隊員数人と話し込んでいるようだった。
マルコ隊長は、エースの呼びかけに気付いたようだ。話していた隊員たちに片手を上げると、あの高い船の上からひょいと飛んで、砂浜へ着地した。
マルコ隊長がこちらに向かって来てくれているので、エースもマルコ隊長の方へ足を進めた。私もそれに続いた。
「なんだよい、エース」
「***、なんかやることあんのか?」
「あん?」
マルコ隊長は、エースの陰にいる私を見た。
私は慌てて、一歩前へ進み出た。
「何かやることありますか? 買い出しとか」
「マルコ。今日は***貸してくれよ。***は初めての停泊だしよ。リフレクションさせてやりてェんだ!」
「……リフレッシュな、エース」
そうエースに突っ込みを入れてから、マルコ隊長は私に向き合った。指示を出してくれる時の、あの厳しい目つきではなく、少し柔らかな視線だった。
「今日はいい。エースと出かけてこいよい」
「い、いいんですか?」
「あァ。おれも、何かとやることがある。おまえに指示出してる時間がねェ」
後ろ手に、ひらひらと手を振って、マルコ隊長は去って行った。
その背中に、エースが「サンキュー、マルコ!」と投げかけたので、私も続いて「ありがとうございます」と言った。
「よし! 冒険だ、***!」
「……! うん!」
心踊る、とは、まさにこのことだ。
未経験の地。賑やかな街。活気ある人々。照りつける太陽。
……そして、
「***? 何してんだ、置いてくぞ!」
その太陽より眩しい、好きな人。
何もかもに身体中の血が騒ぎ出して、私は駆け足でエースの隣に並んだ。
*
「すごい! こんなお魚初めて見た!」
「見て見て、エース! すっごい気持ち悪い色のジュース!」
「貝殻のポーチ! かわいい! えっ、手作りなんですかっ?」
子供の頃の、家族旅行を思い出す。こんな風に、初めて見る物すべてに、興奮で鼻の穴を膨らませてたっけ。
「少し落ち着けよ、***」
あの落ち着きのないエースに落ち着けと言われたのだから、今の私のはしゃぎようは相当なのだろう。
「だって、なんか、すごくて」
息も絶え絶えにそう伝えれば、エースはうれしそうに笑ってくれた。
笑顔が太陽みたいだ、本当。眩しい。
「腹減ったな。少し休もうぜ」
「そうだね」
確かに。はしゃぎすぎて喉が渇いている。小腹も少し空いてきた。
道すがらには、露店がたくさん並んでいる。その様子は、私の世界の夏のお祭りを彷彿とさせた。もしかしたらここは、割と観光地なのかもしれない。
「エース、何か買って、あの辺で食べない?」
あの辺、で、私は防波堤を指差した。
所々にある飲食店にも心惹かれるものがあったが、天気もいいし、街並みも気に入ったので、なんとなく屋外にいたかった。
「それいいな! そうしよう」
エースは、快く賛同してくれた。恋人が出来たら、意外と甘やかすタイプかもしれない。
そんなことを頭の隅で考えて、少し心が沈んだ。
いつか、エースにも、そういう人……。
「***! 見ろよ! うまっそうなホットドッグ! これでいいかっ?」
ヨダレを垂らしたエースに呼ばれて、私は暗い気持ちを振り払うように大きく首を縦に振った。
*
「異世界だ……」
ホットドッグを頬張りながら、私はそんなことを呟いた。
隣で船を漕いでいたエースの鼻で、ぱちんっと鼻ちょうちんが割れた。
「んあ? なんだって?」
「はい、エース。ホットドッグ」
「あれ? なんで***が持ってんだ?」
「だって、寝始めるから。手から落ちそうだったんだよ」
そうか、悪ィ悪ィ。と、エースは、にししと笑った。ケチャップまみれのほっぺたがかわいい。思わず、頬がゆるんでしまった。
「んで? なんだって?」
「ん? ……ああ。異世界だなァってさ、ここ」
じゅうっ、と、音を立ててジュースを飲む。色は気持ち悪いのに、意外と美味しくてびっくりした。
「おまえの世界の景色とは、確かに違うもんな」
「そうだね。まず、こんなに海が眼前に広がるなんてこと、ないし」
「おれにとっては、あれが異世界だ」
「ははっ、こういうのに見慣れてたら、確かにそうかもね」
エースは、十七で海へ出たと言っていた。そして、この白ひげ海賊団に入るまでは、スペード海賊団で船長。白ひげ海賊団で、隊長。
親もなく、兄弟を守り、自分の食べる物も家も、自分の力で獲得してきた。
それに比べて、私は何をしてただろう。親が払ってくれたお金で学校に行って、出された温かいご飯を食べて、用意された暖かい布団で眠れた。
そしてそれは、当たり前のことだと思っていた。一人暮らしをして、親の有り難みを学生の頃よりは感じているけれど。
「エースを見てると、なんだか自分が甘ちゃんに感じるよ」
「あまちゃん?」
エースは、ストローを思いきり吸っていた。蛍光緑の液体が、みるみるうちに減っていった。
「甘ったれってこと」
「甘ったれ? ***は甘ったれなのか?」
「甘ったれだよ。エースや、この世界の人たちに比べるとさ」
どんなに強くても、食べ物がなくなれば生きてはいけないと、サッチさんは言った。
この時代に海で生きていく過酷さを、船長さんやベニーくんが教えてくれた。
まだまだ実感は出来ていないけど、海は自然の持ち物だ。この穏やかな海が、牙を剥くこともあるのだろう。
「おれやこの世界と、おまえを比べる必要はねェだろ」
「え?」
「置かれた環境が違けりゃあ、身につく知識や力も、種類が違くて当たり前だ」
潮風が吹いて、エースは目を瞑った。真っ黒なくせっ毛の前髪が、ふわふわと海風に弄ばれる。汗がにじんだそばかすが、宝石のようにキラキラしていた。
「おれは、おまえの世界も好きだ。平和で、穏やかで、お人好しで。……まァ、お人好しはおまえだけかも知れねェが」
エースの口の端が、くいっと上がった。
「毎日、同じようなことの繰り返しの中に、小さな幸せが、いっぱい転がってた。宝石みてェに派手じゃねェし、目を凝らして見てねェと、見逃しちまいそうな、そんな小さなモンだったけど。その一つ一つが、すげェ暖かかった」
潮風が止んだ。エースの前髪が、安心したようにいつもの位置に戻る。そばかすは、相変わらず輝いたまま。
エースは目を開けた。つけまつ毛みたいな長いまつ毛が、つんと空を向く。黒いビー玉みたいな目が、落ち始めた夕焼けで透けた。
「おれは、おまえが生きてきた世界があの世界で良かったと、心底思ったんだ。おまえが何不自由なく生きてこられて、あの世界に心から感謝した」
ビー玉が、私を見る。吸い込まれそうだ。
「だから、いいんだ。おまえは、そのままでさ」
そう言ってほほえんだエースは、どこか大人びて見えた。普段は子どものように真正直で無邪気なのに、本当にたまに、その瞳に穏やかな闇を写す時がある。
エースの生き方なのだろう、これが。そんなことを、頭の片隅で思った。
「……ありがとう、エース」
そして私は、そういうエースだから、好きになってしまったのだ。
「おれだって、おまえの世界じゃ出来ねェことたくさんあったぞ」
「そう?」
「あァ。デンシャだって初めて乗ったし、センタクキだって初めて使った。トショカンも初めて行ったし」
「……図書館はこっちにもあるでしょ。マルコ隊長が言ってたよ」
「……そうだった」
二人で、はははっ、と笑い声を上げた。
幸せって、きっとたくさんあるんだけど、
エースとの時間は、今の私にとって、最上級の幸せだ。
ふと、視線を感じて、エースの方を見た。
エースが、柔らかく目を細めて、私を見つめていた。そして、ゴツゴツした左手が、私に向かって伸びてくる。
左手が私の後頭部を支えると、そのまま引き寄せられた。エースの端正な顔が、右斜めに傾いて近付いて来る。
抵抗するのも忘れて、ぼんやりとその光景に見とれてしまった。
エースが、目を瞑った。
その時、
「ポートガス・D・エース!」
突然、頭上からそんな叫び声が聞こえた。
弾かれたように、二人して同時にその方を見上げる。
夕焼けをバックに、人影が見えた。逆光で、顔も姿も分からない。
ただ一つ分かったのは、その人物が剣のような物を振り上げている真っ最中ということだけだった。
「エース! 覚悟ーッ!」
その言葉と共に、剣がエースに向かって振り下ろされた。[ 38/56 ][*prev] [next#]
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