37
くあっ、とあくびを一つ漏らしながら、エースはドアを開けた。
お天道様が真上に顔を出しているのを見上げて、大体の時間を予測した。
右左と首を振って探し求めるものは、ここ数日、たった一つだ。
「なァ、***は?」
たまたま自分の近くを行き来してたクルーにそう訊ねれば、その男は首を右側へひねった。
「さァ、見てねェなァ。あ、***を知らないかって」
後の方の言葉は、エースに向けてではなかった。
エースが後ろへ振り向くと、しかめっ面したマルコと目が合った。
「よォ、マルコ」
「……おう」
「***どこだ? 今何してる?」
そう問うと、マルコはさらに眉をしかめてエースを見た。
そして、エースに向けて手招きした。
「? なんだよ」
怪訝に眉をひそめながらも、それに従うようにマルコにカオを寄せた。
マルコの節ばった手が、エースのカオに近付けられた。そして、
バチンッ。
「いっでェェェ!」
エースは自分のおでこを押さえながらのたうちまわった。
マルコの右手は、未だにデコピンの形を作っている。
「なっにすんだよ! いってェな!」
「軽はずみなことすんなよい」
「あァ? なんだよ、軽はずみなことって……」
涙目でおでこをさすりながら、エースはマルコの目を見つめ返した。
「とぼけんな。わかってんだろい」
「……***に聞いたのかよ」
「***がどんな人間か、わかってんだろい」
「どんな人間って、なんだよ」
マルコの言わんとしていることはわかっていた。
だからこそ、エースはマルコから目をそらしてそう言った。
「いつかいなくなる女に、軽はずみに手ェ出すな」
「……」
「女なら、他にいくらでも」
「***がいいんだ」
マルコの言葉をさえぎって、エースは言った。
「他じゃねェよ。***がいいから、した」
「……」
「***がずっとここにいらんねェことくらい、おれが一番よく分かってるよ」
「……」
「……いいだろ」
わずかにまつ毛を伏せさせてから、エースは続けた。
「触れられるうちに、触れたって」
エースは、拳を握った。
いいだろ。今だけはそうしたって。
いつかは、どうやったって***には会えなくなるんだ。
だから、今くらいいいじゃねェか。
マルコは、数秒黙っていたが、やがてふうっと、小さくため息をついた。
「それが、軽はずみだってんだよい」
「……どういう意味だよ」
少しの苛立ちをこめて、エースはマルコを見上げた。
その目は、予想していたそれとは違って、どこか哀れむような目だった。
「会えなくなったからって、そう簡単に割り切れるもんじゃねェ」
「? なんだよ、それ。どういう」
「***は見張り台にいるよい」
マルコはそうとだけ言うと、その身を翻して去って行った。
その背中を数秒見つめたのち、エースも歩き出した。
むさ苦しい男たちの身体をすり抜けて、見張り台の下に立って頭上を見上げた。
かすかに、動く人影が見える。
エースは梯子に手を掛けると、するすると上へ上がっていった。
飛び上がってもいいのだが、驚いた***が見張り台から落っこちたらマズイ。
上がっていく最中で、間の抜けた歌声が耳に届いた。
エースは、小さく笑った。
「ビンっクスのさっけをー、とっどけにゆくよー、しーおかーぜきーまかーせ、なっみまーかせー」
「潮風じゃなくて海風だよ」
その声に、***は勢いよくこちらへ振り向いた。
「エっ、エース!」
「ビンクスの酒か。誰に教わったんだ?」
見張り台に足をつけながら、エースはそう訪ねた。
「あ、さ、さっきラクヨウさんがずっと口ずさんでて。それで……」
「あァ、そいつァ災難だな。アイツは詩を何箇所か間違えて覚えてる」
「ええっ、そうなのっ?」
そう言葉を漏らした***に、エースは声を上げて笑った。
***もつられて笑った。
「見張りしてたのか?」
***の手に握られた双眼鏡を見て、エースは言った。
「うん。なんかね、もう少ししたら島に着くんだって」
「へェ、そうなのか」
エースは水平線を見た。島はまだ見えない。
「……エース、どうかしたの?」
「あ? 何が?」
海に向けていたカオを、***に向けた。
目が合う寸前で、***は慌てて眼球を彷徨わせた。
エースと目が合うのを、避けているようだった。
「い、いや。見張り台に用でもあったのかなって思って……」
「……別に見張り台に用なんてねェよ」
「……そっか」
「あァ」
「……」
「……」
こほんっ、と、空咳をすると、***は双眼鏡で水平線を覗いた。
「ど、どんな島だろうね。楽しみだね。私まだ島とか行ったことないから」
言い終わる前に、エースは双眼鏡を***から取り上げた。
目をまるくした***と、本日初めて目が合った。
「ダメだよエース、ちゃんと見てないとっ」
「島が近付くと、肉眼でもぼんやり浮かんでるのが見えるんだよ」
「え? そうなの?」
「あァ。だからまだまだ着かねェよ。そんなに根詰めて見てることねェ」
そう言って、エースは双眼鏡の紐を***の首にぶら下げた。
「そ、そっか。なるほど。ありがとう」
「おう」
「……」
「……」
「……あっ、あっついねェ! 今日は! あははっ」
そうぎこちなく笑って、***はぱたぱたと手で首元を扇いだ。
首筋に、球の汗が伝っている。
エースはテンガロンハットを脱ぐと、***の頭に乗せた。
「被ってろ」
「えっ、あっ、大丈夫」
「いいから。またぶっ倒れちまうぞ」
「……ありがとう」
そう礼を言うと、***は小さく俯いた。
テンガロンハットの鍔を掴む白い手が、小さく震えている。
緊張しているんだと、エースは分かった。
***の心が、自分のことで乱れている。
そう思うと、エースはなぜかとてもうれしかった。
鍔を掴んだままの***の手を、その上から被せるように握った。
***の身体がびくりと揺れて、そのカオが上げられる。
黒目が、困惑で揺れていた。
テンガロンハットごと引き寄せると、***は小さく息を飲んで身構えた。
「エ、エース。ちょっとっ」
「目閉じろよ。ムードのねェヤツだな」
「っ、いやいや、おかしいよ」
「なんもおかしくねェ」
「だって、なんで」
「黙れって」
力任せにさらに引くと、***の身体がよろめいた。
「わっ、」と小さく声を上げた***の口に、自分のそれを押し付けた。
***の身体が、石みたいに固まった。
「ん、***……」
「っ、」
「今日の昼、何食った?」
「え?」
キスの合間にそんなことを訊ねれば、***は潤んだ瞳でエースを見つめた。
「ホ、ホットケーキ……」
「ははっ、やっぱり」
「な、なに?」
戸惑ったように言った***の唇を、エースはぺろりと舐め上げた。
***の肩は驚いたように大きく跳ねた。
「唇、甘い」
「っ、」
「***……もっと」
「っ、やっ、もう」
***の首筋を撫でて黙らせると、エースは先ほどよりも柔らかくキスをした。
しばらくそうしていたが、エースはあることに気がつくと、大きなリップ音を立ててそれを終了させた。
すっかり息のあがった***が、しばらく放心したのち、遠慮がちにエースを睨みあげた。
「エっ、エース! なんでこんなことっ」
「おおっと、文句言ってる暇あんのか?」
「え?」
「ほら、見ろよ」
そう言うと、エースは親指で海の方を指した。
「見えてきたぜ」
***はしばらくなんのことかと思案していたが、やがて慌てたように首から下げた双眼鏡を手にした。
そして、双眼鏡から手を離すと、上からぶら下がっている紐を振った。
カンッ、カンッ、カンッと数回鳴らすと、大きく息を吸って「島が見えたぞォ!」と、不自然な言葉で叫んだのだった。[ 37/56 ][*prev] [next#]
[mokuji]
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