恋人以上、恋人未満 3/3
ぴたっ。
まるで、魔法にでもかけられたみたいに、私の神経すべてが停止する。
思わず船長の方を見れば、船長はベッドに横たわりながら、肩肘をついてこちらを見ていた。
「……」
「……」
「……はい?」
「だから。寝てみねェかって。おれと」
「……」
「……」
「……寝る、って」
添い寝的な?
なんて、トボケて誤魔化そうとしたのに、船長の誘うような目が、それを許さなかった。
今の今まで、一体どこに隠し持っていたんだと思うくらい、カラダ全体から覇気のように色気がほとばしっている。
それにあてられてしまったら、一気に船長の匂いを濃く感じて、さっき触れた肌の感触も、手の平を這いずり回って戻ってきた。
真っ白な頭のまま、私はなんとか冷蔵庫の方へ向き直った。酒瓶はとっくに最奥へしまわれているが、船長の方を見たくなくて、尚もそれを押し込む仕草をした。
「お腹だけじゃなくて、頭まで痛くしたんですか」
緊張で乾いた口から、ようやく、ようやくいつもの小言が出た。
今ほど、いつも小言を言っておいて良かったと思ったことはなかった。
「長い付き合いだろう。おれたちも。もう十年近くになる」
「正確には、十五年です」
「おまえのことで知らないことは、もはやそう無いと自負してるんだがな」
「船長、私の誕生日知らないと思いますよ。毎年忘れられてるんで」
「そういや、カラダだけ知らねェなと思って」
"カラダ"なんて言われて、思わず子宮の辺りがむず痒くなる。脳みその血が沸いたんじゃないかと思うくらい、頭からカオにかけて熱くなった。
さすがに小言が出てこない。何も答えられずにいると、船長がフッと笑う気配がした。
「なんだよ。おれが相手は不満か?」
あきれたような、困ったような。なんとも表現しがたいカオで、船長は笑っていた。
駄々漏れていた色気が少し引っ込んで、正直ほっとした。
「いいえ、まさか。光栄です」
「おお、そうか。だったら」
「ですが、私にはとても畏れ多いので、辞退します」
冷蔵庫の扉を閉めて、ようやく立ち上がった。一刻も早く、この空間から立ち去りたい。薬箱の中のラベルを元の位置に並べ直して、蓋を閉めた。
「しつこいようですが、お酒はダメですよ」
「殺菌作用ありそうだけどな」
「……確かに。って、いやいや。そんなわけ」
「畏れ多いってなんだ? おれが船長だからか?」
「えっ? ……いや、まァ」
「……」
「そう、ですね」
意外なほどに食い下がられて、思わずそう口ごもる。
ベッドが軋む音がしたので、つられてそちらを見れば、船長が起き上がってベッドの縁に腰かけていた。
大きく開かれた長い足が、いつでも歓迎する、とでも言っているようで、私はますます動揺した。
「それならこうしよう。これからおれとおまえが二人の時は、ただの男と女になる」
「……は?」
「つまり、おれはただのシャンクスという男で、おまえはただの***という女だ」
「……」
「それなら、畏れを抱くこともないだろう?」
さァ、どうだ。とでも言わんばかりに、船長は満面の笑みで大きく右腕を広げた。
分からない。私は今、なんの提案を受けているんだろう。分からない。さっぱり分からない。
「……必要が、ないと思いますが」
「今のままじゃあ畏れを抱くと、おまえが言ったんじゃないか」
「いや、そうではなくて」
「ん?」
「そもそも、私と船長が、その……そんな関係になる必要は、ないのではないでしょうか」
「確かに、必要はないかもしれないな」
「……船長。もしかして、ほんとにお腹以外も悪くしたんじゃないですか?」
そんなことを本気で心配してしまうくらいに、船長が何を言いだしているのか理解できなかった。
だけど、そんな私の心配をよそに、船長は尚も続けた。
「必要不必要の話じゃないだろう。そういう関係になるのに、理由がいるか?」
「……いや、いると思いますけど。普通」
「……いるのか?」
船長は、心底不思議そうなカオをした。本能で生きているような人だから、本当にそんなこと、考えたこともないのだろう。
アゴひげに手を当てて、船長は険しいカオでうなり始めた。
理由なんて、探したってあるはずもない。きっと、ただの気まぐれだ。そんなものに、こんなにも心を乱されていることが、悔しくなった。
すると船長が「ここ数ヶ月なんだけどな」と切りだした。
「ここ数ヶ月、本当になんとなくだが、いやにおまえのことが目につくんだ」
「……はァ」
「どこにいても何をしてても、***は今どこで何をして誰といるんだろうと、頭の片隅で考えることが多くなって」
「……」
「そんなことを繰り返していたら、おまえという女を隅々まで知っておきたいと」
「……」
「こう思ったわけなんだよ」
「……」
船長に出会って、十五年。
十五年経って初めて、船長が私に興味を示してくれている。
あの。あの、船長が。
その事実に素直に喜べばいいのに、私の中には、彼の「数ヶ月」と「なんとなく」と「頭の片隅」という言葉だけが、強く残った。
こっちは、「十五年間」「本気で」「船長のことだけ」を考えて、生きてきたのだ。
その十五年の垣根を、そんな魔がさしたみたいな感覚で、そうやすやすと乗り越えてほしくなかった。
「……知らなくていいことも、世の中にはたくさんあるんですよ」
我ながら、随分とかわいげのないことを言う。
薬箱を元の位置へ戻して、他にやるべきことはなかったかと、最終確認のために部屋を見回した。
「なんだよ、頑なだな。好きな男でもいるのか?」
そんなことを、笑いながらさらりと訊かれて、思わず返答に詰まる。
船長はそれを、肯定と受け取ったようで、「ほう」と感嘆の声を上げた。
「そんな男がいるのか。おまえにも」
「い、いけませんか」
「いけなかァねェよ。おれの知ってる男か?」
「……いえ」
否定するタイミングを逃してしまった。けれど、船長がいつもの調子に戻りつつあるので、空気を壊さぬよう、その流れに身を任せることにした。
「まだまだ知らないことがあるんだな」
「そうですよ。だから、今度おかしなこと言ったりしたら、お尻ペンペンします」
「だっはっは! なんだそれ! 母ちゃんか!」
もうすっかり、いつもの船長だ。そのことに安堵もしたけれど、少し寂しくもなった。
十五年も片想いをこじらせた女は、さすがに面倒くさい。こんなに拒否しておきながら、やっぱりその程度か、なんて、いじけた気持ちになるのだから。
そしてきっと、実際その程度に違いないのだ。
じゃなかったら、どうしてこんなに魅力的な人が、私なんかを。
「さっ、もう寝て下さい。電気消しますね」
天井からぶら下がっている紐を引いて、電気を消した。今宵は満月のようで、眠るには少し眩しそうだ。
「おやすみなさい」
そう挨拶をして、部屋を出ようと、足早に船長の前を通り過ぎる。
ちょうど、船長の真ん前に来た時だった。
船長の右手がぐわっと伸びてきて、力づくで腰をさらわれた。
「……!」
声を上げる間も無く、あっというまに船長の右腕に収まる。
身体と身体があまりにも近くなって、とっさに船長の肩を掴んで押し戻した。
初めて間近で見る船長の目は、燃えるように赤かった。
「なァ、***」
「せっ、船長っ」
「その男には、どれくらい本気なんだ?」
「はなっ、離してくださっ」
「もう抱かせたのか?」
「っ、」
呼吸が苦しい。金魚みたいに口をぱくぱくしていたら、船長は目を細めて私を見つめた。
「これでもわりと、真剣なんだ。そう無下にされちゃあ、困る」
本当に困ったように、船長は笑った。少し頼りなげな目元が、私の中のほんのわずかな母性本能をくすぐった。
「なァ、***……」
「っ、」
「おれに抱かれてみろよ。うんと甘やかしてやるから……」
初めて聞く、甘い声。囁くように耳元で言われて、卒倒しそうになるほど目眩がした。
「わかっ、分かりましたからっ」
このままじゃあ、自分が自分でなくなりそう。
この甘い空気を振り払うように、今出る精一杯の声を出した。
「分かった? 分かったって、何をだ? おれが本気だということをか? それとも、抱かれることへの了承か?」
「りょっ、両方です……! 両方っ」
「……」
「だからっ、一旦離しっ」
すると突然、船長は、ぱっと手を離した。
息切れしながら船長のカオを見れば、船長はいたずらが成功した子供みたいなカオをしていた。
「そうか! 分かってくれたか! よしっ、じゃあさっそく」
「きっ、今日は無理ですよ……!」
「あァっ? なんでっ」
「だっ、だからっ、そのっ」
「……」
「……しっ、下着がかわいくないからっ!」
「……」
「……です」
やっとのことでそう言うと、船長は目をきょとんとまるくした後、声を上げて笑った。ひとしきり笑ってから、「分かった」と言って、お手上げのポーズをした。
「仕方ねェなァ。今日はあきらめるか」
「あり、ありがとう、ございます……」
「おう」
ふわっと、船長の右手が伸びてきて、大きな手のひらが、頭の上で二回弾む。
私は今日、死ぬのかもしれない。本気でそう思うくらい、一生分の幸運を使い果たした気分だった。
「おやすみ、***」
「おっ、おやすみなさい……」
うわずった声でそう挨拶をして、生まれたての子鹿のような足取りで船長室を出ようとした。
「***」
部屋を出る直前で呼び止められて、船長を見る。
流した目で見つめられていて、また息が止まった。
この人、覇気だけじゃなくて、色気まで自由自在なのだろうか。
「下着、かわいいの用意しとけよ」
「……!」
ついに、声が出なくなった。私は赤べこのように、ひたすら首を上下に振った。
逃げるようにして、部屋を出る。
扉を閉める直前に、船長が、長めに息をついた。
柄にもなく、「緊張」を吐き出しているようなその音に、どうしようもなく胸が騒ついた。
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