21

『***! 目ェ覚めたんだな!』

「ベニーくん!」


 少し幼い、弾むようなその声を聞いて、私は喜びのあまり叫ぶようにその名前を呼んだ。


『体調はもういいのか? びっくりしたぜ。いきなり倒れるから……』

「ごめんね。驚かせて……」

「ははっ、まァ元気になったならいいけどよ!」


 目の前のカタツムリの表情が、ベニーくんの笑い声とシンクロしている。


 すごい技術だ。どういう仕組みになっているのか、まるでわからない。


『そういやおまえ、あの日どんだけ働いたんだよ! 使わねェような部屋まで綺麗になってたからみんなも船長も驚いてたぞ!』

「あ、はは。あれくらいしかできなかったからの……」

『いやいや、すげェ助かったよ! おかげで今日からまた少しサボれ』

『こら、聞こえてるぞ、ベニー』


 その声とともに、カタツムリのカオがキリリとした表情になった。


「船長さん!」

『***……すっかり具合は良さそうだな。安心したよ』


 その、低めの落ち着いた声を聞いて、心の中に暖房をいれたようにほっこりと胸が暖まる。


「船長さん。お世話になったのにお礼も言えずに……ほんとに、すみませんでした」


 見えないとは分かっていても、頭を下げずにはいられなかった。


 ちゃんと、会ってるときに言いたかったな。


 私が倒れたりしなければ……



『ふっ。そんなこと気にするな。それに礼を言わなければならないのはこっちのほうだ』

「え?」


 船長さんにお礼を言われるようなこと……


 まったく思い当たる節がなくて、私は思わず首を傾げた。


『船を綺麗にしてくれただろう。助かったよ、ありがとう』

「あ……いっ、いえっ。そんな、あれくらい……」

『……***』


 一つ、船長さんの声のトーンが下がって、私は思わず姿勢を正した。


『おまえは、自分で思っているよりも強い』

「え?」

『突然こんな環境に身を置かれて……それでも悲観することなく自分にできることを模索して……懸命にやっていた。おまえが綺麗にしてくれた船を見てあらためて思ったよ。なかなかできることじゃない』

「船長さん……」


 喉の奥が熱くなって、カタツムリがぐにゃりと歪む。


 私は必死にそれを堪えながら、絞り出すように言った。


「それは……船長さんやベニーくんのおかげです。お二人が私によくしてくれたから……だから、私」

『***……』


 船長さんが、少し困ったように笑う。


 一呼吸おいて、船長さんは呟くように続けた。


『もう……会うことはないだろうな』

「……」


 なんとなく、わかってた。


 多分もう、船長さんたちは、この船から遠く離れていってしまっている。


 ……私は、ずっとこの世界にいられるわけじゃない。


 声を聞くのも、これが最後だろう。


 よほどの用件がない限り、連絡することはないと、エースが言っていた。


『***、自信を持て』

「っ、はいっ」

『おまえならきっと、モビーディック号でもやっていける』

「……はいっ」

『頑張りすぎるな。無理をすることはない。何かあれば、オヤジや隊長、隊員たち。それに……エース隊長がいる』

「はい……!」

『***、










おまえに出逢えて、よかった』










 その言葉を聞いた瞬間、



 堪えきれずに、一つ、また一つと落ちていく水滴。


 ……だめ。泣いちゃ、だめ。


 約束、したのに……


『……***』

「っ、ごめんなさい……」

『何も謝ることはない。おれには見えてないからな』


 ……嘘つき。バレバレです、船長さん。


 カタツムリが、なんとも言えない切なげなカオをしている。


 船長さんの目の前にいるカタツムリはきっと、なんとも情けないカオで涙しているに違いない。


『……頬の腫れは引いたか?』

「……はい?」

『殴られただろう、うちの船員に』

「……あ」


そういえば、そんなこともあったような……。


『忘れていたということは、もう大丈夫なんだな』

「は、はい。すっかり。もう全然」


 エースに会う前までは、まだ腫れていたのを覚えている。


『ふっ。そうか……』


 私の答えを聞いて、船長さんは何かを思い出したように笑った。


「あの……それが何か」

『エース隊長が』

「え?」

『おまえが気を失っているとき、エース隊長がずっと冷やしていた』

「……エースが?」

『あァ。しかも、だ。エース隊長、なんて言ったと思う?』

「い、言った? 何をですか?」


 船長さんは思い出し笑いをしているのか、くすくすと一頻り笑った後、こう続けた。


『「せっかくかわいいカオなのに」だ、そうだ』

「……へ」


 奥の方でベニーくんが『エース隊長の好みってわかんねェ!』と爆笑しているのが聞こえた。


 あの子、最後までなんて失敬な。


『***』

「はっ、はい」

『後のことなど、考えても仕方がないぞ』

「え?」

『今、思うまま生きろ、***。離れたときはまた離れたとき、考えればいい』

「……船長さん、でも」

『エース隊長の器は大きい……きっと、受け止めてくれる』

「……船長さ」


 その時、奥の方で船長さんを呼ぶ声がした。


『じゃあ、***』

「はい。ほんとに、ありがとうございました」

『あァ…

「あのっ、それから」

『?』

「……私も、船長さんに出逢えて、ほんとによかったです」

『***……』


 小さく、呟くように、ありがとう、と続けて聞こえた。


 忘れません。


 私のことを信じて、「ここにいてもいい」と言ってくれた。


 私が弱気になると、優しく叱ってくれた。


 暖かく見守ってくれた、紳士的な船長さん。


『じゃあな***! 元気でやれよ!』

「ベニーくん! ありがとう!ベニーくんも元気で!」

『あァ!』


 忘れないよ、ベニーくん。


 素直じゃないけど、面倒見がよくて、優しくて。


 ホットミルク淹れてきてくれたこと、ほんとにうれしかった。


『***、おまえが無事に元の世界に帰れることを祈ってる』

「ありがとうございます。船長さんも、どうかご無事で……!」

『あァ……じゃあ、元気でな』


 その別れの言葉を最後に、カタツムリは目を閉じたまま何も言わなくなってしまった。


「……」


 寂しい。お別れが辛い。


 思いきり、泣いてしまいたい。


 ……でも。


私は、先ほどあふれてしまった涙を拭いて、大きく深呼吸をすると、ドアに向かって歩き出した。


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